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2017年7月

2017年7月30日 (日)

反体制

古舘伊知郎的「反体制」イワシの群れ。
まるで高校生クイズの○×問題。
政府が○とこたえたらイワシの群れは×へ、逆に×とこたえたら○へ、「みんな」でぞろぞろ移動する。
群れの「こたえ」は常に体制側に規定され、オートマチックに決まっていく。だからそれは政府の決定を盲信するのと全く同じこと。
そんな思考の怠慢を、ステレオタイプな「反骨精神」の意匠で正当化するわけだ。

2017年7月29日 (土)

新橋の居酒屋

忘れっぽいのに執念深く、就活(?)時に感じた違和を覚えている。
バブルの終わり。空前の売り手市場。当時の学生に人気だったのはマスコミと広告代理店で、「識者」によってこういうことが真顔で言われた。
「科学技術はもう飽和状態。電機メーカーは横並びで、これからはイメージ戦略で差別化するしかない」
んなわけあるか、と私は思っていた。
 
技術の進歩はオートマチックに維持されるという「神話」。土地の値段は下がらないというのと一緒だ。
これって今、民進党なんかがいう「成長」を否定するような政策とも通底していると私は思う。つまり、現状程度の経済は、ほっといても維持されるという前提。
優雅に泳いでいるように見える水鳥が水面下で足をバタバタさせていることなど想像もしないのだ。
 
政治って「正解」が演繹的に求められるもんじゃない。だから「結果責任」といわれるわけだ。
じゃあ「結果」って何か? 
国民にとって以前よりも良くなったか、悪くなったか。つまり過去との比較における差異である。
しかし世の中には私以上に忘れっぽい人が多くいるらしく、差異を求めることができない。
 
デフレに逆戻りというのはじゅうぶんあり得る。フェイクニュースを流す多くのメディアが望むように安倍政権が倒れれば、それはあっというまに実現するだろう。
そうすればまた就職氷河期がやってくる。雇用は悪化し、自殺者も増える。
そのときはまた「政治が悪い」と誰かを悪者にして済ませるか。
日本全国新橋の居酒屋である。

2017年7月24日 (月)

会話劇

①「ユニクロで、千円ちょっとの安値でジーパンが売られていたので手に取ったが、ペラペラだったので買うのをやめた。」
フツーに書くとこんな感じ。

 
誤読されないようにと思えば、こんなふうに書くこともできる。
②「ユニクロで、千円ちょっとの安値でジーパンが売られていたので私はそれを手に取ったが、ペラペラだったため、買うのをやめた。」
せいぜいここまでではないか。
 
ガキの作文バージョン。
③「ユニクロで、千円ちょっとの安値でジーパンが売っていたので、買おうと思い、手に取ったが、ペラペラだったので買うのをやめた。」

 
もはやシュールリアリスム。
④「私はユニクロで千円ちょっとの安値でジーパンが売っていたが、手に取ったがペラペラだったので買おうと思ったが買うのをやめた。」
  
で、①②の文は「買おうと思った」という主体の心理が省筆されているわけです。「買うのをやめた」でじゅうぶんという判断。③は説明過剰なんです。④は論外として、③に比べて①②は実はテクニカルなの。
 
現代口語による会話劇というのは、単に日常会話を書き写しているんじゃない。書き手が意識する/しないにかかわらず、こういう思考を経て「フツー」を割り出し、①を選択しているの。それを「技術」というの。
さらに、話者の設定が仮に中学生だったとしたら、そのステレオタイプを踏まえて「ユニクロで、ジーパンが、千円ちょっとの安い値段で売っていたから手に取ったんだけど、ペラペラだったんで買うのをよした。」くらいに崩してやる。

ひたすらに倒閣運動にいそしむメディアの自殺行為

『違法でも何でもない話に対し、明確な証拠も事実関係も示さないまま「怪しい」「疑問は消えない」「悪いことをしているに違いない」と追及し続け、針小棒大に取り上げる。』
それが「魔女裁判」に他ならないということが、日頃「民主主義」の大切さをいう朝日や毎日の高学歴記者たちにはなんでわからないのかがわからない。
  
