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2017年5月23日 (火)

フィクション的な許容度

後からよくよく考えてみれば解決されていない「謎」や合ってない辻褄、。その程度の「謎」や「辻褄」は、そもそも無理に解決したり合わせてやる必要もないのだ。
戯曲を書くにあたり、私は常々そう思っている。
 
自作に几帳面な書き手は、つい自ら先回りしてこれを「解説」してしまったり、執筆の過程で周囲の意見を収集し、過剰なつじつま合わせをしたりする。そしてそれを書き手の“誠実さ”などと思い込んでいるわけだが、そうした態度が、こと創作において、必ずしも美徳であるとは限らない。

蓮實重彦は「フィクション的な許容度」ということをいった。フローベールの例を引いて、こう説明する。

「フローベールはそうした細部の大半を無視した。親しい友人が「きみ、これは一八四九年のできごとだろ。そうだとすると、ここにはあの建物は見えていなかったんだから、この挿話は削りたまえ」といってもフローベールはどうもそれに耳を傾けた気配がない。ですから『感情教育』は歴史的におかしいところがたくさんある。まだ存在するはずもない路線を列車が堂々と走っていたりする。しかし、今日のフランス人でさえ、それを顔をしかめたりもせずに読んでいます。」(『「結婚詐欺」からケイリー・グラントへ 現代日本の小説を読む』「早稲田文学」2003年7月号)

書かれたものを演出する際にも、これはいえることだ。演出家も、俳優と一緒に長く稽古場にいると、この「フィクション的許容度」の見極めが鈍ってくる。細部を作り込む過程で、「現実」のロジックで整合性をとろうとし、結果、テクストの伸びやかさが失われることがある。
とくに作・演出を兼ねる者は、容易にテクストの更新が可能なので、これを恐れるべきなのだ。
もっともその「許容度」の見極めこそが難しい。どこで線を引くべきか、何か法則性があるわけではないし、だからもう、センスとしかいいようがないのだが。

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