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2017年5月

2017年5月30日 (火)

民進・野田佳彦幹事長 南スーダンPKO派遣に「敬意表したい」

しかしそんな「敬意表したい」相手を「違憲(かもしれない)」状態にしておきたいわけですよね? どういうんですか、それ。さっぱり意味が分からない。
 
自衛隊と日本国憲法のかかわりについて、私の立場を述べておけばこうです。
憲法の文言=憲法典に照らせば自衛隊は9条2項に「違反」してます。
しかし憲法の本来要請するメタ法的規則に照らせば(ここ大事、いわば日本国民の間主観性の話であって、憲法典の文言を「曲解」するってことはまったく別)「合憲」。
  
「メタ法的規則」って何か。
『現代の憲法論では、憲法典で明示されている基本的諸権利の保護が、憲法の最重要機能と見なされることが多いが、憲法典の具体的な規定よりも、「法」を制約するメタ法的規則を重視するハイエクは、そうした見方とは一線を画している。そうした見方をしてしまうと、憲法典に明記されていない――が、慣習として確立されている――“権利”が軽視されたり、憲法典に書きさえすれば、普遍的権利になるかのような幻想が生じてくるからである。「憲法」は、その社会にすでに存在する「共通の信念」を部分的に成文化したものにすぎない。』(仲正昌樹『精神論ぬきの保守主義』第六章 ハイエク―自生的秩序の思想)
両者が乖離してるんですよ。しかも後者は可視化されてるわけじゃない。だから言葉の定義の曖昧さでもって合憲とも違憲ともいえてしまう。
「憲法典」としてそれはマズイでしょって話。
憲法典を変更しても、メタ法的規則としての「憲法」は何も変わらないんですよ。憲法典をそれに合わせて曖昧さを排除するってことなんだから。

2017年5月29日 (月)

外国人労働者

何年ぶりかでマクドナルドに入った。店員の外国人率がめっちゃ高くて、ここまで? と驚く。
10年くらい前だったか、田町のマクドナルドではじめてそれを感じたのだけど、その傾向はますます強くなる感じ。
私の故郷は、スバルに改名した富士重工と、今はなき三洋電機の企業城下町。多くの外国人労働者がいて、三洋電機のあった大泉町は「日本のブラジル」みたいにしばしばメディアにとり上げられるけど、私には「実感」がないのよね。
ただ、それを推進した行政について「大人」たちが賛否を語っているのを、子供の頃に聞いた記憶が鮮明にある。

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他よりもよさそう

「他よりよさそう」というのは、つまりハイデガーいうところの「空談」「好奇心」「曖昧さ」に基づく憶測をメディアとタッグを組んで権威付けして「魔女裁判」を正当化したがる連中に政権を担わせるヤバさを多くの国民は知っている、ってことじゃないですか?
そもそも「加計・森友問題」とやらの何が「問題」なんだかわからないので。

夕顔

下校途中に、道端のこれを摘んで遊んでいたら「あー!」と非難する声がして、誰かが育てていたものだったかと思ったら「雨が降るだろ、どうしてくれる!」。
いろんな意味で恐かった。
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中島義道『ひとを〈嫌う〉ということ』

「なぜAのことを嫌うのか?」
そう問われて、自分がAのことを嫌っている理由を探す。
たとえば「モノを食うとき口をくちゃくちゃさせるから」。
では仮に、その「理由」がAから取り除かれたとしたら? つまり「くちゃくちゃ」しなければ、Aのことを嫌いじゃなくなるか。
そんなことは決してない。今度は「おしぼりで顔を拭く」のも気に入らない。
つまり「原因」を言ったようでいて実のところ、そもそも嫌いなAの属性を手当たり次第に指摘しているに過ぎないのだ。
そう著者はそう分析する。
すでに嫌いの「原因」をその人の属性から「その人自身」に変化させてしまっている。

2017年5月28日 (日)

仲正昌樹「ハイデガー哲学入門─『存在と時間』を読む」

『「公共圏」では、不特定多数の人たちがマス・メディアに誘導される形で、共通の意見や振る舞いを習得するので、平均化された「ひと」になる傾向が次第に強まっていく。』
 
また、「空談」「好奇心」「あいまいさ」によって特徴づけられる現存在の日常的な存在の仕方を「頽落 Verfallen」と呼んだそうだ。
 
『ハイデガーがここで問題にしている〈Verfallen〉というのは「現存在」が「公共圏」という「世界」の中にのめり込んで、あるいは完全に溶け込んでしまって、それ以外の実存の可能性があることなど思いもよらない状態であることを指しているのだろう。それは、ある意味、「世界」が部分的にしか開かれておらず、自らの「存在」についての問いを発することのない動物に近い状態であると考えられる。』
つまり、私がいうところの「イワシ」である。
自分もまたイワシの群れの一部であることからどうしたって逃れられないならば、せめて自覚的に「世界」を引き受ける。そうありたいもんだと私は思う。
 
また、ハイデガーは「空談」ということを言っている。
〈共同相互存在にとって重要なのは、語られているということである。すでに言われていること、格言とか宣言が今や、語りとその了解が真正であり、ことがらに適合していることを保証する。さらに、語ることは、それについて語られている存在者との第一次的な存在関連を喪失している、もしくは一度として獲得していないがゆえに、語ることが伝達し分かつのは、この存在者を根源的に領有したという様式においてではない。語ってひろめ、まねて語るという途によってなのである。語られているものそのものは、よりひろい圏内へと拡散し、権威的な性格を帯びることになる。ひとがそういうからそうなのだ、ということだ。〉(熊野純彦訳『存在と時間』岩波文庫)
 
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2017年5月27日 (土)

報道

「三平方の定理」というのがありますね。中学の数学で習いました。ピタゴラスの定理ともいいます。
〈平面幾何学において直角三角形の斜辺の長さを c、他の2辺の長さを a, b とすると、a^2+b^2=c^2が成り立つ〉
  
これが「実は間違いだった!」と大々的に報道するなら、a^2+b^2=c^2が成り立たない直角三角形をひとつ示せばいいんです。
ところが示されたそれが「直角」三角形ではない。
そもそも三角形ですらなかったりする。
そこを指摘されると、ピタゴラスの醜聞を搔き集めてくる。
  
「報道」って何ですか?

2017年5月26日 (金)

8割がホン?

芝居は8割がホンという「通説」がある。
ホンがダメなら芝居のデキもたかが知れてる、というのはわからなくはないが、ホンの良さがダメな演技を補うなんてことは、ない。
ホンが前景化し、役者がその“解説者”に成り下がってる芝居なんか見たいと思わない。そんなものは「芝居」としての価値がない。

説明不足

「説明不足」という批判にはよほど気をつけなけりゃいけない。
額面通りに受け取って「説明」なんかしたところで得るところはないばかりか、むしろ作品の魅力を損なうだけだったりする。
「説明不足」といういい方がそもそも説明不足なのだ。求められているのは実のところ「説明」なんかじゃない。

観客

一口に「観客」といっても立場によって意味合いが異なる。
劇作家のいう「観客」は、テクストに対する一定水準の理解力を持つことを常に期待=想定されているいわば形而上の存在だ。
演出家にとっての「観客」はもう少し現実的で、視覚や聴覚への触発に敏感に反応する複数の人々といったところ。
プロデューサーにとっては、チケット代や劇場の場所、演時間や椅子の座り心地やエアコンのきき具合などをしきりと気にする形而下の存在。
それぞれのレイヤーが重なって生身の「観客」となる。

受容理論

たとえばAというシーンがあり、それと一見関係のないBというシーンが続けて演じられる。これが交互に繰り返されるなら、いずれAとBとは何らかの繋がりを持つ。
なぜか?
観客の視線に晒されているから。
すなわちAとBとの関係がどのように解き明かされるのか、観客に「期待」を持たせてしまうから
そうした受容理論を踏まえてテクストを構造化するか否かが「創作」と「作文」の違いだと思う。

心得

読むように書き、書くように読む。
書き手の心得としてよく言われることだけれど、「読む」を「観る」、「書く」を「演じる」に置き換えれば演者の心得にもなる。
観るように演じ、演じるように観る。

中腰

「違和感」を抱えて「立つ」でもなく「座る」でもない「中腰」の状態で、ああでもない、こうでもないと思考を重ねるのは、ときに優柔不断の誹りも免れない。
けれど、それをやめたらモノカキじゃないと思っている。自己相対化の放棄に他ならないからだ。
自己相対化とは、いわば「私」を「みんな」の中に置いて差異を確認すること。それを怠れば、たちまち「みんな」の情緒に飲み込まれて「私」なんて消えてなくなる。そうして手垢まみれの図式に沿った通俗的言説を「自分の言葉」として吐くことになる。