イデオロギーの話なんかしていない。その論点すら理解できぬようで、勝手に作った「アベの仲間/アベの敵」という二項対立に基づき、後者こそが「正義」であるというお粗末な思考態度。それは、新聞社の「中の人」のツイートなどからも見て取れ、なるほど書いてる人間がこれならば、そりゃあ、ああいう紙面にもなるよと絶望的な気分になる。
  
構造的洗脳という言葉を思いついた。
「アベ政治って許せないよね」
「ますます疑惑が深まった」
「丁寧な説明が必要だわ」
この環境に置かれた者は周囲にに嫌われたくない一心で「だよねー」ってなるんじゃないか。
  
臆病者の処世術。そのうちそれが「処世術」であったことすら忘れてしまう。
私はこれを物欲しげな芸術家界隈の紋切り型な言説にヒシヒシと感じているのだが、ジャーナリストも一緒ではないか? 
そこには「個」というものがない。イワシの群れの「細胞」である。

2017年7月22日 (土)

口をつぐむ

システム設計や工事なんかが絡む規模の大きな案件になると、スタートから入札まで何年がかりにもなるわけです。むろん金額も莫大になる。開発コストを回収しなけりゃならない。
こういうのって、そもそも声のかかる業者は限られてくる。その選定過程が透明化されてるのか、されてないのか、単純に私はよく知りません。
ただ、独占禁止法的になんとなくグレーというか、オトナな「臭い」は感じましたよ。べつに何も悪いことはしていないのだけれど、「悪いことをしているんじゃないか」と世間に疑われることを恐れてコソコソするから後ろめたい。
 
じゃあ完全に出来レースかといえば、そんなことはぜんぜんなくて、仕事の内容が煮詰まっていくうち「こんな条件でやってられっか」って降りちゃうケースだってあるし、そこは資本主義・自由市場なんですよ。
ただ、そこらの業者が官報を見てひょいと入札に現れ、落札するなんてことはないわけです。落としてみたけどできませんでしたー、じゃ済まないわけ。国家予算ですからね。
だったら、そんな形骸化した競争入札などやめて最初から随意契約にしたらいいじゃねえかと思うんですが、そうならんのは、なんか基準があるんでしょうね。これもよく知りません。
 
ズルイといえばズルイのかもしれない。だから現行のやり方がベストだなんて思わない。けど、じゃあ、どうすべきって私には言えないんです。ややこしいし、私には専門の知識がない。
で、専門知識のある人は口をつぐむでしょう? とくに実務にかかわる当事者は。
なぜか?
3.11のあと、御用学者のレッテルを貼られた科学者が口をつぐんだのと似ている気がするんですよ。それは上記「世間に疑われることを恐れてコソコソする」のと同じ成分だと思うわけです。つまり、単純化された物語を好む大衆の有無を言わせぬリンチ体質、そしてそれを食い物にするマスメディア。
それがいつも建設的な議論を妨げるんです。

2017年7月16日 (日)

挙証責任


『今治市に設置予定の獣医学部は定員160人(既に設置審議会の審査で20名減員になったと報じられていますが)、そのうち一体、何人が国家試験に合格できるのでしょうか。獣医学部は出たけど獣医師国家資格がとれない、では話になりません。』と郷原氏はいう。
 
しかしなんで話にならんのか。私の同級生にも獣医学部を出て農水省の役人になったのがいるぞ。
だいたい「国家試験に合格できるのか」という「大きなお世話」で、認可申請を受け付けることすらしない「岩盤規制」を正当化できるのか? 
しかしまあそれは価値判断の話。
  
『規制緩和というのは、「挙証責任」だけで決まるような単純な話ではありません。規制官庁が「正当な理由の説明を適切に行う」のは当然ですが、その説明の程度如何で、「挙証責任」を果たしたか否かが判定され「勝負が決まる」という「ゲーム」のような話ではありません。』と郷原氏はいう。
 
「勝負が決まる」という文言は、高橋洋一氏が便宜的に使った言葉だろう。それを俗情にこすりつける形で『「ゲーム」のような話ではありません』というのは、たとえばフロイトの話をしているときに「父殺し」という言葉を使ったら、「父を殺すなどけしからん、家族は大切!」とか怒って見せるようなもの。そうして発言の意図を文脈から読み取れず「だよねー、そんな人の言うことは信用できないわー」とか思っちゃうようなバカを当て込む態度。
 
