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2017年6月 3日 (土)

カウシック・バスー『見えざる手をこえて』

このモデルでは、完全な選択の自由とは、個人の予算集合から財のいかなる組み合わせを選んでもよい自由を意味することに留意しよう。しかし、モデルの外で考えれば明らかに、人間には消費の組み合わせを選ぶ以外に多くのことが可能である。虐待を行い、盗みを働くことができる。脅したり、中傷したり、うわさを流すこともできる。(中略)つまり、現実の人間は、予算集合のみならず、外にありうる多数の物事から選択を行う。人間が実際にこうした行為のいくつかを選択すると、社会は依然として効率性を実現するだろうか。答えはもはや自明ではない。
見えざる手の定理の第一の魅力、特に保守思想の砦としての魅力は、最大限の個人的自由を伴う競争経済が社会的な最適性を保証するという一般的信念にあることをはっきりさせておきたい。しかしながら、より詳細に吟味すると、そこでそこで確保されている自由というのは、自らの予算集合のなかから洗濯する自由でしかない。予算集合を越えて「機会集合」を「拡張し」、私たちが実際に実現できる多くの物事を行う自由を含めるならば、もたらされる結果はもはや必ずしも最適ではない。
現実的でより大きな個人の実現可集合から出発して見えざる手の定理に辿り着きたいのであれば、私たちは以下のように述べなければならないだろう。何らかの理由で各個人の自由が制限され、個人は自らの予算集合からしか選べないとしたら、私たちは社会的最適性の実現を確信できるだろう

私は「見えざる手」をイデアみたいに考えてるのかもしれないな。
そういうプリミティブな力学が完璧に働く層が足元の深いところにあって、その上に「虐待を行い、盗みを働くことができる。脅したり、中傷したり、うわさを流すこともできる。」ような泥臭い現実的な層がアニメのセル画みたいに重なり合っている。
そうした中間層によって遮断され、弱められてはいるけれども、「見えざる手」の力学は依然として重力みたいに我々に働きかける。そういうイメージがある。
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