反体制
古舘伊知郎的「反体制」イワシの群れ。
まるで高校生クイズの○×問題。
政府が○とこたえたらイワシの群れは×へ、逆に×とこたえたら○へ、「みんな」でぞろぞろ移動する。
群れの「こたえ」は常に体制側に規定され、オートマチックに決まっていく。だからそれは政府の決定を盲信するのと全く同じこと。
そんな思考の怠慢を、ステレオタイプな「反骨精神」の意匠で正当化するわけだ。
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古舘伊知郎的「反体制」イワシの群れ。
まるで高校生クイズの○×問題。
政府が○とこたえたらイワシの群れは×へ、逆に×とこたえたら○へ、「みんな」でぞろぞろ移動する。
群れの「こたえ」は常に体制側に規定され、オートマチックに決まっていく。だからそれは政府の決定を盲信するのと全く同じこと。
そんな思考の怠慢を、ステレオタイプな「反骨精神」の意匠で正当化するわけだ。
①「ユニクロで、千円ちょっとの安値でジーパンが売られていたので手に取ったが、ペラペラだったので買うのをやめた。」
フツーに書くとこんな感じ。
誤読されないようにと思えば、こんなふうに書くこともできる。
②「ユニクロで、千円ちょっとの安値でジーパンが売られていたので私はそれを手に取ったが、ペラペラだったため、買うのをやめた。」
せいぜいここまでではないか。
ガキの作文バージョン。
③「ユニクロで、千円ちょっとの安値でジーパンが売っていたので、買おうと思い、手に取ったが、ペラペラだったので買うのをやめた。」
もはやシュールリアリスム。
④「私はユニクロで千円ちょっとの安値でジーパンが売っていたが、手に取ったがペラペラだったので買おうと思ったが買うのをやめた。」
で、①②の文は「買おうと思った」という主体の心理が省筆されているわけです。「買うのをやめた」でじゅうぶんという判断。③は説明過剰なんです。④は論外として、③に比べて①②は実はテクニカルなの。
現代口語による会話劇というのは、単に日常会話を書き写しているんじゃない。書き手が意識する/しないにかかわらず、こういう思考を経て「フツー」を割り出し、①を選択しているの。それを「技術」というの。
さらに、話者の設定が仮に中学生だったとしたら、そのステレオタイプを踏まえて「ユニクロで、ジーパンが、千円ちょっとの安い値段で売っていたから手に取ったんだけど、ペラペラだったんで買うのをよした。」くらいに崩してやる。
『違法でも何でもない話に対し、明確な証拠も事実関係も示さないまま「怪しい」「疑問は消えない」「悪いことをしているに違いない」と追及し続け、針小棒大に取り上げる。』
システム設計や工事なんかが絡む規模の大きな案件になると、スタートから入札まで何年がかりにもなるわけです。むろん金額も莫大になる。開発コストを回収しなけりゃならない。
こういうのって、そもそも声のかかる業者は限られてくる。その選定過程が透明化されてるのか、されてないのか、単純に私はよく知りません。
ただ、独占禁止法的になんとなくグレーというか、オトナな「臭い」は感じましたよ。べつに何も悪いことはしていないのだけれど、「悪いことをしているんじゃないか」と世間に疑われることを恐れてコソコソするから後ろめたい。
じゃあ完全に出来レースかといえば、そんなことはぜんぜんなくて、仕事の内容が煮詰まっていくうち「こんな条件でやってられっか」って降りちゃうケースだってあるし、そこは資本主義・自由市場なんですよ。
ただ、そこらの業者が官報を見てひょいと入札に現れ、落札するなんてことはないわけです。落としてみたけどできませんでしたー、じゃ済まないわけ。国家予算ですからね。
だったら、そんな形骸化した競争入札などやめて最初から随意契約にしたらいいじゃねえかと思うんですが、そうならんのは、なんか基準があるんでしょうね。これもよく知りません。
ズルイといえばズルイのかもしれない。だから現行のやり方がベストだなんて思わない。けど、じゃあ、どうすべきって私には言えないんです。ややこしいし、私には専門の知識がない。
で、専門知識のある人は口をつぐむでしょう? とくに実務にかかわる当事者は。
なぜか?