一連のやり取りで上念氏がいうように『国家戦略特区の諮問会議の議事録によれば、申請者が要件充足を主張すれば原則採用とし、要件充足しないと省庁が考える場合には省庁に説明義務を課すべき、との甘利議員の発言が収録されています。つまり、本件における挙証責任は文科省にあるということです。さらに、それを果たせなかったのも文科省。』ということ。これに尽きるだろう。

2017年7月12日 (水)

朝日と毎日は「ゆがめられた行政が正された」の加戸守行前愛媛県知事発言取り上げず

 
朝日新聞は1面トップの記事に「加計ありき 疑念消えず」の見出しで、前川氏の発言を多めに盛り込んだ。「(政府の)説明責任はなお果たされていない」と強調した記事の隣には「『首相信用できない』61%」とする同社の世論調査結果を添えた。
2面では「『丁寧な説明』なき審議」との見出しで、安倍晋三首相らがいなかったことを指摘し、3面では「加計巡り説明不足」と政府側の説明は足りないと断じた。一方、加戸氏の発言は記事では報じず、審査の詳報では加戸氏の発言を引き出した自民党の青山繁晴参院議員の質問を掲載しなかった。
毎日新聞も「加計 論戦平行線」と1面トップで大きく報じる中、加戸氏の発言はなく、これでは地元の獣医学部誘致を文科省などが阻止してきたことが読者には分からない。東京新聞は社会面で加戸氏の発言を取り上げたが、同氏の発言の肝である「ゆがめられた行政が正された」の部分を記載しなかった。

朝日・毎日にとってはこれが「権力を監視する」ということなんでしょう。「権力を監視する」ことと「事実を伝える」こととは、トレードオフの関係にあることになる。

  
民主主義国家である我が国において、主権者である国民は投票行動を決める際に、おもにマスコミ情報を使用します。
朝日・毎日は、主権者の手助けをしてやろうとしてるんでしょう。愚民どもが選挙で「間違った」選択をしないよう、あらかじめ選択肢を消しておいてやる。これぞ「権力の監視」であり、ジャーナリズムの使命である。こういうことなんでしょう。
新たな獣医を誕生させぬために、供給元である獣医学部を新設させないのと同じ設計主義的発想。
その独善的な「おせっかい」が、民主主義の破壊に他ならないというんですよ。
体制/反体制の話をしてるんじゃないってわかります? 
イデオロギーに囚われると、そういう単純な二項対立でしか、ものを考えられなくなるんです。

2017年7月11日 (火)

毒虫

ニュースやワイドショウの中の人って「要約」する能力が著しく欠如しているのかもね。
『ある朝、グレゴール・ザムザがなにか胸騒ぎのする夢からさめると、ベットのなかの自分が一匹のばかでかい毒虫に変わってしまっているのに気がついた。』という一文を前に、「ある朝」というのは具体的には何時何分か、「胸騒ぎのする夢」とはどんな夢か、なんてことばかりを延々とやり、「毒虫に変わってしまっている」ことは一切気にしない。

べったり?

『前川氏は「調査という言葉遣いは適切ではなかった」と答弁。その上で「個人的な行動がどうして全国紙で報道されるのか。昨年秋にすでに杉田(和博)官房副長官から注意を受けた。そのことがなぜ読売新聞に出たか問題にすべきだと思う。この記事が出た前後に官邸からの動きも感じた。私に対するメッセージだと思う。私以外にも行われているとしたら、国家権力とメディアの関係は問題だ。横行しているとするならば、国民として看過できない」と強い口調で語る。』
読売新聞の中の人が「官邸のリーク」を否定しているのを聞いたことがあるけれど、ホントのところは私は知らない。
ただ、「買春」の裏取りもされてないショボイ記事を、こんなデカデカと載せる意味あんの? とは私も思ったし、何よりそのタイミング。「官邸のリーク」による「報復」と読者に思われてもしょうがないんじゃないか。
 
「読者に思われてもしょうがないんじゃないか」をH.R. ヤウスは「期待の地平」といった。正確な定義じゃないのだけど、いつかどっかで見たことのある「通俗的なパターン」くらいに私は理解している。
 
朝日新聞や民進党など、前川氏を利用して倒閣運動を仕掛けた側は、「元官僚の勇気ある告発」という「通俗的なパターン」の物語を用意した。
読売新聞はその構図に乗ってしまった。少なくとも結果的には。
だから読売のこの記事は、「政権べったり」というよりも「期待の地平べったり」だったのだ。

