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2017年6月

2017年6月29日 (木)

ジョージ・オーウェル『動物農場』

『スペインでのこうした人間狩りは、ソ連での大粛清とほぼ並行して行われており、いわばそれを補うものとなっていた。スペインでもロシアでも、糾弾の中味(つまりはファシストとの共謀)は同じで、スペインに関する限り、そうした罪状はどう見てもウソだったと考えている。(略)
民主国の啓蒙された人々の意見を、全体主義的なプロパガンダがどれほど簡単にコントロールできてしまうかを教えてくれたのだ。
妻も私も、罪もない人々が単に異端の疑いをかけられただけで投獄されるのを見てきた。それなのにイギリスに帰ってみると、常識ある知識豊富なオブザーバーたちの実に多くが、モスクワ裁判を報じる新聞報道に書かれた、実に突拍子もない陰謀だの裏切りだのサボタージュだのの嫌疑を鵜呑みにしているのだ。(略)
さらに、イギリスのような国の労働者や知識人たちは、今日のソ連が1917年とはまったく違う国だというのを理解できない。その原因の一部は、当人たちがそれを理解したくない(つまりどこかに真の社会主義国が存在すると信じたい)ということだし、一部は公共生活においてそこそこの自由と穏やかさになれてしまったために、全体主義というものがまったく想像できないということだ。』
(ジョージ・オーウェル「『動物農場』ウクライナ語版への序文」山形浩生訳) 

21世紀の日本でもまったく他人事ではないですね。
すでに明らかになった事実には耳目を閉ざして「報道しない自由」を行使し、疑いをかけた相手に何ひとつ具体的な証拠を出さないまま「丁寧に説明しろ」と「自白」を迫る「第四の権力」。「倒閣」の意図が「透けて見える」どころか、もはや隠そうともせず、あられもない姿で。
 
本編は、端的にいって、リベラルの欺瞞を描いた寓話です。

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BROKEN GENERATION

私が高校生の頃、ラフィンノーズは『BROKEN GENERATION』で「♪醒めてるワケじゃないのさ~」と歌った。(https://youtu.be/foIbzhIPFJQ
ボーカルのチャーミーは1961年生まれだというから「新人類」とか呼ばれた世代。「政治的無関心」をいわれた彼らの向こう側に、かつてあったらしい「政治的〈有〉関心」の象徴としてこの60年・70年安保闘争を私は解釈してきたわけです。
今は、違いますね。そういう文脈でのみで語るのは間違いであるとハッキリ言える。
 
ジョージ・オーウェルは「『動物農場』ウクライナ語版への序文」でこう書きました。
 
『民主国の啓蒙された人々の意見を、全体主義的なプロパガンダがどれほど簡単にコントロールできてしまうかを教えてくれたのだ。(略)イギリスのような国の労働者や知識人たちは、今日のソ連が1917年とはまったく違う国だというのを理解できない。その原因の一部は、当人たちがそれを理解したくない(つまりどこかに真の社会主義国が存在すると信じたい)ということだし、一部は公共生活においてそこそこの自由と穏やかさになれてしまったために、全体主義というものがまったく想像できないということだ。』

2017年6月28日 (水)

ぼよよん行進曲

「ぼよよん行進曲」はなぜ泣けるのかという「論争」がかつてあった。
サビのコード進行はたぶん、こう。
B♭/E♭/Cm/D7/Gm/B♭/Cm/F7/
Gm/E♭/Cm/D7/Gm/B♭/Cm・Dm7/Cm・F/B♭
で、D7が「泣きのコード」だからという仮説を目にしたのだけど、門外漢ながら、それは違うでしょと思う。
キモは二列目頭のGmですよ。
最初の「ぼよよよーん」がB♭だから、二回目の「ぼよよよーん」もそのつもりでいると「膝かっくん」されるんですよ。B♭が相対化される。そんで泣ける。というのが私の説。

2017年6月26日 (月)

属人的

「貧困調査」とかアホかと思うけど、それをもって前川氏という人物が信頼できる/できないなんて、私はたいして興味がない。
基本、テクスト論者なので、そういう属人的な判断はしたくない。客観的な事実に基づく確からしい見立てを覆すだけのことを前川氏は何も言ってない。それだけのこと。

