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2017年5月25日 (木)

斉藤環『生き延びるためのラカン』

なるほどセックスをすればときには妊娠もする。あげくに「愛の結晶」なんてものが生れてきたりする。僕たちは、そういう体験にこそ「本物の関係」があると信じたがっている。でも、ひとたび精神分析を受け入れるなら、そもそも生殖や繁殖は、性とは何の関係もないことになる。妊娠や出産は、実は象徴界の外で起こる、いわば「現実的」なできごとなんだ。
 
そもそもラカンのいう想像界/象徴界/現実界って概念が非常にわかりづらいのだけど、「想像界」は目の前の現象、「象徴界」は、その社会に浸透した無意識の秩序・コード、「現実界」はプラトンのイデアみたいなもん、と私はざっくり理解してる。
 
ラカンのいうように、人間が「本能」を喪失した生き物だとして、単に異性愛が「自然」であるという象徴界の「取り決め」がされたに過ぎないのなら、ここにいるオレや、オマエは、いったい何なのだ? 
そもそもなんでそんな「取り決め」がされたのか? 
妊娠・出産という「現実的」なできごとが、象徴界における合理的な組み合わせの選択を指し示しているといえるんじゃないのか。それをひらたくいうと「自然」てことなんじゃないのか。
 
この世の誰も、一対の男女である両親の間に生れてきたという厳然たる事実を否定できない。だとすりゃ、「生殖や繁殖は、性とは何の関係もない」と大見得を切る資格があるのは、この世に生れてこなかった者だけではないか。

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