自意識

俳優は四六時中、見えない鏡に取り囲まれて生きている。つまり美意識、自意識。己というテクストを常に推敲している。

取材対象

論点がチグハグなまま感情的に白熱していく会話を聞かされるのは、私は苦痛でしょうがない。しかしそんな苦痛を受けてる自分も含め、「チグハグ」が相対化されると、しかしこれはこれでなかなか面白い。劇の書き手としては、こういう状況は格好の取材対象だったりもする。

作者の死

文章はいったん書かれれば、作者自身との連関を断たれた自律的なもの(テクスト)となり、多様な読まれ方を許すようになる。(中略)文章を読む際に、常にそれを支配しているであろう「作者の意図」を想定し、それを言い当てようとするほうが不自然であるとする。およそこうした考え方を、フランスの批評家ロラン・バルトは「作者の死」と呼んだ(『作者の死』〈1968年〉)。(知恵蔵2014)

個性

通念を鰯の頭みたいに疑わないのも、これを単に否定するのも、結局は同じことなのだ。そうではなしに、それが「通念」であるワケを考える。すると己の実感に「世間一般」とのズレが生じてくる。
このズレを「個性」と呼ぶならば、個性は「基準」からの差異に他ならない。
もしも個性的たらんとするなら内省的であるだけではぜんぜん足りない。むしろ、「内省的な私」すら相対化する冷めた目こそが必要になる。

書く/読む

戯曲を〈書く〉ということは二重の意味で〈私〉の分裂を引き受けることだ。ひとつは役の数だけ。もうひとつは、〈書く私〉と〈読む私〉に。
自作を書きながら読み、読みながら書くということだ。読まずに書くなどということはあり得ない。常に〈読む私〉が〈書く私〉を導く。
自作を読む力は先行する他人の作品(戯曲に限らない)にあたることでしか養われない。だから書きたいなら読めという。教養主義でいうんじゃないのだ。

畏怖

登場人物の一人のデハケをたった数行後ろにずらしただけで、その後の台詞のニュアンスと、虚構内の「事実関係」が大きく変わることがある。
こういうテクストの生成過程を知るものは、稽古場で安易に台詞を変えたりできないものだ。少なくとも大いに躊躇する。それは作家に対する配慮なんかじゃない。テクストに対する畏怖だ。

親密さ

不良が雨の日に子犬を拾う。主人公だけがそれを目撃する。
ベタな少女マンガなんかによくあるパターンだけど、ではなぜ、主人公「だけ」が、目撃するのか? 
実は目撃者は主人公だけではない。読者である〈あなた〉も見ていたハズである。こうして〈あなた〉と主人公との間に共犯=親密さの関係が生まれる。

想像力

たとえば「犯罪者」を理解不能なものとして切り捨てて見せることで、己の“常識人”ぶりをアピールする。そうではなしに、自分がそうなる可能性に思いを馳せること。それが「想像力」ってもんだろう。

読む

俳優が戯曲を「読む」ということは、書かれてある台詞を淀みなく、感情を込めて発声すればいいというものでは全然、ない。
作品の〈世界観〉を踏まえてテクストの言葉を我が身に接続すること。それが俳優にとっての〈読む〉という行為だ。
〈世界観〉というのは作者の思想や主義主張などとは、なんら関係がない。あくまでテクストの要請に基づく。
〈テクスト〉の語源はラテン語で「織る」の意である。テクスチャ=織物から派生した。そのいわば“織り目”が形作る陰影が作品の〈世界観〉なのだ、と私は思っている。

補助線

あらかじめ定めた点と点の間に線を引くのではないのだ。おびただしい「補助線」を消し込んで最適な一本を選び取ること。創作ってそういうもん。

パターン

「おまえは橋の下で拾った子だ」というよくある親の悪い冗談に、茫漠とした不安と寂しさを覚えたものだ。「血縁」などという概念すら持たぬのに、なぜそんな気持ちになったのか?  
児童劇の現場で、それがなんとなくわかったような気がした。
たとえばオオカミが「悪」のアイコンであることを、劇中でさしたる説明がなくとも、幼児は即座に察知する。それは子供の「純粋さ」だとか「感性」なんて話じゃない。そんなのは大人が子供に対して抱く類型的なイメージにすぎない。
そうではなくて、オオカミ=悪のコードを幼児はすでに持っているのだ。キャラクターの造形が劇中で意味するところをあらかじめ熟知している。
なぜか?
彼らは日頃、絵本やゲームや観劇などを通じて、我々大人より遥かに多くの子供向けの物語に慣れ親しんでいるのだから。つまりその手のパターンをよく心得ている。
「橋の下で拾った子」もそうではないか。どこかで仕入れた「悲劇」のパターンだったのだ。

体験

「体験」は自分にとっては揺るぎない事実のように思えるけれど、そのままでは他人と共有できない。
たとえば夢の話。寝てる間に見る「夢」。
これを他人に話すとき、見たままを語っても他人には伝わらない。必ず「体験」は「物語化」されている。  

作り手が高い志を持って作品にメッセージを込めるのと、作品自体の志の高さとは、まったく別の話。

アドリブ

「アドリブ」を検索したら、こういう解説があった。
『演劇、放送などで、出演者が台本にない無関係の台詞(せりふ)や演技を即興ではさむこと。また、その台詞など。』
好き嫌いはあるだろうが、予定調和を脱臼させる効果は確かにあるし、一概に否定できない。けれどやる際に、少なくとも踏んではいけない「地雷」がある。
 
「地雷」の例をひとつ示せば、レティサンス(黙説法)の破壊だ。つまり、あえて言い落とすことによって観客に想像させたり、余韻を感じさせたりする意図で書かれてある(書かれていない)台詞を「説明」して台なしにしてしまうこと。
俳優は己の「内面」に従ってそうしたはずだ。演じる際に「気持ち」が大事なのは確かだが、「気持ち」一本槍で行くと、こういうことが起こる。 

私は稽古の早い段階で出演者にホンの「狙い」を解説してしまう。それは作品のテーマだとか、そういうことじゃない。劇構造の話。あらかじめ「地雷」のありかを示しておくというわけだ。

唯物論的制約

〈役〉というものは演者の主観の外化などでは決してなく、観客との間主観性に立脚してようやく成り立つ構造的な存在だ。
 
たとえばそこに椅子がある。
とりたてて特別な設定が示されてない条件下、演者が椅子の傍らに立つ。
演者がとるべき次の行動は?
当然、「座る」だ。あたかも登場人物と椅子との間に「重力」が働くように、演者の行動は、いわば唯物論的な制約を受ける。
むろん、「重力」に逆らってあえて「座らない」という選択はあり得るが、その場合、それなりに納得できる理由がいる。
誰が「納得」するのか? 演者か、演出家か、それとも作家か?
否、〈観客〉である。

喫煙シーン

アニメの喫煙シーンにケチがついたことがあった。
〈学生が「タバコくれ」と友人にタバコをもらう場面などは未成年者の喫煙を助長し、国内法の「未成年者喫煙禁止法」にも抵触するおそれがあります〉など、ナンセンスで反論する気にもならない。煙草=絶対悪にまつわることは、いかなる文脈で叩いても正当化されるというわけだ。
そうした嫌煙ファッショ的風潮の中、確かに私の書く戯曲でも喫煙シーンが減った(皆無ではないけれど)。
ひとつには消防法上の問題がある。舞台上での火の使用はたいていの小屋で禁じられているが、煙草程度はOKというところが昔は多かった。またひとつには制作上、嫌煙の観客に対する配慮も、なくはない。
だが何より、テクストが要請するのである。
つまり、虚構の中に置かれた「煙草」は、もはや完全に近過去を示すアイコンとなってしまったということだ。

2017年5月25日 (木)

積分

誰が言ったのだったか失念したが、「物語」というものは始点Aと終点Bをあらかじめ決めて間に線分ABを引くようなものだ、という考え方がある。
自戒の念も込めて、私はこれを明確に否定したい。
それはもっと積分に近いイメージ。つまりAB'がB'B''を呼び込み、それがまたB''B'''を呼び込み、その果てにやっとBが現れ、結果として線分ABが完成する。
「物語」というのはそうやって常に事後的なもの。呼び込まれた奇跡の総体。
願わくは、そうして現れたBもまたそこで完結せずに、さらに先に伸びていこうとしてほしい。
 
だから戯曲であれ小説であれ文芸作品というものは、そこに作者が現れてしまうものではあっても、作者の「意見」を表明する場ではないし、そのために登場人物を利用することなど許されない。私はそう考える。
 
B'、B''、B'''と、新たな「点」を得るその都度、すでに引かれた線を振り返り、そこから影響を受け続ける。
それが文芸作品の「作者」というものだ。
最初にAを書きつけたときの「私」はもういない。