獣医学部新設の特区を全国展開と安倍首相

あーあ。
せっかく『私や日本獣医師政治連盟の北村委員長を始めとした本会の役職員は、できれば獣医学部新設決定の撤回、これが不可能な場合でもせめて1校のみとするよう、山本幸三地方創生担当大臣、松野博一文部科学大臣、山本有二農林水産大臣、麻生太郎自民党獣医師問題議員連盟会長、森英介同議員連盟幹事長など多くの国会議員の先生方に、本会の考え方にご理解をいただくよう奔走いたしまし』て『大臣及び国会議員の先生方への粘り強い要請活動が実り、関係大臣等のご理解を得て、何とか「1校に限り」と修正された改正告示が、本年1月4日付けで官報に公布・施行されました。』のに。
何のために民進党玉木議員に100万円を掴ませたのか。

オリエンテーション

http://news.livedoor.com/lite/article_detail/13245549/

入学時のオリエンテーションで「ちょっと時間、もらいますよ」と「乱入」してきて演説をおっぱじめた男を思い出します。

あれが中核派だったのか革マル派だったのか、あるいは民青だったのか、いまだにわかりません。でも、そのうちのどれかだろうなと察しがつくのは、その後食堂でそういうビラをしょっちゅう目にしたからです。
 
大学構内の広大な「空き地」に無許可で芝居のテントを建てたのは私の先輩とその仲間。当局に「放校処分にすんぞ!」とスゴまれて撤去するまでに、私も何度か遊びに行きましたけど、まあ、彼らは基本的に左翼と親和性が高いわけです。国鉄労組がどうだとか泊原発がどうだとか言ってるやつが必ず混じってる。アパートに遊びに行ったら、押し入れの襖にでかでかと「日本全国原発マップ」とか貼ってあるわけです。もう30年も前の話。
個人的に話してみると「いい人」でしたよ。

中央分離帯

マンガ『動物のお医者さん』のモデルになった大学に通ってました。
ディスコで遊んだ帰りでしょうか、ススキノでタクシーが中央分離帯に乗り上げる事故を目撃したんです。あーあ、やっちまったなあ。
合理的に考えれば、運転手は車を降りて、すぐそこのススキノ交番に行くべきでした。しかし気が動転してたのか、彼はさらにアクセルを踏み込んだんですね。イチかバチかに賭けたのかもしれない。あるいはもともと合理的判断のできない人間だったのか。
車はむろんにっちもさっちもいかない。むしろ車体の「腹」にコンクリートが深くめり込んで事態は悪化してました。

すでに客観的事実に基づく「加計学園問題」のストーリーって明らかになっていますね。よほどの情報弱者でない限り、誰でも知っているし、よほど因果律の歪んだ空間に住んでいない限り、その確からしさを理解できる。
あーあ、やっちまったなあ、しかしいったい何度目だ? というヤジウマの見守る中、運転手は懸命にアクセルを踏み込んでいる。

2017年6月24日 (土)

対テロ目的ではない?

 
ところが今の時代、裏を取っちゃう人がいるんですよ。
 
ハイデガーはこう言っている。
『共同相互存在にとって重要なのは、語られているということである。(略)さらに、語ることは、それについて語られている存在者との第一次的な存在関連を喪失している、もしくは一度として獲得していないがゆえに、語ることが伝達し分かつのは、この存在者を根源的に領有したという様式においてではない。語ってひろめ、まねて語るという途によってなのである。(略)まねて語ることはそこでは伝聞にもとづくというよりは、読み囓りを糧としている。』(『存在と時間』熊野順彦訳)
 
このことをこの新聞社の中の人はよーくわかっている。
また「見解の違い」とかなんとかいってうやむやにすれば、記事に基づいて語られた言説や成されたこと(ex.質問主意書の提出)が元の記事の信憑性を高め、「事実」として大衆の記憶に残るのだからそれでいい。巨悪アベを倒すという絶対の社会正義の為には嘘も方便、愚かな大衆はそんな事実関係など気にせずに黙って俺についてこい。てなもんだろう。
 
