丸山圭三郎『言語とは何か』
たとえとして、箱のなかにびっしりつめこまれた饅頭と、同じ大きさの箱のなかに押しこめられている風船を想像してください。
その風船は、ただの風船ではなくて、圧搾空気が入っているものと仮定します。
さて、饅頭の場合は、そのなかから一つ取り出して箱の外においても、当然そのあとに空隙ができるだけで、箱のなかの他の饅頭どうしの関係は変りません。
また、箱の外に取り出した饅頭の方も、それ自体が持っている一定の大きさ、一定の実態に変化はありません。
ところが、技術的に可能かどうかという問題はさておき、圧搾空気をつめた風船の場合は、箱のなかでしか風船の大きさがない事実に注目してください。
もしそのなかの風船を一つ外に取り出すと、当然ながらパンクして存在しなくなってしまいます。
また、それが箱のなかで占めていた場所も、空隙となってそのままぽっかり穴を残すことはあり得ず、ひしめきあっているあとの風船すべてがふくれ上がってそのすき間をあっというまに埋めてしまうことでしょう。
これがソシュールの言いたかった価値の体系で、個々の項の大きさというものはもともとなかったということです。
存在するものは隣接する他の諸項と、全体との、二つの関係だけから生まれる大きさでしか有りません。(略)
この事実は、言語ばかりでなく、文化一般の価値についても見いだされます。
これが、自然のなかにもともとから存在していて、いわばあぶり出しによって浮かび上がる構造とは根本的に違う、文化の構造の本質であり、関係そのものが《意味》をつくっている世界だと言うことができるでしょう。
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