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2017年5月24日 (水)

三途の川

奥泉光『ノヴァーリスの引用』はこんな書き出し。

死が絶対の終焉である。歩み出た向こう側にはなにもなくて、天体のない宇宙空間さながら無際限な暗闇がぽっかり口を開いているばかりである。否、そのようにイメージされることをさえあたまから拒絶して、死がいっさいの内容を欠いた空無であるとしたら、正でも負でもない絶対の零であるとしたら、はたして人間は耐えうるのであろうか。(略)
耐えがたい。この点で全員の感想は一致した。であるならば、死にいかなる内実を与え、死をいかに構想しうるのか。

「宗教」といったときに一般にイメージされるのは何か「教え」であるとか「戒律」だとか、そういうものだと思うけれども、私はわりとそういうのはどうでもよくて、もっと人々の無意識に入り込んだ「文化」、なんだかんだいって最終的に逃れがたい土着性みたいなものに興味がある。
オカルト的な意味での「死後の世界」を信じているわけではないが、それでも自分はいまわの際に「三途の川」を渡るのだろうという気がしている。
何故か?
わからない。わからないけれどもこういう人間は私の他にも数多くいるはずで、そういう「物語」を無意識レベルで共有する者らの属性を「同胞」と呼ぶんじゃないか。
仮にそうだとすれば、イザナギ・イザナミの神話から「国」を語り始めるのは、至極自然な気がする。

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