ジャーナリストの矜恃っていったい何でしょうね。

2017年6月23日 (金)

蔓延するフェイクニュース 朝日新聞のスクープ記事もなぜか不自然 加計学園問題の文書写真が…

 
お笑い芸人がネット上のデマに苦しめられたという記事を朝日新聞が書いている。
〈そしてネットの情報を疑うこと。知名度の高いサービスでも、情報を書き込んでいるのは匿名の他人であることが多い。たとえばウィキペディアを辞書代わりに使う人も多いですが、ずっと私は自分の項目に『殺人事件に関与』したと書かれていました〉
 
翻って紙媒体の新聞は信用できる、ということだろうか。
そうした通念があるのは事実だろう。そこを通ったことで情報は権威づけられる。大衆はその内容をいちいち精査しない。そんなヒマはない。「権威主義」にはそれなりの理由がある。
 
そんな大衆が主権者であるのが民主主義というもの。
その構造を「権威」ある情報発信者が政治的に利用すれば、とんでもない「暴力」になるわけだ。
「従軍慰安婦強制連行」の誤報(捏造)を見ればいい。
「吉田調書」の誤報(捏造)を見ればいい。
そしてこの「加計・森友問題」にかんする多くのマスコミ報道は、それらに並ぶ最悪のフェイクニュースとして振り返られることになるだろう。

2017年6月20日 (火)

ジャーナリズム

歴史家で文芸批評家のヘイドン・ホワイトは、歴史家の仕事が年代記の中に潜在している〈物語〉を“発見”することにあるという通念に対して、こんな疑問を投げかけているのだそうだ。

『たとえば、年代記に記載された王の死という出来事は、様々な出来事の一要素としてたんにそこにあるにすぎない。王の死が〈物語〉の始めであるか、終りであるか、あるいはまたただの移行にすぎないかを決定するのは、歴史家の判断力、ないしは広義の判断力に委ねられている。歴史家の前にあるのは、年代記の形式に整理されてはいるものの実は怖るべき渾沌(カオス)の状態であり、彼はこの渾沌のなかから語るべき要素を選択しなければならないのだ。
この選択と排除の操作を通じて、歴史家はプロットとしての〈物語〉を編成するのである。』(前田愛『増補 文学テクスト入門』)

ニューアカの残り香を嗅いで育った私には、ものすごくしっくりくる考え方なわけです。
良くも悪くも「相対化」が当時のキーワードで、何につけ「断定」することに躊躇した。不動の「真実」なんてものが、あらかじめそこにポンと“存在”しているわけじゃないんだと。
私は昔を懐かしんでいるわけじゃないんですよ。
上記の「歴史家」を「ジャーナリスト」に置き換えてみればいい。自分では「真実」を「発見」したと思っていても、実は選択と排除の操作を通じてプロットとしての〈物語〉を編成しているにすぎない。そういう自覚があれば、容易に物事を「断定」することなんかできないハズなんです。己の恣意性を排除する意識が働くから。
そのうえで、しかしそれでも語らねばならない、という弁証法的な葛藤が、かろうじて「事実」を確定するんだと思うんですよ。
ソボクな正義感やアツさなんかじゃ「事実」には迫れないことを知っている。そのことを私は「技術」と呼んでいるんです。

森友問題から加計問題 駄々っ子の喧嘩のような低レベルな「国会」 印象操作に興じる「新聞」はもはや社会の木鐸ではない! 作家・ジャーナリスト・門田隆将

『だが、新聞は、いったい何が「総理のご意向」なのかを検証もせず、ただ政権に打撃を与えることに汲々(きゅうきゅう)とし、印象操作のために日々、紙面を費やした。』
『「安倍憎し」の新聞は、国民の感情を煽るだけで、ことの本質に迫る「役割と使命」を自ら放棄したのである。
 自己の主義主張に都合のいい一方の情報だけを伝えて、都合が悪い情報は決して報じない日本の新聞。もはや、そんなものは「新聞」とは呼ばない。』

