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2017年5月28日 (日)

仲正昌樹「ハイデガー哲学入門─『存在と時間』を読む」

『「公共圏」では、不特定多数の人たちがマス・メディアに誘導される形で、共通の意見や振る舞いを習得するので、平均化された「ひと」になる傾向が次第に強まっていく。』
 
また、「空談」「好奇心」「あいまいさ」によって特徴づけられる現存在の日常的な存在の仕方を「頽落 Verfallen」と呼んだそうだ。
 
『ハイデガーがここで問題にしている〈Verfallen〉というのは「現存在」が「公共圏」という「世界」の中にのめり込んで、あるいは完全に溶け込んでしまって、それ以外の実存の可能性があることなど思いもよらない状態であることを指しているのだろう。それは、ある意味、「世界」が部分的にしか開かれておらず、自らの「存在」についての問いを発することのない動物に近い状態であると考えられる。』
つまり、私がいうところの「イワシ」である。
自分もまたイワシの群れの一部であることからどうしたって逃れられないならば、せめて自覚的に「世界」を引き受ける。そうありたいもんだと私は思う。
 
また、ハイデガーは「空談」ということを言っている。
〈共同相互存在にとって重要なのは、語られているということである。すでに言われていること、格言とか宣言が今や、語りとその了解が真正であり、ことがらに適合していることを保証する。さらに、語ることは、それについて語られている存在者との第一次的な存在関連を喪失している、もしくは一度として獲得していないがゆえに、語ることが伝達し分かつのは、この存在者を根源的に領有したという様式においてではない。語ってひろめ、まねて語るという途によってなのである。語られているものそのものは、よりひろい圏内へと拡散し、権威的な性格を帯びることになる。ひとがそういうからそうなのだ、ということだ。〉(熊野純彦訳『存在と時間』岩波文庫)
 
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