ホームセンター

舞台装置づくりのため、ホームセンター通いが日課になってる。
なので、舞台美術家を主人公とした芝居が書けるのではないかと夢想してしまう。
美術家の男が小割をバラで4本購入しようとしたら、6本で結束されており、結束紐を切ってくれるよう、佐々木希似の店員に言う。
「手伝いましょうか?」
「大丈夫です」
店員は、材木を横にしようと一旦担ぎ上げるのだが、よろめいて床に尻餅をついてしまう。
スカートの裾がはだけ、太ももが露わになる…。
だが、現実の店員は、佐々木希になんかぜんぜん似てないおばちゃんで、私は、ベージュのシミーズから思わず目をそらしたのだった。

悪党

県下有数の「悪い」中学を卒業した。
しょっちゅう教室の窓が割られ、廊下をバイクが走りまわった。いつも不良グループが便所にたむろしてるので、休み時間に小便に行くのもままならない。自転車置き場じゃ理不尽なリンチが日常茶飯事。次に誰がその標的となるのか、法則性がまるでわからない。
 
ある日、体育の授業で教室をあけたら、私の財布が盗まれた。
担任の先生に被害を届け出ようとしたら、廊下で、クラスメイトが手招きした。
「××くんが呼んでる」
「俺を?」
××とは、不良グループの中でもトップクラスの「身分」の男だ。
クラスメイトは私を屋上に案内した。ああ、ついに私が「標的」となる番がやってきたのだ。××は幾人かのツカイッパをはべらせて、うんこ座りで待っていた。ぶっといズボンに妙に丈の短い学ラン。額には深いソリコミ。片手に煙草、片手に私の財布を持って。
「この財布、キミのでしょう?」
「あ」
「ホントは先に言わなきゃいけなかったんだけど、教室にいなかったもんだから。それで黙ってお金、借りちゃった」
「…」
「悪いけど、もうしばらく貸しといてくれないかなあ?」
甘えるような口調で言うのだった。
「で、いつ、返してくれんの?」
と聞き返すほど、私も空気の読めない男じゃない。一刻も早くその場から立ち去りたい。「わかった」と言って空の財布を受け取り、私は教室に戻った。

金は盗まれたのではない。貸したのだ!
こうして私は届け出るべき「被害」を失ったのである。
なるほど、悪党というものは、こういう巧妙なやり方をするのか、と子供心に感心したものだ。
むろん、その後、金が返されることはなかった。

ルイス・ブニュエル『忘れられた人々』

最悪のラストシーン。けど、それは映画の中のできごとが「最悪」なんであって、そのできばえはむしろ最高。
一般に社会派と呼ばれる作品だけど、独善的な「正義」に彩られたものとは大違い。巧いホン、巧い映画。

アラン・ロブ=グリエ『囚われの美女』

ロブ=グリエといえば、アラン・レネ監督『去年マリエンバートで』の脚本が有名ですね。
『囚われの美女』は自ら監督してます。
他にもけっこういろいろ撮ってるみたいですけど日本で公開されたのはこれだけなんですかね。

誠実

〈今の日本に演劇というものが「必要」か、と自問自答し、むしろこんなときだからこそ、と上演を決意した〉
3.11以降しばらく、この手のパターンの文章をいろんなところで目にした。〈葛藤〉を口にしてみせることが、あの状況下で興行に関わることのエクスキューズにも見えた。

しかしモノカキが己の仕事に“誠実”であろうとするなら、まずは言葉のインフレを自覚すべきではないか。ほとんど「枕詞」のように形骸化した「こんなときだからこそ」的フレーズを躊躇なく書きつけてしまうことこそを本来恐れるべきじゃないのか。
そもそも芝居を書く人間にとって、社会に必要か否かという物差しで内省的になってみせることが「誠実」な態度なのだろうか。

ケインズ/ハイエク

たとえば今、保護主義が問題になっている。
これによって社会的総余剰が減るのは経済学的な「事実」だろう。
だから、長期的にはハイエクがあっている。政府は市場に口出しせずに、ほっときゃいい。市場原理によっていずれ最適化される。
けれど、ケインズのいうように「長期的には我々は皆死んでいる」。生産者余剰の減少分を消費者余剰の増加分で補うとしても、そのタイムラグが問題なんじゃないか。
 
たとえば私が事故に遭って入院する。頭から血を流して瀕死の状態。でも大丈夫、と院長先生がいう。病院にはたんまり血液があるから。
では、いつ輸血する? 死んだ後に輸血されても、私にとっては意味がない。院長先生にとっては、患者のうちの一人が死んだに過ぎないけれども、私にとってはそれが「世界の終わり」なのだ。
 
そんな「私」や、自分もいつそうなるかもしれないと思うべつの「私」=「私たち」が主権者なのだ。だから少なくとも民主主義国家の為政者は「私たち」を無視できない。そういう政治経済の力学に拘束されているのだと思う。
 

わたなべまさこ『聖ロザリンド』

「嘘をつく人は天国へ行けません」
“純粋”な子供には、社交辞令も、言葉の綾も通じはしない。8才の少女ロザリンドは“正直”に、次々と殺人を犯していく。無垢がゆえ(というか、「愉快犯」に見えるのだが)の大胆な犯行は、恐ろしくも痛快で、私は思わず笑ってしまったのだけど、子供の頃にこれを読んでトラウマになったという人も多いらしい。
 
373ぺージと結構な長さ。ストックホルム症候群が、犯人との長い時間の共有を必要とするのと同じ理屈で、この“長さ”も重要。読者は悪魔の行いに眉をひそめつつ、同時にこの少女に惹かれてしまう。ラストシーンではきっと涙を流すことになるだろう。
 
文庫(ぶんか社)の「あとがき」によれば、作者は当初この作品を『マーガレット』で連載することを考えていたらしいが、「刺激が強すぎる」という理由から、『フレンド』での連載になったとのこと。
なんで『マーガレット』でダメで『フレンド』ならいいのか、私にはぜんぜんわからないのだけど、とにかくいろんな“大人の事情”で、いろんなバーションの本が出版されているらしい。
「連載を読んでいた読者の方からは「幻の前半はどこで読めるのか?」と聞かれることがありますが、文庫で読めます!とお答えできます。」とのこと。

石平『私はなぜ「中国」を捨てたのか 』

原文を極力活かし、一部を会話形式で要約する。
石平(=小平)氏が甥に小遣いをやろうとする。

「要らない」
「何だよ、おまえはお金が嫌なのか(と、からかう)」
「いや、違う。だって小平おじさんのお金は、日本人からもらった給料だろう。そんな金、僕は要らない!」
「……」
「小平おじさん、もしね、今度日本がもう一度中国に侵略してきたら、小平おじさんはどうする。帰ってくるの?」
「(冗談半分で)じゃ、日本が攻めてきたら、お前はどうするんだ?」
「僕は戦う。最前線へ行く。小日本を徹底的にやっつけるのだ。実は僕、大学で入党申請書を出した。来年には党に入れるよ」
「……そうか、お前は共産党が好きなのか」
「当然だろう。中国人なら皆、中国共産党が好きじゃないか。党を擁護しているじゃないか。小平おじさんはそうじゃないのか」
「どうして? どうして中国人は皆、共産党のことを好かなければならないのか。共産党はそんなによいものか」
「当たり前だ。当たり前じゃないか。共産党の指導があるから、中国は日本の侵略を防げるんじゃないか。昔、日本侵略軍をやっつけたのは共産党じゃないか。小平おじさんは歴史を忘れたのか」
「そうか。やっぱり歴史か。それでは聞く。今から十一年前、北京で起きた『六・四事件(=天安門事件)』、あれも歴史だけど、君はどう思うのか」
「何ですかそれは。『六・四事件』って、あ、あれですか。思い出した。じゃあはっきりと言います。小平おじさんたちのやっていたことは、間違っています。党と政府の措置は正しかったと思います。僕だけじゃない。大学では皆、そう思っています」
「正しかった?! 丸腰の学生たちを虐殺していったいどこが正しかったのか。政府が罪のない人を銃殺するのは正しいというのか、キミは(と、声を荒らげる)」
「そうだ。正しかった。おじさんたちのやっていたことは、外国勢力の陰謀じゃないか。鎮圧してどこが悪いのだ。殺人といえばね、小平おじさんの居るところ、日本人こそ殺人者じゃないか。南京大虐殺をやったじゃないか、何千万人の中国人を殺したじゃないか。小平おじさんはもう忘れたようだが、僕は忘れませんよ」

この甥の言い分が、つまり中国共産党の言う「歴史を直視する」ってやつだ。この甥は今、30代半ばから後半くらいか。中国のエリート青年が、かように「歴史を直視」しているわけだ。仮に共産党の一党独裁が崩壊し、仮に民主化が達成されたとしても、コトはそう簡単じゃない。