環状2号線

たとえばNシステムってありますね。これが環状2号線に設置される計画があったかどうだか私は知りません。けれど仮にあったとしたら、警察は蕎麦の出前を頼む感覚でそこらの業者にテキトーに発注するわけじゃないんですよ。(一応)秘密裡に通信網を敷くわけですから。SEは工事の事前準備で現地に足を運んで、塩害・鳥害等の対策なんかもしてるでしょう。
 
受注元の企業は、実際の工事に携わる下請け業者の作業員名簿まで警察に提出させられるハズです。過激派なんかが入り込んだらコトですからね。むろん営業担当者は身元が調べられている。
そうした諸々のことが知事の頓珍漢な「正義の味方」ごっこで全部パーになる。パーにするだけの価値があったんですか?

新聞て何?

平成29年1月30日付で、公益社団法人日本獣医師会会長の藏内勇夫氏はこう書いています。
『私や日本獣医師政治連盟の北村委員長を始めとした本会の役職員は、できれば獣医学部新設決定の撤回、これが不可能な場合でもせめて1校のみとするよう、山本幸三地方創生担当大臣、松野博一文部科学大臣、山本有二農林水産大臣、麻生太郎自民党獣医師問題議員連盟会長、森英介同議員連盟幹事長など多くの国会議員の先生方に、本会の考え方にご理解をいただくよう奔走いたしました。』
「獣医学部新設決定の撤回、これが不可能な場合でもせめて1校のみとするよう」に働きかけたと自らハッキリ書いているわけです。
一部(というか多くの)新聞は、私ごときがアクセスできるこんな情報すら知らずに記事を書いてるんですかね。それとも知ってて知らぬふりをしているんですか? だとすりゃ新聞て何ですか。

(社説)加計学園問題 閉会中審査が不可欠だ(2017年6月17日 朝日新聞)

 
たとえば私が車に轢かれる。「車が物凄いスピードで突っ込んできた」と私が証言する。
運転していたのは高齢者で、「またしても高齢ドライバーの暴走」と、ある新聞が報じたとする。「高齢ドライバー問題」に対処してこなかった行政に責任がある、と。
  
だが、目撃者の証言その他から、車は法定速度を守って走っており、一方で私が信号無視をして飛び出したという「事実」が明らかになった。
それでも、高齢者の暴走が後を絶たないことにはかわりがない、とその新聞は言うだろうか?
言うのだろうね。問題の本質はそこにはない、と。
   
すでに議事録などの公的な資料に基づき、論点を時系列で整理して、少なくとも「肝腎」な部分では疑いの余地がない「仮説」が出されている。「車が物凄いスピードで突っ込んできた」という私の主張は、主観的にはそうかもしれないが、客観的な「事実」とはいえない。

2017年6月18日 (日)

民進・山尾志桜里氏、女系天皇容認「男系男子、論理必然ではない」 自民・下村博文氏は「歴史への冒涜だ」 テレビ番組収録で

私の立場を明らかにしておけば、男系女子OK、女系NG。
   
『歴史的にそうしてきたことと、これからもそうすべきだという価値判断は、まったく論理必然ではない』のかもしれないが、天皇が天皇である根拠が「血統」だとすれば、「男系」にこだわるのはむしろ論理的なのではないか。
 
私はしかし、山尾さんと違って「伝統」そのものを軽視しない。
むろん若い頃には疎ましくも感じたものだけど、それは「伝統」の持つ「重み」を裏側から認めていた証左だ。
しかしどうして私(たち)の中で「伝統」は正当化されるのか?
 
