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2017年5月24日 (水)

仲正昌樹『「みんな」のバカ! 無責任になる構造』

〈デリダの「無限の他者に対する応答可能性=責任」論は、実は、キリスト教文化圏における「告白」を通しての「無限なる神」に対する「責任」という制度を前提にしているのではないか、と「私」には思われる。〉 

〈フーコーに言わせれば、近代的な自律した「主体」というのは、実は、様々な「みんな=社会」の「代表=表象」制度による教化を通して、告白的な責任構造を「内面」化された存在なのである。〉

〈『私の個人主義』(1914)という有名な講演によって、日本の「みんな」がなかなか理解できない「自由」と「義務」(あるいは「責任」)の一体不可分性を明確に論じたとされる夏目漱石も、両者の媒介項としての「法」的な強制システムの問題を飛ばして、純粋な良心の話にしているきらいがある。〉

〈「みんなの正義をみんなで守ろう」という形を取るのが日本的な“みんな”の考え方であるのに対して、西欧個人主義というのは、社会的「正義」をいったん可能な限り個人の「権利」に分解したうえで、責任主体としての「個人」にそれぞれの守備範囲内で守らせていこうという思想である〉

〈そういう責任の分配・限定の仕組みをあまり考えないまま、漱石以来「みんな」が言い続けている「日本人は、自由には社会的責任が伴うことを知らない」という聞いたような台詞を反復してさえいれば、自らの“社会的責任”を果たしたことになると思っている“良心的な言論人”に、「私」は腹が立っている。〉

著者は上記のように言う。
さらに私は、著者が腹を立てている「良心的な言論人」の言説を無批判に受容し、模倣=反復する「みんな」にも腹が立つ。「俗情との結託」(大西巨人)=通俗性への依拠によって自己正当化し、絶対に他者による検証が不可能な己の「内面」を根拠にモラリストを装う。そうして自分の気にくわない相手に対し、この「モラル」でもって一方的に断罪するのだ。これに対する反論は、「モラル」=「みんな」の否定であるという論理のすり替えによって自己防御を図るわけだ。

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