丸山圭三郎『言語とは何か』

たとえとして、箱のなかにびっしりつめこまれた饅頭と、同じ大きさの箱のなかに押しこめられている風船を想像してください。
その風船は、ただの風船ではなくて、圧搾空気が入っているものと仮定します。
さて、饅頭の場合は、そのなかから一つ取り出して箱の外においても、当然そのあとに空隙ができるだけで、箱のなかの他の饅頭どうしの関係は変りません。
また、箱の外に取り出した饅頭の方も、それ自体が持っている一定の大きさ、一定の実態に変化はありません。
ところが、技術的に可能かどうかという問題はさておき、圧搾空気をつめた風船の場合は、箱のなかでしか風船の大きさがない事実に注目してください。
もしそのなかの風船を一つ外に取り出すと、当然ながらパンクして存在しなくなってしまいます。
また、それが箱のなかで占めていた場所も、空隙となってそのままぽっかり穴を残すことはあり得ず、ひしめきあっているあとの風船すべてがふくれ上がってそのすき間をあっというまに埋めてしまうことでしょう。
これがソシュールの言いたかった価値の体系で、個々の項の大きさというものはもともとなかったということです。
存在するものは隣接する他の諸項と、全体との、二つの関係だけから生まれる大きさでしか有りません。(略)
この事実は、言語ばかりでなく、文化一般の価値についても見いだされます。
これが、自然のなかにもともとから存在していて、いわばあぶり出しによって浮かび上がる構造とは根本的に違う、文化の構造の本質であり、関係そのものが《意味》をつくっている世界だと言うことができるでしょう。

『朝日vs.産経ソウル発―どうするどうなる朝鮮半島』黒田勝弘/市川速水

今さら言うまでもないことだけれど、いわゆる「従軍慰安婦問題」は、吉田清治『私の戦争犯罪 -- 朝鮮人強制連行』というトンデモ本に端を発する。後に著者の吉田清治自身が、それが“創作”であることを認めている。

『朝日vs.産経ソウル発―どうするどうなる朝鮮半島』の中で、朝日の市川氏は言う。
「慰安婦の強制連行はなかった」という論がまかり通っています。黒田さんの調べでも、強制連行はなかった、あったと言う人の証言はウソだったという。現実に韓国だけでも100人以上の元慰安婦がいますが、僕の取材でも、腕を引っ張られて、猿ぐつわはめられて、連行されたという人は一人も現れていません。だから、強制的ではなかった、さらに、慰安婦問題はなかったとさえ言う人がいるわけです。でも、そうじゃなくて(後略)
 
そうじゃなくて、「広義の強制」はあった、という例の“論理のすり替え”がこの後に続くのだが、百歩譲ってそうであるなら、最初からそのように報じればいいのである。恣意的に史実を歪め、センセーショナルなキャンペーンを張ることを正当化する理由になどなりはしない。
左翼におもねったこのようなデマが、日韓両国のナショナリズムを煽り、不必要に先鋭化させているのである。

色川武大『生家へ』

全11篇からなる連作。滑稽でもあり、痛々しくもある、一家の徒労と孤立。
「母親の落胆を見たくない一心で」ついた「私」の嘘。
嘘というより、口から出まかせ。
それが母親の期待を高め、さらなる嘘を重ねるハメになる。
耳の中でリズムが鳴っていた。私にできることは、ただひたすら走り、その苦痛を甘受し、やがて当然やってくる本当の苦痛をいくらかでもやわらげることだった。

母親の期待に応えるべく、「私」は家族の出払った生家に塀を乗り越え侵入し、父親の大礼服や勲章、母親の晴着も売り払ってしまう。
私は何をしているのだろうと思った。ところがそれ以外の生きざまは、どうしても考えられないのだった。

生家の床下には穴がある。それは父親が戦争中に、なぜか、掘ったもの。そのせいで、家はゆがんでしまうが、
穴を除外してはこの家は考えられなくなっていた。掘ったのは父親だったけれど、掘られてみると否応なく皆のものだった。

内田百閒『東京日記』

牛よりも大きな鰻が堀から出て、電車通りを這っている。
辺りは真っ暗になって、水面の白光りも消え去り、信号灯の青と赤が、大きな鰻の濡れた胴体をぎらぎらと照らした。
私の頭の中にある光景は、「東京日記」にある描写を読んでのものなのか、はたまた映像化された何かを見たのだったか?
いや、違う。挿絵だ。と思い至り、「文藝別冊[総特集]内田百閒」をひろげて見ると、逆柱いみりのイラストが描かれてあり、そうそう、これこれ! と、ようやく合点がいった。
はずだったが、「花火」、「山東京伝」、「烏」、「支那人」、「疱瘡神」、「白子」、「波止場」、「豹」…肝腎の、「東京日記」の挿絵が、描かれてないのである!

通学路

駅から高校までの通学路で見かけた元店舗。
バブル時に地上げを免れ、デフレの続いた結果がこれだろう。
どうあるべきなんすかね? 私にはよくわからない。わかるのは、更地にするインセンティブがないってこと。
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カミュ『異邦人』

「きょう、ママンが死んだ」の書き出しが超有名。
母の死の翌日海水浴に行き、女と関係を結び、映画を見て笑いころげ、友人の女出入りに関係して人を殺害し、動機について「太陽のせい」と答える。判決は死刑であったが、自分は幸福であると確信し、処刑の日に大勢の見物人が憎悪の叫びをあげて迎えてくれることだけを望む。通常の論理的な一貫性が失われている男ムルソーを主人公に、不条理の認識を極度に追求したカミュの代表作
と、古本屋で購入した新潮文庫(窪田啓作訳)のカバーに書かれてあるのだけど、あらすじは、まあそうだとしても、主人公のムルソーは「通常の論理的な一貫性が失われている男」として描かれているわけではないと思うし、この紹介文から想像する内容と、実際の内容とでは、印象にずいぶん隔たりがある。
それで以前は、なんだか期待を裏切られたようで、途中で読むのをやめてしまったのだけれど、改めて読了してみれば、これがたいへん面白い。
「卒業式で泣かないと、冷たい人と言われそう」
斉藤由貴はそう歌ったが、ムルソーは、そんなことには頓着しない。ただし「卒業式」ではなくて、ママンの「葬式」なのだが。
しかし「泣かない」ことが、人格にとって、決定的な何ごとかであろうか?
「冷たい人」と言う人々(検察、裁判官、陪審員ら)によって、彼は「異邦人」として葬られる。カバーの紹介文は、そんな「人々」の通俗的視点から書かれたものであると解釈すれば、つまりムルソーにとって彼らの存在こそが不条理であるというなら、まあ一応の納得がいく。

古墳

平地に突如現れる山。古墳なんです。「ここいらはそういうのが多いんだ」と小学校の時、先生に教わりましたが、「はあ」ってなもんです。こちとら物心ついたときからそこを遊び場にしてて、日本全国どこもこんな感じなんでしょ? と思ってた。
私は小学3年生の時に転校してるのだけど、それまで近所に古墳がほんっとたくさんあって、けれど「古墳」なんて認識がまるでなくて、だから正式名称を一つも知らない。
一番よく遊んだのはハゲ山って呼ばれてた。桑畑の中にぽこんとある。大学のえらい先生が発掘にきたんだよと近所で話題になったけど「なんで?」ってなもんだった。
後にそのハゲ山で、同級生が花火をやって山を丸ごと燃やしてしまい大問題になったんでした。

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アリバイづくり

劇には劇固有のパースペクティブ=遠近法というものがある。作り手がいくら細部にこだわったつもりでも、観客の目には必ずしもそうは映らない。過度に真らしさに拘泥すれば、むしろ無粋な“アリバイづくり”の臭いが舞台上に立ち込める。

書かされる

たとえば登場人物Aの足のサイズをどうやって観客に知らせるか。
A(独白)「私の足のサイズは23です」
シンプルな説明。
B「Aって足のサイズいくつだっけ?」
A「23よ」
対話の体裁を採ってるが、実はその分、独白よりタチが悪い。Bがそれを訊く動機は何なのか? それが構造化されていないのを「ご都合主義」という。
C「いらっしゃいませ。よかったら履いてみてください」
B「これなんか可愛いんじゃね?」
A「うん」(靴を履く)
C「いかがですか?」
A「うーん、ちょっと小さいみたい」
B「もうひとつ、上のサイズ、ありますか?」
C「いくつでしょう?」
B「いくつ?」
A「23」
C「少々お待ちください」
これくらいやってはじめて描写といえるんではないか。
   
ところで、Cは靴屋の店員らしいとわかるだろう。
では、AとBの関係は? 
恋人同士かもしれないし、兄妹かもしれない。いずれにせよ私はそれをあらかじめ決めて書いていない。書いてしまってから二人の関係について想像を巡らせる。
すべてのケースでそうだとはいわないが、かように作者が登場人物の関係を事後的に決定するということはしばしばある。テクストが作者にそのチョイスを迫るのだ。
「書かされる」というのは、作者とテクストの間に働くそういう「力」に従うこと。