私はひとまずバークの思想を思い出す。

『各個人が自分の理性と経験のみに基づいて判断すると間違うことが多い。一人の人間の理性と経験には限界がある。それに対して、先人の経験に基づいて形成された「偏見」に従って行動すれば、自分の頭ではっきり把握できていない問題を行動面で解決することもできる。「偏見」を通して私たちは、言ってみれば、同じ伝統に属する他者たちと、共同で理性を働かせることができる。「偏見」を繰り返し利用することで、各人は次第に自らの理性を鍛え、適切に判断できるようになる。「偏見」は、社会の中で正しくふるまえるように人々を導くわけである。
フランスの啓蒙主義者たちは、古くからの慣習に代えて、新しい統治の原則や自由の観念を”発見”したがり、革命の指導者たちは、それらに基づく新しい共和国の建設を計画したがっているが、バークに言わせれば、道徳の世界(morality)における新しい発見などほとんどない。』(仲正昌樹「精神論ぬきの保守主義」)

2017年6月14日 (水)

国家と団地

 
石川教授のいう統治機構の三層構造論。
それじたいはわからんではないです。でも、9条3項(?)によって自衛隊の存在に正統性が与えられ、予算も躊躇なくつけられるようになるから戦争に巻き込まれるみたいな話は論理の飛躍でしょ。 あと、石川教授は百地教授に対して「憲法論でなく政治論だ」と小馬鹿にした態度をとるけれど、安倍首相のレガシーづくりでしかないという「陰謀論」の強調は、それこそ反アベ勢力を結集しようという「政治」に他ならないんじゃないの?   
 
で、団地の理事長経験者としては、ペット問題を思い出しました。
うちのマンション、ペット禁止なんですよ。でも現に飼ってる人がいる。犬の毛だとかおしっこの「問題」が発生するわけです。理事会、なんとかしろと苦情がくる。
まさか犬を処分しろというわけにはいかない。理事は毎年変わりますし、めんどくせーことはうやむやにして先送りにしたいのも人情で、だったら飼育者の自治会的なものをつくって、そこで自主管理させようじゃないか、という提案をしました。苦情はそちらへ。
するとこれに反対する人がいるわけです。それをやったらペットの飼育を認めたことになる、どんどんペットが増えていく、と。  

そういう立場の人がまさに石川教授的発想なんですよ。あくまで「本来はいないもの」とすることで抑制的に統治できるという考えなんですね。
それでどうなると思います?
結局「ひとりひとりがモラルを持とう」だとか、そういう小学生の標語みたいなことを言って総会がお開きになるんです。そうならざるを得ないんです。
だって「いないもの」を管理なんかできない。
国家は団地と相似形。

2017年6月12日 (月)

比喩

世の中には比喩を理解できない人がいる。
そもそも「比喩」って何か?
 
ひゆ
【比喩・譬喩】...
《名・ス他》物事の説明や描写に、ある共通点に着目した他の物事を借りて表現すること。たとえること。その表現。
 
言い換えるなら、話の意匠をズラしてやることでその骨格・構造をより明らかにするってことだ。比喩を理解しないということは、骨格・構造を理解していないってこと。
 
一般に役者というものは、台詞のコノテーションに敏感だ。作家の意図していない「行間」まであえて誤読して、隙あらば自分の役を「おいしく」仕立てようとする。
舞台に立つ人間としてこの自己顕示欲は基本的に正しい。
しかし希に、これと真逆の動きをする役者がいる。台詞から当然イメージされるであろう抽象性を排除し、むしろそこに〈書かれてあるとおり〉の具体的現象に解釈を矮小化してしまう。文脈を読み取ることをせず(できず)、「割り振られた」台詞から刹那的に感情をこしらえようとする。
おそらく「比喩を理解できない人」なんだろう。

2017年6月11日 (日)

前田愛『文学テクスト入門』

『一見取るに足らない場面で語られぬままにされたこと、会話の中での飛躍、こうしたことが読者に空所を投影によって補いたい気持ちを起こさせる。読者は出来事の中に引き入れられ、語られてはいないがこのように考えたはずだと想像するようになる。これがダイナミックな過程の始まりである。語られた言葉は、語られぬままになっていることに結びつけられて、はじめて言葉としての意味を持つように思える。だが語られなかったことは、語られた言葉がもつ含意であって、意味に形や重みを与える言述(ステイトメント)ではない。ところが、語られなかったことが読者の想像力の中で生み出されるようになると、語られた言葉は、初めに想像したよりも遙かに大きな意味の幅をおびてくる。』(ヴォルフガング・イーザー『行為としての読書』) 
これを逆手にとって、作者がわざと肝腎なことを言い落とすことがあります。レティサンス(黙説法)と呼ばれる技法。本書で前田愛が例に引いている樋口一葉『たけくらべ』なんかはこれに該当します。
が、同じく例に引かれている森鴎外『雁』の場合は、ちと違う。
引用すると長くなるのでざっ.と要約をすると「お玉さんは末造の妾。でも密かに医大生の岡田が好き。末造が出張し、お玉さんにチャンス到来。告白しようと、いつも岡田が通る道で待ち伏せ。しかし、やってきた岡田と一緒に、たまたま〈僕〉がいた。お玉さん、告白失敗。翌日、岡田は学者の助手に採用されてドイツへ旅立つ」
 
