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2017年6月11日 (日)

前田愛『文学テクスト入門』

『一見取るに足らない場面で語られぬままにされたこと、会話の中での飛躍、こうしたことが読者に空所を投影によって補いたい気持ちを起こさせる。読者は出来事の中に引き入れられ、語られてはいないがこのように考えたはずだと想像するようになる。これがダイナミックな過程の始まりである。語られた言葉は、語られぬままになっていることに結びつけられて、はじめて言葉としての意味を持つように思える。だが語られなかったことは、語られた言葉がもつ含意であって、意味に形や重みを与える言述(ステイトメント)ではない。ところが、語られなかったことが読者の想像力の中で生み出されるようになると、語られた言葉は、初めに想像したよりも遙かに大きな意味の幅をおびてくる。』(ヴォルフガング・イーザー『行為としての読書』) 
これを逆手にとって、作者がわざと肝腎なことを言い落とすことがあります。レティサンス(黙説法)と呼ばれる技法。本書で前田愛が例に引いている樋口一葉『たけくらべ』なんかはこれに該当します。
が、同じく例に引かれている森鴎外『雁』の場合は、ちと違う。
引用すると長くなるのでざっ.と要約をすると「お玉さんは末造の妾。でも密かに医大生の岡田が好き。末造が出張し、お玉さんにチャンス到来。告白しようと、いつも岡田が通る道で待ち伏せ。しかし、やってきた岡田と一緒に、たまたま〈僕〉がいた。お玉さん、告白失敗。翌日、岡田は学者の助手に採用されてドイツへ旅立つ」
 
前田愛はこう書きます。
「岡田がドイツに渡航するためには、当然、渡航手続きをとらなくてはいけない。つまりパスポートを取り、またビザを受けなければいけない。かなり早い時期にその手続きをすませなければならないとすれば、岡田とお玉の恋は、はじめから成立不可能な状況に置かれていたことになる。しかしこのへんの事情は、『雁』というテクストからは一切排除されている。(略)つまりここで鴎外は、偶然というものを強調することによって、あらかじめ岡田が傷つかない、そういう仕掛けを読者に提供した。」   
蓮實重彦は「フィクション的な許容度」ということをいいました。
『親しい友人が「きみ、これは一八四九年のできごとだろ。そうだとすると、ここにはあの建物は見えていなかったんだから、この挿話は削りたまえ」といってもフローベールはどうもそれに耳を傾けた気配がない。ですから『感情教育』は歴史的におかしいところがたくさんある。まだ存在するはずもない路線を列車が堂々と走っていたりする。しかし、今日のフランス人でさえ、それを顔をしかめたりもせずに読んでいます。」(『「結婚詐欺」からケイリー・グラントへ 現代日本の小説を読む』「早稲田文学」2003年7月号)   
後からよくよく考えてみれば解決されていない「謎」や合ってない「辻褄」。創作の過程で生み出されるその程度の「謎」や「辻褄」は、無理に解決したり合わせてやる必要もないのだ、と私は思っています。しらばっくれていい。
自作に几帳面な書き手は、つい自ら先回りしてこれを「解説」してしまったり、過剰なつじつま合わせをしたりする。そうした態度が「誠実」だと思い込んでいる。しかし、こと創作において、「正直」であることが必ずしも美徳であるとは限らないわけです。
フローベールを見習って、親しい友人の忠告さえも「聴かぬ」勇気。
もっともこれが難しいわけです。なぜなら「独りよがり」と見分けがつきにくい。それを見分けるために、私は推敲段階でテクスト論を活用してきた(し、今もしている)。
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