日常を描く

「日常を描く」というのは通念を補強するってことじゃない。逆だ。そいつを異化してやること。

天使が通る

俗に、ふとした沈黙をさして〈天使が通る〉という。気障な言い方をすれば、私はその天使の羽に触れたいのだ。

斉藤環『生き延びるためのラカン』

なるほどセックスをすればときには妊娠もする。あげくに「愛の結晶」なんてものが生れてきたりする。僕たちは、そういう体験にこそ「本物の関係」があると信じたがっている。でも、ひとたび精神分析を受け入れるなら、そもそも生殖や繁殖は、性とは何の関係もないことになる。妊娠や出産は、実は象徴界の外で起こる、いわば「現実的」なできごとなんだ。
 
そもそもラカンのいう想像界/象徴界/現実界って概念が非常にわかりづらいのだけど、「想像界」は目の前の現象、「象徴界」は、その社会に浸透した無意識の秩序・コード、「現実界」はプラトンのイデアみたいなもん、と私はざっくり理解してる。
 
ラカンのいうように、人間が「本能」を喪失した生き物だとして、単に異性愛が「自然」であるという象徴界の「取り決め」がされたに過ぎないのなら、ここにいるオレや、オマエは、いったい何なのだ? 
そもそもなんでそんな「取り決め」がされたのか? 
妊娠・出産という「現実的」なできごとが、象徴界における合理的な組み合わせの選択を指し示しているといえるんじゃないのか。それをひらたくいうと「自然」てことなんじゃないのか。
 
この世の誰も、一対の男女である両親の間に生れてきたという厳然たる事実を否定できない。だとすりゃ、「生殖や繁殖は、性とは何の関係もない」と大見得を切る資格があるのは、この世に生れてこなかった者だけではないか。

古井由吉『杳子・妻隠』

深夜、カーペットに落ちた髪の毛が突然気になりだして、コロコロで掃除する。一度気になりだすと、壁紙の煤けた汚れや、ガラスの指紋、テーブルの上のコップを置いた丸い跡など、とめどなく気になりだす。
そんな自分の姿を省みて、これって昔、どこかで読んだことがある、そう思い、本棚の奥から古井由吉の「杳子・妻隠」(新潮文庫)を引っ張り出してきた。
礼子は濡れ雑巾を片手に、煤けた顔で台所の混沌の真只中に立ってうつむいていた。
「何してるんだ。こんな時間に」
「ええ、戸棚の奥がなんだかカビ臭くて」
まだそのにおいが残っているみたいに礼子は眉をひそめて、戸棚の前にゆっくりしゃがみこんだ。そして戸棚の中を雑巾で力いっぱいに拭き、手を止めて奥をじっとのぞきこんだ。(妻隠)
静かな「狂気」。その舞台はやはり「日常」こそが似つかわしい。
ちなみに「杳子」は「ようこ」、「妻隠」は「つまごみ」と読む。

ホフマン『砂男』

「目」にまつわる怪奇小説。
暗喩によってもたらされる小説固有の気味の悪さを、舞台化することって可能だろうか? などと、ついつい考えてしまう。
たとえば、こんなくだり。
コッポラはいそいで晴雨計をわきに置くと、だぶだぶの上衣のポケットに手を入れ、柄つき眼鏡やら普通の眼鏡やらを取り出してナタナエルの机の上に並べはじめた。
「ほうら、ほら、鼻にかけるとよく見える―とてもすてきな目玉だよ!」
そんなことを言いながら次々と取り出しては並べていく。みるまに机の上が異様にピカピカ光りはじめた。数知れない目がギラリと輝き、おりおり烈しく目ばたきしながらナタナエルを凝視している。

金井美恵子『軽いめまい』

「水道の水を眺めながら何を考えるのでもなく、ぼうっと放心する心地よさと虚しさ」を、作中、主人公の夏美がマンションの台所で感じるのと同じように、この小説の長い長~いセンテンスに翻弄されるうち、読者の視線は行間から滑り落ち、記憶の底に沈んだ些細なできごとを意識の縁から覗き込んだりするのだが、ふいに我に返って“めまい”にも似た体験をすることになるのである。

つげ義春『貧困旅行記』

本書収録の「蒸発旅日記」は、語り部の「私」が、産婦人科の看護婦S子と結婚しようと“一方的”に決めたところからはじめる。
途中、「私」はストリッパーM子に出会う。
M子との再会を求めて劇場に行くが、彼女が散歩に出ていて会えず、諦めてバスに乗ったところで、「日記」は静かなクライマックスを迎える。
 
私は去り難くなりバスの後方へ目をやった。と、そこにM子の姿が目に映った。M子は乳母車を押していた。座長の子供の子守をしながら散歩をしているのだった。まぶしく照り返すアスファルトの道をぼんやりした面持ちで、バスの後方に近付いて来た。私は身をかくすように座席に身体を沈め、後髪をふりきるように目を閉じた。バスは発車した。

古井由吉『男たちの円居』

「円居」は「まどい」と読む。
大辞林 第二版によれば、『〔古くは「まとい」。円(まと)居(ゐ)の意〕(1)まるく居並ぶこと。車座になること。 「若き紳士等は中等室の片隅に―して/金色夜叉(紅葉)」(2)親しい人たちが集まり、語り合ったりして楽しい時間を過ごすこと。団欒(だんらん)。 「ストーブを囲んでの―を楽しむ」』とのこと。
ATOKで「まどい」を変換すると、先頭に「惑い」と出た。むろん偶然だろうけど、妙に納得する。
初出は「新潮」昭和45年5月号。パソコンはおろかワープロもない時代に書かれたこの作品の言葉が、不気味に読者の皮膚にまとわりつく。

定石

「定石」とは時間のふるいにかけられた「方法」の集積である。
こいつを覆そうと思ったら、ひょんな「思いつき」なんかじゃダメだ。そんなのは過去に誰もが思いついていたのであり、それが今、誰にもやられていないのは、やられていないなりの理由がある。
少なくともその蓋然性に思い至る程度の批評性が必要だ。ないならば、結果はハナから見えている。

稽古

“引き出し”にしまい込んだ出来合いの表現は芝居を平板でつまらないものにしてしまう。過去の“成功体験”にすがっているからだ。
稽古の間、演技プランを構築しては壊し、また構築しては壊し、それを繰り返す中でようやく「役」が呼吸を始める。
淀みなく台詞が出てくるようになるのが「ゴール」なんかじゃぜんぜんない。そんなものは、ただのスタートだ。

浅田彰『逃走論――スキゾ・キッズの冒険』

「世代論」なんてのはたいてい、自分の過去の(積極的な)忘却に支えられている。
たとえば選挙に行かない若者に私は物申す資格がない。自分だって学生時代、行かなかったんじゃないかと思う。そうしてその怠慢を指摘されれば、どこかで聞きかじったもっともらしいフレーズで自己弁護を図ったものだ。 
 
「無関心」といえば、確かにそう。けれどそれは意図的で方法的な無関心であったような気もする。「政治」みたいなマジなものは冷笑し、「軽さ」と「速さ」で“逃げ切って”みせる。それをわりとマジでやろうとしていたんじゃないか。
 
浅田彰の『逃走論――スキゾ・キッズの冒険』を当時、私は読んではいなかったけれど、そういうスキゾキッズ的なるものをヨシとする風潮は確かにあって、私も影響されていたはずだ。
「相対化」がひとつのキーワードになっていた。だから簡単に自明の「正義」を掲げることに躊躇する傾向があったように思う。もっともそれで、マジメな言説を茶化すばかりのシニシズムに至ったのもまた事実なのだけれど、ともあれ、そうした時代の記憶が、我々世代には内面化されている。と、思う。
 
最近ではポモなんて呼ばれ、80年代の遺物扱いされてるけれど、浅田が『逃走論』でいった「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」という態度は、今でも、というか今みたいな時代にこそ有効なんではないか。

他界

稽古中に叔父が他界した。告別式は公演中だったから、私は出席していない。たとえばこれが両親だったらどうか? あるいは妻だったら? どちらでも、私はやはり予定通り公演しただろう。芝居をやる、というのは、そういうことだ。

闇に葬り去る

「事件を闇に葬り去る」とはいうけど「事件が闇に葬り去る」とはいわない。どうしても「事件」を主語にしたいのならば「事件が闇に葬り去られる」だ。
これをわからせようとして、結局、諦めたことがある。