2017年7月 8日 (土)

【特集】あふれるフェイク、真実はどこ? 「報道しない自由」の壁

https://this.kiji.is/255951668345882107

しばしば私は「児童ブンガク」ってことを言うんです。

私の造語なので、どこまで伝わってるのか心許ないんですが、たとえばジョージ・ワシントンの逸話ってその典型だなと思うんです。
「父親の桜の木を切ってしまったが、その罪を正直に告白したら、むしろ褒められた」というやつ。
この物語の教訓は「罪を正直に告白」するというプリミティブな「善」の肯定ですよね。そうした価値観を強調するために単純化された物語を「ブンガク」とカタカナで呼んでいるんです。
 
吉田清治のつくり話ってまさにこの構造でしょう? 
「罪を正直に告白」して「むしろ褒められ」たい。
しかし、そもそも告白すべき「罪」がないもんだから、自分で捏造してしまう。
この本末転倒を欺瞞とよぶわけですけれど、類は友を呼ぶ。欺瞞仲間の朝日新聞が「第四の権力」を活用してつくり話に信憑性を与え、全世界に広めた最悪のフェイクニュースがいわゆる「従軍慰安婦問題」ですよ。
 
その後、吉田清治が自ら嘘を認めたもんだから、「強制連行」の前提が崩れ、朝日新聞は「広義の強制性」だとか「女性の尊厳」だとか、その立ち位置を微妙にズラして誤魔化し続けました。
それを2014年に「総括」したはずじゃなかったんですかね? たった三年前のことをもう忘れましたか?

2017年7月 5日 (水)

マスコミ

以前、いわゆる「放射脳」を批判して私はこういう文章を書きました。
 
『小学生の頃、クラスにいじめられっこの女子がいて、男子から無根拠にバイ菌扱いされていた。
恐ろしいのは、「汚ねえ」「触んな」「えんがちょ」と遠ざけられるのが日常的に繰り返されるうち、いじめる側はもとより、いじめられてる側さえもが、まるでほんとうに自分が汚いもののように思い始めてしまうことだ。
今、「無根拠に」といったが、もしも彼女に精密な検査をしたならば、たしかに何らかの「バイ菌」めいたものが検出されただろう。
他の誰からも検出されるのと同程度に!
上記いじめの例は、悪意があるだけまだマシだ。己の行為を自覚しているのだから先生にぶっ叩かれれば反省もするだろう。
ところがそんな悪意すらなく、バイ菌の感染するのを“純粋”に恐れて「えんがちょ」する者がいる。こういう“ピュア”な連中が一番始末に負えない。
彼らのロジックはこうだ。程度はどうあれ、バイ菌の検出されたことに変わりはないのだから、「えんがちょ」しとくに越したことはない、と。』
 
要するに「呪い」なんですよ。根拠のない批判を繰り返し、対象にある種の印象を染みこませる。陰湿なイジメってこういう構造になっている。
三つ子の魂百まで。あの教室の同級生が大人になって社会を形成している。だから、この陰湿さというのは大衆というものの性癖だと思うんです。
そこに理性の水を差すのがジャーナリズムだとか知識人だとかの役割じゃないんですか? 私の考えは間違ってますか?
ところが最近はどうですか。多くのマスコミは積極的に大衆の集団ヒステリーを誘発しようとしている。それで何が「民主主義」ですか。あなた方こそが民主主義の敵ですよ。
ほんとうにどうかしている。ほんとうに。

2017年7月 3日 (月)

“復讐”は終わった…だが小池流はどこに向かうか判然としない

 
過去の都政、都議会を主導してきた勢力と戦うそうした小池流は、自民党都連と対立した知事選以来、もう1年近く続いている。元知事の石原慎太郎氏にまでさかのぼった市場移転問題や2020年東京五輪・パラリンピックの会場・経費見直し。これらの問題に多くの時間と小池氏自身の労力が費やされてきた。
子供の頃、プロレスが流行りまして。テレビでよくやっていたから私もときどき観てました。
ワン・ツー、とカウントされたあたりで、押さえ込まれた者の味方がリングに飛び出し、押さえ込んでいる者の背中を蹴っ飛ばしたりする。レフリーに注意されるわけですが、ロープの外にひきあげれば、それ以上のお咎めはなしで試合続行。挙げ句に、あからさまな凶器による攻撃を仕掛けた方が「勝者」になってしまったりする。
 