3.11のあと、御用学者のレッテルを貼られた科学者が口をつぐんだのと似ている気がするんですよ。それは上記「世間に疑われることを恐れてコソコソする」のと同じ成分だと思うわけです。つまり、単純化された物語を好む大衆の有無を言わせぬリンチ体質、そしてそれを食い物にするマスメディア。
それがいつも建設的な議論を妨げるんです。
朝日新聞は1面トップの記事に「加計ありき 疑念消えず」の見出しで、前川氏の発言を多めに盛り込んだ。「(政府の)説明責任はなお果たされていない」と強調した記事の隣には「『首相信用できない』61%」とする同社の世論調査結果を添えた。
2面では「『丁寧な説明』なき審議」との見出しで、安倍晋三首相らがいなかったことを指摘し、3面では「加計巡り説明不足」と政府側の説明は足りないと断じた。一方、加戸氏の発言は記事では報じず、審査の詳報では加戸氏の発言を引き出した自民党の青山繁晴参院議員の質問を掲載しなかった。
毎日新聞も「加計 論戦平行線」と1面トップで大きく報じる中、加戸氏の発言はなく、これでは地元の獣医学部誘致を文科省などが阻止してきたことが読者には分からない。東京新聞は社会面で加戸氏の発言を取り上げたが、同氏の発言の肝である「ゆがめられた行政が正された」の部分を記載しなかった。
朝日・毎日にとってはこれが「権力を監視する」ということなんでしょう。「権力を監視する」ことと「事実を伝える」こととは、トレードオフの関係にあることになる。
ニュースやワイドショウの中の人って「要約」する能力が著しく欠如しているのかもね。
『ある朝、グレゴール・ザムザがなにか胸騒ぎのする夢からさめると、ベットのなかの自分が一匹のばかでかい毒虫に変わってしまっているのに気がついた。』という一文を前に、「ある朝」というのは具体的には何時何分か、「胸騒ぎのする夢」とはどんな夢か、なんてことばかりを延々とやり、「毒虫に変わってしまっている」ことは一切気にしない。
『前川氏は「調査という言葉遣いは適切ではなかった」と答弁。その上で「個人的な行動がどうして全国紙で報道されるのか。昨年秋にすでに杉田(和博)官房副長官から注意を受けた。そのことがなぜ読売新聞に出たか問題にすべきだと思う。この記事が出た前後に官邸からの動きも感じた。私に対するメッセージだと思う。私以外にも行われているとしたら、国家権力とメディアの関係は問題だ。横行しているとするならば、国民として看過できない」と強い口調で語る。』
https://this.kiji.is/255951668345882107
しばしば私は「児童ブンガク」ってことを言うんです。
私の造語なので、どこまで伝わってるのか心許ないんですが、たとえばジョージ・ワシントンの逸話ってその典型だなと思うんです。
「父親の桜の木を切ってしまったが、その罪を正直に告白したら、むしろ褒められた」というやつ。
この物語の教訓は「罪を正直に告白」するというプリミティブな「善」の肯定ですよね。そうした価値観を強調するために単純化された物語を「ブンガク」とカタカナで呼んでいるんです。
吉田清治のつくり話ってまさにこの構造でしょう?
「罪を正直に告白」して「むしろ褒められ」たい。
しかし、そもそも告白すべき「罪」がないもんだから、自分で捏造してしまう。
この本末転倒を欺瞞とよぶわけですけれど、類は友を呼ぶ。欺瞞仲間の朝日新聞が「第四の権力」を活用してつくり話に信憑性を与え、全世界に広めた最悪のフェイクニュースがいわゆる「従軍慰安婦問題」ですよ。
その後、吉田清治が自ら嘘を認めたもんだから、「強制連行」の前提が崩れ、朝日新聞は「広義の強制性」だとか「女性の尊厳」だとか、その立ち位置を微妙にズラして誤魔化し続けました。
それを2014年に「総括」したはずじゃなかったんですかね? たった三年前のことをもう忘れましたか?
過去の都政、都議会を主導してきた勢力と戦うそうした小池流は、自民党都連と対立した知事選以来、もう1年近く続いている。元知事の石原慎太郎氏にまでさかのぼった市場移転問題や2020年東京五輪・パラリンピックの会場・経費見直し。これらの問題に多くの時間と小池氏自身の労力が費やされてきた。
また、選挙結果について「憲法、自民党の改憲案に明確な都民の『ノー』の審判が下ったと受け止めるべきだ」と主張した。
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