欺瞞

古い記事だが再掲しておく。

群馬県に建設している八ツ場ダムの完成時期が現行計画の2015年度から4年遅れることになった。同ダムを巡る民主党政権時代の迷走を受けた結果だ。

工期を見直すためにはダムの基本計画を変更する必要がある。国土交通省は事業費の一部を負担する利根川水系の1都5県から意見を聴取するなど、計画変更に向けた手続きに入った。
すでに今年度に入ってダム本体の建設に必要な関連工事を再開している。来年度にようやく本体の工事に着手する方針だ。
完成は19年度になるものの、事業費は約4600億円と現行計画のままで据え置いた。八ツ場ダムの建設費は当初の計画と比べると2倍強に膨らんでいる。すでに事業費の約8割は執行済みだが、工事の中身を精査して計画の範囲内に収めるのは当然だ。
それにしても、民主党の迷走は何だったのかと改めて思わざるを得ない。09年に政権についた直後に八ツ場ダムの建設中止を表明したものの、地元の反発やダム事業の検証結果などを踏まえて結局、撤回した。結果的に時間を浪費しただけだった。
一般論でいえば、自然環境に様々な影響を与えるダムは造らないで済むならばその方が望ましい。しかし、それは洪水を抑える治水、水道水や工業用水を供給する利水の両面で、合理的な代替案があることが前提になる。
八ツ場ダムについては関係する1都5県が一貫して早期完成を求めている。ダムに反対する住民グループが水需要の将来推計は過大だとして公金の支出差し止めを求めている訴訟も、「需要予測は不合理とはいえない」と住民側がすべて敗訴している。
「ダムは中止」と表明しただけで済むような問題ではないことは最初からわかっていたはずだ。調査が始まって60年以上がたつ八ツ場ダム事業で計画が変更されるのは今回で4回目になる。地元住民の生活再建を進めるためにも、早期に完成させるしかないだろう。(日経新聞)
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO58516980V10C13A8EA1000/

〈それにしても、民主党の迷走は何だったのかと改めて思わざるを得ない。〉などと、しれっと書いてるが、さんざん煽ったマスコミ自身こそが何だったのか。
脱ダム=絶対善みたいな情緒的ポピュリズムで国の政策を推し進めるから、こういうことになる。思い出すといい。堤防だって事業仕分けで「廃止」が決定されたのだ。
 
民主党政権のパフォーマンスを「画期的」であると過大評価し、拍手喝采した。マンガチックな国家観のもと、民主党=善/自民党=公共事業=ゼネコン=悪という構図をつくり、その上にあぐらをかいた。
そうしてさえいれば誰からの批判も受けず、ただただキレイゴトを口にして「善人」でいられるというわけだ。
この構造は東日本大震災後にもしっかり温存されている。
単純な善悪の二分法によって「絶対悪」とされた東電。これを貶めるデータを提供しない学者に対しては「御用学者」のレッテルを貼り、思考の領域から排除する。
排除した側の信じるような“深刻な状況”が「事実」であるならば、そんな汚染された土地に住んでちゃいけない、そこでできた農作物など流通させてはいけない、瓦礫も他県に拡散させちゃいけない。
これらは科学的にまったく根拠のないバカげた言説であるが、スジだけは通っている。
だがその一方で彼らは「絆」だなんだと情緒的な言葉を口にし、己の「善人」ぶりをアピールしておくことを忘れない。
これを「欺瞞」というのである。

明大前で乗り換えですか?

「渋谷に行くには明大前で乗り換えですか?」
京王相模原線だと明大前で井の頭線に乗り換えるから、そうだよねって話。
 
「ハチ公のある渋谷に行くには明大前で乗り換えですか?」
ハチ公のない渋谷があるのか? とも思うけど、「ハチ公」の情報を頼りに田舎から出てきたのかもしれない。
   
「タワレコのある渋谷に行くには明大前で乗り換えですか?」
タワレコ渋谷店に行くつもりなのかな、って思う。
「あ、でも今日、タワレコ渋谷店は定休日ですよ」
「べつにタワレコに用事はないので」
「じゃ、なんで言った?」

プロパガンダ

口語では主語と述語が捻れたり、重複したり、修飾/被修飾の関係が前後したりもするだろう。
それでもフツーは意味を受け取れる。なぜか? 
文脈やプロミネンス込みで理解するからだ。そういう情報が含まれている。
それらを捨象して話者の意図を曲解するマスコミはプロパガンダと言われてもしょうがない。

2017年5月24日 (水)

期待の地平

『挑発としての文学史』(岩波現代文庫)の中で、著者のH・R・ヤウスは「期待の地平」ということを言った。
文学作品は、新刊であっても、情報の真空の中に絶対的に新しいものとして現れるのではなく、あらかじめその公衆を、広告や、公然非公然の信号や、なじみの指標、あるいは暗黙の指示によって、きわめて確定した受容をする用意をさせている。その作品は、すでに読んだものの記憶を呼びさまし、読者に一定の情緒を起こさせ、すでにその始まりから「中間と終わり」への期待を作り出している。
テクストに対して読者があらかじめ抱く予測、要するにある種の類型=パターンのことだと私は理解している。

世論

構造の複雑な建物に住んでいて、柱に足の小指をぶつける。
「この柱、いらなくね?」
「だよねだよね」
痛みに任せたこの「だよねだよね」が世論てやつだ。
 
世論に従い、柱を撤去すれば、万事上手くいくのか? 
その柱は、目に見えない何かを支えているのじゃないか? 
たとえば普段我々が何気なく使ってる日本語だって、しばしばその語源に驚くことがある。なるほどー、そういう意味だったかー、って。
 
足の小指の痛みと引き換えに、屋根の落ちてくるリスクをとる? 
覚悟があるならそれもいい。

利己的

そもそも「民主主義」が最善の政治体制であるとあらかじめ決まっているわけではない。より有効と思われる選択肢を私たちが持っていないだけだ。
しかしこれを選択する以上、「数」は合理的に抽出されなければならない。当然だ。なぜならその抽出のプロセスが「民意」を正当化するからだ。
 
では民主主義の社会におけるデモの意味って何か?
私はデモそのものを否定しない。実際、それは政策に一定程度反映される。
なぜか? 
デモ参加者の動機の純粋性?
否。議員が「次の選挙」を睨むからだろう。
 
仲正昌樹は著書『ポストモダンの正義論』の中でロールズの「無知のヴェール」という考え方に触れ、〈“人間としての自然な情”に直接訴えるのではなく、エゴイスティックな人間のリスク回避傾向を利用する戦略を取ることで、マルクス主義的左派やラディカルな新左翼に見られる“共感”の押しつけを回避しようとしている点は重要である〉と評価している。
 
これと同じ「力学」で、デモは為政者の利己的心性に働きかけている。つまりデモの有用性もまた「選挙」という民主主義のシステムによって担保されているわけだ。私はそう考える。

読点

たとえば漱石が「吾輩は猫である。名前はまだ無い。」を「吾輩は猫である、名前はまだ無い。」としても、文体云々はともかく、読者に伝達される意味内容は一緒。
翻って、私が〈伝達される、意味内容は一緒〉としたら〈伝達される。意味内容は一緒。〉と伝達される意味内容が一緒になって〈伝達される意味内容〉としたかった私の意図は伝達されないことになる。

高度成長

高度成長期の記憶があるので、当時と比較して故郷の町がすごく寂れた気がするのだけど、小売店の主は今はもう年取って新たに設備投資する気もないわけだし、短絡的に「景気」の問題にしちゃうのはきっと違うのだろうね。
高校の同級生は町の電気屋の息子だったけど、「家業を継ぐの?」と訊いたら「まさか」と言った。そういうことだ。

芸術か猥褻か

「芸術か猥褻か」って議論がある。なぜ二律背反で語られるのかがわからない。猥褻な芸術だってあるだろう。だいたい「芸術」なんて自己申告制なので、本人がそうだといえば、そうなのだ。

私はこう考える。
「芸術」というのは形而上学的には際限なく自由。その限りにおいては殺人だって正当化される。すなわち思うのは勝手ってこと。
けれど形而下において表現する際、つまりそこが法秩序に基づく社会であるなら、法的な制約を受けるのはあたりまえの話。

「社会」っていうテクスト=織物は、さまざまな「糸(意図)」が交錯して一枚の面をなしているんであって、「芸術」だってその糸のうちの一本に過ぎないのだ。

三途の川

奥泉光『ノヴァーリスの引用』はこんな書き出し。

死が絶対の終焉である。歩み出た向こう側にはなにもなくて、天体のない宇宙空間さながら無際限な暗闇がぽっかり口を開いているばかりである。否、そのようにイメージされることをさえあたまから拒絶して、死がいっさいの内容を欠いた空無であるとしたら、正でも負でもない絶対の零であるとしたら、はたして人間は耐えうるのであろうか。(略)
耐えがたい。この点で全員の感想は一致した。であるならば、死にいかなる内実を与え、死をいかに構想しうるのか。

「宗教」といったときに一般にイメージされるのは何か「教え」であるとか「戒律」だとか、そういうものだと思うけれども、私はわりとそういうのはどうでもよくて、もっと人々の無意識に入り込んだ「文化」、なんだかんだいって最終的に逃れがたい土着性みたいなものに興味がある。
オカルト的な意味での「死後の世界」を信じているわけではないが、それでも自分はいまわの際に「三途の川」を渡るのだろうという気がしている。
何故か?
わからない。わからないけれどもこういう人間は私の他にも数多くいるはずで、そういう「物語」を無意識レベルで共有する者らの属性を「同胞」と呼ぶんじゃないか。
仮にそうだとすれば、イザナギ・イザナミの神話から「国」を語り始めるのは、至極自然な気がする。

ノイズ

ペヨトル工房が刊行していたサブカル雑誌『銀星倶楽部』の6号「ノイズ特集」は、そもそもノイズミュージックにかんする資料そのものがあまりない(らしい)ので、結構貴重な一冊である(らしい)。
ノイズミュージックとは何か?