もうぜんぜん解せないわけです。こんな不条理なことがあっていいのだろうか?
でも、多くの同級生はそれを楽しんでいた。今にして思えばみんな「大人」だったんですね。
なんだか私は一生「大人」になれそうもない。

共産・小池氏「改憲に『ノー』の審判が下った」

また、選挙結果について「憲法、自民党の改憲案に明確な都民の『ノー』の審判が下ったと受け止めるべきだ」と主張した。

 

ぜんぜん意味が分からないわけです。
こういうのを私は「牽強付会」とか「我田引水」とか言ったりしますけれども、たぶん私が間違っている。少なくとも東京都民はそういう言い方をしないんです、たぶん。
 
名前を失念しましたが、北大経済学部のなんとかという教授。
当時、『朝まで生テレビ』のパクリみたいなのが北海道ローカルでもやられてまして、学生に「なぜ、先生は出演しないのか? 同僚の先生(人気のゼミだった)は出ているのに」と言われてたのを覚えてます。
ああいうところでは「正確」な話はできない、みたいなことを教授はこたえてました。「できない」ではなくて「する」のが学者の務めだろう、と食ってかかられ、うんざりした顔をしてましたね。
 
たしかに、うんざりします。
筋が通っているとかいないとか、蓋然性の有無だとか、そんなことより確証バイアスを刺激する「声のでかさ」が重視されるんですよ。
私の目には「大衆」というものが巨大な森永卓郎に見える。

2017年7月 2日 (日)

自民・佐藤正久参院議員 「違憲」批判は自衛官の胸に突き刺さる 改憲で誇り持てる環境を

『「憲法違反」と言われることは当然、自衛官の胸に突き刺さりますよ。自衛隊を憲法に明記することで「違憲かもしれない」と言われなくなるだけでも意義は大きいんです。』
 
***
 
かつて大江健三郎は「防衛大学生はぼくらの世代の一つの恥辱」といいました。
すごい言い分だなと思います。
    
東大の井上達夫教授は「憲法9条の存在こそが護憲派・改憲派双方の自己矛盾と欺瞞を生み、本格的な安全保障論議を妨げてきたと思われます。 」といい、「9条削除論」を唱えている。
http://blogos.com/article/130049/
 
「9条削除」と聞いただけで「こんなのが東大教授とは!」と脊髄反射的に思考停止状態に陥る「護憲派」というのはいまだにいて、そのおそるべき確証バイアス+正常性バイアスでもって「戦後70年、日本の平和を守ってきたのは9条」という手垢まみれの「おとぎ話」(=児童ブンガク)を持ち出すわけです。
    
井上教授は「護憲派」を「原理主義的護憲派/修正主義的護憲派」と分類する。
  
『〈自衛隊は違憲だと主張し続けることは、専守防衛の枠に抑え込むのに政治的に有効だ〉
これは実際に原理主義的護憲論者が展開している議論なのですが(愛敬浩二『改憲問題』ちくま新書など)、つまり実際に「非武装」が実現可能だなんて、彼ら自身信じていないわけです。専守防衛の自衛隊は違憲だけど必要だから、違憲の烙印を押し続けながら存在させよう、と。要するに、違憲状態の固定化を望んでいる。これの一体どこが護憲なのか。しかも違憲状態固定化容認の姿勢を、いまや世間に公然とばらしている。
彼らはこれを「政治的に賢明な、大人の知恵」だという。私からすれば、おぼっちゃま的な政治的幼児性以外のなにものでもありません。彼らの視点に完全に欠け落ちているのは、たとえば自衛隊員の立場ですよ。「お前らは違憲の存在で、法的には認知してやらないけれど、一朝事あらば命を張って我々を守れ」と言っているに等しい。』
おぼっちゃま的な政治的幼児性。
そのとおりだと私も思います。そもそも脆弱な思考の空白をポエムみたいな言葉の彫琢で埋め合わせる。それで何ごとかを悟ったような顔をする。
要するに「卑怯者」なんですよ。
バカがバカゆえに己のバカを自覚しないのと同様に、卑怯者は卑怯者であるがゆえに、己の欺瞞から目をそらす。

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