前田愛はこう書きます。
「岡田がドイツに渡航するためには、当然、渡航手続きをとらなくてはいけない。つまりパスポートを取り、またビザを受けなければいけない。かなり早い時期にその手続きをすませなければならないとすれば、岡田とお玉の恋は、はじめから成立不可能な状況に置かれていたことになる。しかしこのへんの事情は、『雁』というテクストからは一切排除されている。(略)つまりここで鴎外は、偶然というものを強調することによって、あらかじめ岡田が傷つかない、そういう仕掛けを読者に提供した。」   
蓮實重彦は「フィクション的な許容度」ということをいいました。
『親しい友人が「きみ、これは一八四九年のできごとだろ。そうだとすると、ここにはあの建物は見えていなかったんだから、この挿話は削りたまえ」といってもフローベールはどうもそれに耳を傾けた気配がない。ですから『感情教育』は歴史的におかしいところがたくさんある。まだ存在するはずもない路線を列車が堂々と走っていたりする。しかし、今日のフランス人でさえ、それを顔をしかめたりもせずに読んでいます。」(『「結婚詐欺」からケイリー・グラントへ 現代日本の小説を読む』「早稲田文学」2003年7月号)   
後からよくよく考えてみれば解決されていない「謎」や合ってない「辻褄」。創作の過程で生み出されるその程度の「謎」や「辻褄」は、無理に解決したり合わせてやる必要もないのだ、と私は思っています。しらばっくれていい。
自作に几帳面な書き手は、つい自ら先回りしてこれを「解説」してしまったり、過剰なつじつま合わせをしたりする。そうした態度が「誠実」だと思い込んでいる。しかし、こと創作において、「正直」であることが必ずしも美徳であるとは限らないわけです。
フローベールを見習って、親しい友人の忠告さえも「聴かぬ」勇気。
もっともこれが難しいわけです。なぜなら「独りよがり」と見分けがつきにくい。それを見分けるために、私は推敲段階でテクスト論を活用してきた(し、今もしている)。
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2017年6月10日 (土)

利他主義

『さらに、前節では利他主義は常に良い結果につながった。しかし、分断された社会において利他主義と信頼が集団内に限られていると、こうした特質は集団抑圧の道具になりうる。ある集団が別の集団を抑圧し、集団のメンバーが個別に抑圧を試みる場合よりも大きな力が抑圧する側の集団にみなぎるのである。』(カウシック・バスー「見えざる手をこえて」P164)
党派性に基づく閉じた集団内での相互承認=〈「あなたっていい人ね」「そういうあなたこそ」「こんなにもいい人であるあたしたちを理解しない外部の敵に対して、ともに闘いましょう」「おー!」〉によって独善性をこじらせるわけだ。
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2017年6月 7日 (水)

