個性
通念を鰯の頭みたいに疑わないのも、これを単に否定するのも、結局は同じことなのだ。そうではなしに、それが「通念」であるワケを考える。すると己の実感に「世間一般」とのズレが生じてくる。
このズレを「個性」と呼ぶならば、個性は「基準」からの差異に他ならない。
もしも個性的たらんとするなら内省的であるだけではぜんぜん足りない。むしろ、「内省的な私」すら相対化する冷めた目こそが必要になる。
通念を鰯の頭みたいに疑わないのも、これを単に否定するのも、結局は同じことなのだ。そうではなしに、それが「通念」であるワケを考える。すると己の実感に「世間一般」とのズレが生じてくる。
このズレを「個性」と呼ぶならば、個性は「基準」からの差異に他ならない。
もしも個性的たらんとするなら内省的であるだけではぜんぜん足りない。むしろ、「内省的な私」すら相対化する冷めた目こそが必要になる。
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