伝統的な音楽的常識からは楽器と見なされないものを楽器や音源として使用し、楽曲を構成していく音楽。その名前自体がこのジャンルの特徴を簡潔に言い表している。リズムや旋律は完全に無視されるので、当然音響作曲法により構成される。(Wikipedia)

音楽とは、音の「秩序」である。ドレミの西欧的スケールから逃れても、そこにはまたべつの「秩序」が待っている。「ここではないどこか」は、そこに辿り着いたとたん、もはや「どこか」じゃなくて新たな「ここ」になってしまう。

それに抗う前衛的な試みが、「ノイズ」ということになるのかもしれない。
だが、いわゆる「ノイズミュージック」以前にもそうした試みはされてきた。たとえば、ジョン・ケージの「4分33秒」は、ステージに登場した演奏者が、何も演奏することなくステージを去る「曲」、いわば「無音」というノイズだ。

一般意思

 

そう考えると「一般意思」ってけっこうヤバイもんで、そいつを可視化して定量的に扱えるようにしたものが「全体意志」ってもんではないか。
全体意志を抽出するのに、とりあえず経験的にもっとも合理的と思われる手続きが、民主主義、といえるんでは? 
しかしやはり経験的にファシズムは民主主義から生まれるのだし、すると「ウロボロスの蛇」だ。

オスカーピーターソントリオ

大学時代の一時期、タワーレコード、シスコレコードとハシゴして、「ジャマイカ」というジャズ喫茶に立ち寄るのが私の行動パターンだった。
そこで、はじめてオスカーピーターソントリオの『We Get Requests』を聴き、タワーレコードでCDを買って帰った。
 
「ジャマイカ」は、床屋の主人に勧められた。
サークルには何に入るつもりなのかと訊かれて、ジャズ研とこたえたら、その老舗のジャズ喫茶を教えられたのだ。
後に実際、ジャズ研には入ったのだけど、私のレベルが低すぎてついていけず、ひと月くらいで辞めた。
しかしそもそもジャズ研に入ろうと思ったきっかけが、『We Get Requests』だったのではなかったか。
すると、「床屋」の時点で私はこのレコードを聴いているはずで、話の辻褄が合わない。

民主主義

自明の正義なんてもんは存在しない。いくら己の信念を強調しても、それは彼/彼女にとっての正義にすぎない。
じゃあ「私たち」の正義って何か?
ルソーがいうところの「全体意思=私的利益を追求する特殊意思の総和」じゃないか。しかるべき「手続き」を踏んで、そいつをはじき出す。それが「選挙」というものだ。
だから、選挙結果を受けいれるということは、正当な手続きのもとに束ねられた民意に拘束されるってこと。
これが民主主義というものだろう。

万能薬

「万能薬」などというものは、この世にない。
多かれ少なかれ副作用のあることを承知した上で、ある症状を克服すべく、その薬を使用する。むろん、使用に際しては注意が必要で、だから専門医の意見にも耳を傾ける。副作用によって、むしろ命が奪われる蓋然性が高いのならば、そんな薬は使用すべきじゃない。
要するにリスクは定量的に比較し評価すべきものである。
ただ漠然と「副作用がある!」というわかりきった「事実」の連呼に、いったい何の意味があるか?

転移

昔、美川憲一が「もっと端っこ歩きなさいよぉ~」っていうテレビCMがあったが、同じ目に遭ったことがある。
その声に振り向くと、見知らぬ爺が捨て台詞を吐いて、私の傍らを、ふらふら自転車で追い抜いていった。
私はカチンときた。追いかけていって胸ぐらを掴み文句の一つも言ってやろうかと思ったが、さすがに大人気ないので我慢した。
 
しかしなんで私はあんなに腹が立ったのだろう、と後になって考えてみる。
一つの仮説を立てた。以前、こんなことがあったのだ。
マンションの近隣住民とのやりとりで、筋の通らぬ相手の要求を拒否したところ、意趣返しで、やれゴミの捨て方が悪いだの自治会への加入率が低いだの、あーだこーだと管理組合に難癖をつけてきた爺がいた。
この爺、とにかく言うことが支離滅裂で、理屈がまるで通じない。そのくせ、老人=弱者というステレオタイプを活用し、「かわいそうな私」を自己演出する狡猾さだけは持ち合わせている。
  
これだ、と思った。
つまり自転車爺への私の怒りは、本来、この難癖爺へと向けられていたものだった。それが「爺」という類似を蝶番として、怒りが、いわば「転移」したのだ。

心象

ある「事実」を前提とした心象。
それについて語る言葉を、時間をかけて彫琢してみたはいいが、後に前提が崩れたとき、すなわち「事実」が事実でないとわかったとき、さて、ひとはどうするか?
磨き上げた自分の言葉を捨てられない。
上げた拳の下ろしどころがわからない。
結果、「事実」と「心象」の因果関係を破棄するのである。
根拠を失い、宙に浮いた「心象」を、そのまま正当化するのである。

振り込め詐欺

ある朝、私のケータイに母から電話があった。
「あれ? 出た」と母。
「何?」
「ケータイ、トイレに落としたんじゃなかったの?」
「は?」
「喉は?」
「ノド?」
「痛くないの?」
「べつに…てか、さっきから、何、言ってんの?」

母が言うにはこういう事だ。
昨夜、私が母に電話してきた。喉が痛いので、医者に行かねばならないが、耳鼻咽喉科がいいか、内科がいいか。母は、なんか声がおかしいな、と思いつつ、しかし喉を痛くしてるのだしな、と自分を納得させ、内科に行くようにと勧めた。私は、ではそうする、あ、そうそう、ケータイをトイレに流してしまったので、今までの番号を消去して新しい番号を登録して、と言った。
そして母は、私がトイレに流したケータイの番号に、念のためかけてみた、というわけだ。
「振り込め詐欺じゃん」
「でもお金を要求されてないよ?」
「これから、されんだよ」

私は警察に通報した。事情を説明すると、出身高校を聞かれた。訝しみつつも私は答えた。すると相手は、私の卒業年度を言ってみせた。
「どうしてわかったんすか?!」
同様の通報がすでに3件もあったのだという。すべて同じ高校の卒業生。つまり、同じ卒業者名簿を使っての犯行だろう、ということだった。

「そういうことらしいよ」と私が電話で母に言った。
「なるほどね。ところで、喉の痛みにはアミノ酸のサプリメントが効くらしいよ」
「だから、喉なんか痛くないんだってば!」

***

後日、内科から帰った「私」が、再び母に電話してきた。
どうやら私は居酒屋勤務の女(27歳・既婚)を妊娠させてしまい、相手の旦那がカンカンで、400万円要求されたのだが、弁護士を間に入れて、なんとか100万円にまけてもらったらしい。
その100万円を用意してくれという。
「結婚しちゃえば?」
母は私にそう助言したらしい。

理想

学生時代にもっと勉強しとくんだった、と後悔することはしばしばあるけど、よく思い出してみれば、学生ってなんだかんだと忙しい。私のいた学部なんかは「猫より暇」とバカにされたもんだけど、猫には猫なりにやることがある。
だいたいほんとに勉強してたら、後悔せずに済んだんのか? 理想的な学生時代だったなあ、ってなる? 「理想」というのはいつも「現実」より高いところにあって手の届かぬものだ。手が届かぬから「理想」なんだし。

佐伯啓思『自由とは何か』

普通、われわれは「自由な個人」から出発する。「自由な個人」から出発すれば、国家はそれに対する制約としてしか理解されないだろう。こうして、「権力を行使する国家」に対する「自由な個人」という図式が出てくる。確かにこの図式が妥当する局面もしばしば存在する。しかしより根底にあるものは、「自由な個人」を支える「権力を持った国家」なのである。この後者をとりわけ注意しておきたいのは、「権力」VS.「自由」や、「国家」VS.「個人」という図式はあまりにわかりやすいのに対して、「権力」や「国家」が「自由」や「個人」を支えているという側面はなかなか見えにくいからだ。

こんなことを思い出す。
新宿の劇場で反戦運動家による芝居。その開場を待つ客の列で、初老の男が若者に話しかけていた。
警察は不要である。なぜなら警察が出動することにより、凶悪事件は一向になくならないのだから。
「キミ、そうは思わないかね?」
全共闘世代と思われるその男は、まるで〈運動〉していた若かりし頃の自分自身に語りかける口調だ。
それを目にして私は心底うんざりした。とうの昔に葬られたものと思っていたこの手の議論が、21世紀の今日において、相も変わらずされている。
 
著者は、本書の終盤でこう述べる。
現代の「自由」が「自由」を蝕んでいるといってもよいし、「自由」の領域をいささか矮小化してしまっている、といってもよい。ここに現代の「自由のパラドックス」がある。

そして、このパラドックスの生じる理由は、〈「自由」という観念に実際上、意味を与えている条件、それを支えている条件に目を向けていないからである〉と。

好みの問題?