表象

 
表象の臨界、名づけ得ぬもの。
わかるけど、たとえばそれを「筆舌に尽くしがたい」と言ってしまうようなパターンの罠がある気がするんですよね。前衛演劇を観たときに「ああ、いかにも前衛だなあ」と感じるような。それは単に受容側の問題でなく、そういう「期待の地平」に沿った形で、つまり期待の地平を期待して作り手がものをつくってしまうような。「名づけ得ぬ」をエクスキューズにするような。
「表象の臨界」といったときに少なくとも私がパッとイメージしてしまう「表象の臨界」ぽさ。たとえばアルトー的な。若い人がそういうのを問題にするのはわかるけど、自分はもういいやって気持ちがある。「老後」なのかもしれない。
それより日常の中で自分にとってもっとリアルな「表象の臨界」に興味がある。
たとえば私はオリンピックにまるで興味がない。昔からクラス対抗リレーのたぐいにまったくノレないタチだし、そもそもスポーツを観る習慣もないし。
こういうのを「無頼」っていうのかわかりませんが、仮にそう名づけると、その「無頼」という表象の臨界点で、なんか知らんが「ガンバレ日本」な気持ちになっていることがある。
このナショナリズムの正体は何か? いったい自分は何と「連帯」しちゃってるのか。

今どきの若者は

 
永遠に繰り返される「今どきの若者は」。
だいたい世代論なんてもんは自分のことを棚に上げなきゃ成立しない。己の過去の積極的な忘却がその「棚」を支えている。
動画の最後で批判的に言及されている浅田彰。「全共闘みたいな生き方はしたくない」という彼なんかに私は学生時代に共感していたよ。「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」。その先に何があるのか本気で期待していた。
いわゆるポストモダンの世代は「脱構築」とかいって、先行する単純な二項対立の構図に基づく世界観をさんざん嘲笑ってきたじゃないか。それがどうだ。
だからもう彼らには何も期待しない。

2017年6月 3日 (土)

漁業権

私が小学4年生とか5年生の頃だから1978年か79年、昭和53年か54年頃の話。
近所の沼でよくフナやコイを釣っていたんです。
牧歌的な田舎の風景と思うでしょうが、釣りをするための「券」を釣具店で買わされていたんですよ。子供が払えるくらいだからたいした金額じゃなかったんでしょうが、すでにそんなとこまで漁業権が浸透してたんですね。ちゃんと、どっかの職員が見廻りに来ましたよ。
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カウシック・バスー『見えざる手をこえて』

このモデルでは、完全な選択の自由とは、個人の予算集合から財のいかなる組み合わせを選んでもよい自由を意味することに留意しよう。しかし、モデルの外で考えれば明らかに、人間には消費の組み合わせを選ぶ以外に多くのことが可能である。虐待を行い、盗みを働くことができる。脅したり、中傷したり、うわさを流すこともできる。(中略)つまり、現実の人間は、予算集合のみならず、外にありうる多数の物事から選択を行う。人間が実際にこうした行為のいくつかを選択すると、社会は依然として効率性を実現するだろうか。答えはもはや自明ではない。
見えざる手の定理の第一の魅力、特に保守思想の砦としての魅力は、最大限の個人的自由を伴う競争経済が社会的な最適性を保証するという一般的信念にあることをはっきりさせておきたい。しかしながら、より詳細に吟味すると、そこでそこで確保されている自由というのは、自らの予算集合のなかから洗濯する自由でしかない。予算集合を越えて「機会集合」を「拡張し」、私たちが実際に実現できる多くの物事を行う自由を含めるならば、もたらされる結果はもはや必ずしも最適ではない。
現実的でより大きな個人の実現可集合から出発して見えざる手の定理に辿り着きたいのであれば、私たちは以下のように述べなければならないだろう。何らかの理由で各個人の自由が制限され、個人は自らの予算集合からしか選べないとしたら、私たちは社会的最適性の実現を確信できるだろう

私は「見えざる手」をイデアみたいに考えてるのかもしれないな。
そういうプリミティブな力学が完璧に働く層が足元の深いところにあって、その上に「虐待を行い、盗みを働くことができる。脅したり、中傷したり、うわさを流すこともできる。」ような泥臭い現実的な層がアニメのセル画みたいに重なり合っている。
そうした中間層によって遮断され、弱められてはいるけれども、「見えざる手」の力学は依然として重力みたいに我々に働きかける。そういうイメージがある。
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2017年6月 1日 (木)

民進、加計問題巡り特区廃止法案提出へ

誤報なのか? と思った。
そうでないなら、もはや呆れるのを通り越す。
党派性をアプリオリな(と自分の信じる)善で正当化するしかないなら閉じていくのは必然だろう。

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