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2017年6月20日 (火)

ジャーナリズム

歴史家で文芸批評家のヘイドン・ホワイトは、歴史家の仕事が年代記の中に潜在している〈物語〉を“発見”することにあるという通念に対して、こんな疑問を投げかけているのだそうだ。

『たとえば、年代記に記載された王の死という出来事は、様々な出来事の一要素としてたんにそこにあるにすぎない。王の死が〈物語〉の始めであるか、終りであるか、あるいはまたただの移行にすぎないかを決定するのは、歴史家の判断力、ないしは広義の判断力に委ねられている。歴史家の前にあるのは、年代記の形式に整理されてはいるものの実は怖るべき渾沌(カオス)の状態であり、彼はこの渾沌のなかから語るべき要素を選択しなければならないのだ。
この選択と排除の操作を通じて、歴史家はプロットとしての〈物語〉を編成するのである。』(前田愛『増補 文学テクスト入門』)

ニューアカの残り香を嗅いで育った私には、ものすごくしっくりくる考え方なわけです。
良くも悪くも「相対化」が当時のキーワードで、何につけ「断定」することに躊躇した。不動の「真実」なんてものが、あらかじめそこにポンと“存在”しているわけじゃないんだと。
私は昔を懐かしんでいるわけじゃないんですよ。
上記の「歴史家」を「ジャーナリスト」に置き換えてみればいい。自分では「真実」を「発見」したと思っていても、実は選択と排除の操作を通じてプロットとしての〈物語〉を編成しているにすぎない。そういう自覚があれば、容易に物事を「断定」することなんかできないハズなんです。己の恣意性を排除する意識が働くから。
そのうえで、しかしそれでも語らねばならない、という弁証法的な葛藤が、かろうじて「事実」を確定するんだと思うんですよ。
ソボクな正義感やアツさなんかじゃ「事実」には迫れないことを知っている。そのことを私は「技術」と呼んでいるんです。

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