まだ書かれてもいないし、おそらく今後も書かれることのないホンの構想の話など、テキトーに頷いて聞き流せばよかったのだが、あまりに短絡的で牽強付会な因果関係の設定と、陳腐な愛国イデオロギーにうんざりし、思わず素直に感想を述べてしまった。
言わないでいいことを言ってしまうのが私の悪い癖。当然、険悪なムードになる。
しかしこの文学的カンの悪さは、少なくとも戯曲を書こうなどという人間にとっては、ちょっと救いようがないなと思ったのだ。「結局、好みは人それぞれ」というところに話を落とし込もうとするのもセンスが悪い。
「好み」の問題なんかじゃないのだ。なぜなら「問題」のほぼすべてが技術論に還元できてしまう話だからだ。

バブル世代

私と同世代の学者が、いわゆる「バブル世代」についてその特徴をこう記していた。
 
〈この世代は共同体的なものを否定して脱アイデンティティでいかなくてはいけないという発想がとても強い。思想的には80年代ニューアカ的知的流行の影響を受けていて、なんでもネタとして捉えてしまう。ベタなものが嫌いで、そういうスタイルを受け入れられず、全部ネタのレベルで解釈してしまう〉
 
なるほど確かにそうかもな、と思う。 しかし当時、たとえば浅田彰的なものに自分が心酔してたかといえば、そんなことは全然なかった。むしろ、デリダだフーコーだ ドゥルーズだっていう連中を、やっぱり「ネタ」として扱っていた。

両手ぶらり

矢吹丈の「両手ぶらり」は何のため? 
「武力」をあえて放棄してみせることで相手の攻撃を呼び込み、カウンターパンチを食らわせようという作戦だ。
この「力学」じたいはちっとも難しくない。攻撃を呼び込みたくないなら、ちゃんとファイティングポーズをとればいい。

論争

ネット上である「論争」を傍観していた。最後は“論争”というより罵り合いの様相だが、発端となった発言は、とてもよく書けた文章で、私は感心していた。
それに噛みつく者のほとんどが、くだらない揚げ足取りなのだけど、中には希に意味ある指摘をする者もある。
しかしその説得力ゆえになお、指摘された方はほとんど意固地となって、それをも切り捨ててしまう。敵/味方の二元論に自ら嵌り、批判の匂いを含むコメントには徹底抗戦。その一方で、しょーもない擁護にすり寄ってしまうのだった。
あれほどの素晴らしい文章の書き手が、こんな幼稚な反応をしちゃうのかと、ちょっと意外なのだった。

宮沢章夫『東京大学「80年代地下文化論」講義』

〈ピテカン〉的なものと〈おたく〉的なもの。前者が80年代の文化的ヒエラルキーの上位に、後者が下位にあった、と著者はいう。
そして当時、虐げられていた〈おたく〉たちが、後に「ヒルズ族」なんかになり、80年代を振り返ったとき、あの時代は「スカ」だった、と切り捨てる。
 
大塚英志『「おたく」の精神史』を反語的に参照しつつ、概ねそんな見取り図で「80年代」を再評価しようという試み。
「おたくの保守性」に対する〈批評性〉」というチャプターで、『おたくが閉塞しちゃった先にあるナショナリズムというのは、具体的にどういうものなのかというのを聞きたいんですけど』という学生の質問に対する回答の中で、著者は次のようにいう。
たとえば、小林よしのりのような人が出てきて、ちょっと肩を押されると、すっと右の方へ行く。すると彼らは簡単に、ものごとを単純化する。小林よしのりが語ったような言葉を使うわけです。
だが、「簡単に、ものごとを単純化」するのは、べつに「保守」に固有のものではないだろう。上記引用文の「小林よしのり」を、左翼文化人に置き換えてみればいい。右と左が異なるだけで、これもまた「内閉する連帯」に他ならぬのではないか。

形容矛盾

構築された偶然、というのは形容矛盾だが、「演技」ってその矛盾を引き受けること。

させない

「戦争させない」という使役動詞を用いたフレーズが前から気になっている。これは〈私(たち)/それ以外〉という選良意識がまずあって、「それ以外」によって間違った国家運営がされている、ということだろう。

落第

昨夜は警察に逮捕される夢を見た。
学校の教室みたいなところに入れられ、時間がきたらはじめるぞと先生みたいな警官にいわれたから、「ちょっとその前にトイレ」。
用を足し、さっきの「教室」に帰ろうとするのだけど、道がわからない。同じような部屋が左右にずらっと並んでいて私は迷子になり、とうとう建物の外に出た。
「時間」はとうに過ぎている。ああ、もう絶対、「落第」だ、と私が思っている。

主観主義

ハンセン病が差別されている時代、自分の家の墓に納骨されないことが普通であった。小舟での上陸時、わざわざ別の船着き場を使用していたことが記録されている。宮古島の離島、池間島のある浜は、昭和30年代に南静園に隔離されている島出身の患者の接岸地であった。マズムヌヒダガマ(悪霊浜)と言いウトルス(脅威)の地であった。周りは青々としてアダン、アザミ、ハマヒルガオが生い茂り言い知れない匂いも強烈であった。海での事故死の時も使われたこの船着き場が現在も残る。(Wikipedia)

巷に溢れる“良心的”な言説は、「子供の未来が心配」であるとか、その手の“思いやり”で彩られている。自分を「悪意」と無縁の者であると証明しようとでもしているようだ。
だが、「差別」は「悪意」がもたらすものではない。ハンセン病患者の悲劇は、無知な「善意」が生んだのである。一面的な「優しさ」だとか「思いやり」だとか、そうした“情緒”を絶対視し、行動の原理とする主観主義こそが「差別」をもたらすのだ。

水回りの工事

台所の蛇口が調子悪くて水道屋を呼んだのだが、部品の取り寄せに一週間かかるという。
最初、郵便受けに投入された磁石式シール記載の番号に電話しようかと思ったのだが、念のため検索をかけてみたら、業務停止命令を食らっている悪徳業者だと判明。あぶないあぶない。

何年か前にこんなことがあったのが思い出される。
マンションの管理会社から依頼を受けた「水まわりの工事」だと偽って、ヘンなリフォーム業者がやってきたのだった。もっともらしく作業服姿で、胸にはご丁寧に「社員証」なんか下げているのだが、会社名は読み取れない。読み取れないようにできているのだ。
今、キャンペーン中で、この近所で風呂の購入者を募っている。購入希望者は既にこのマンション内にも複数いる。まとめ買いすれば安く風呂の交換ができるので、お宅もひとつ、のらないか?
「複数って、たとえば、誰よ?」
「はい?」
「購入希望者が複数いるんだろ? たとえば、誰よ?」
「それは…プライバシーに関することなので教えられませんよ」
「じゃあ、管理会社の名前は?」
「何ですか?」
「このマンションの管理会社の名前だよ。依頼されて来たんだろう?」
「そんなの、自分でご存知なんじゃないんですか?」
「ほらみろ、嘘じゃんか」
「嘘とは?」
「管理会社から依頼なんかされていない」
「されてますよ」
「嘘を言うなよ! 風呂のセールスじゃねえか」
「そうですよ」
「はあ? さっき『水まわりの工事』だって言っただろう?」
「だから、そういう意味で『水まわりの工事』って言ったんですけど?」
ざけんな! つって追い返したら、玄関ポーチに唾を吐いていきやがった!

プリミティブな価値観

忠犬ハチ公は主人の帰りを待っていた。
しかしほんとうに? 
それは誰にも分らない。擬人化された犬の内面を想像すると、そう思えて仕方がないというだけだ。
 
私たちが共有してるこうした「物語」は、ある時代のある地域に支配的な価値観にもとづくもの。普遍的「善」と信じられがちなプリミティブな価値観も実は限定的なものにすぎない。
とはいえ、その時代にそこで暮らす限り、それは単に観念の話じゃない。たとえば「矢ガモ」のカモはほんとは痛くないかも、というのは通用しない。犯人はきっちり法律で裁かれる。
翻っていえば、法律ってそういうもの。

 

技術

演技にしろ作劇にしろ、その技術的向上を目指すことと「本質」を掘り下げることは、べつにトレードオフの関係じゃない。どっちか一方を取らなきゃならないって話じゃない。むしろ前者は後者の結果。事後的にくっついてくるものだ。

パターン

「かつて自分は、世の中、金がすべてだと思っていた」という“正直”な告白。これに続くのは、「しかし今は―」と、通念的に“間違った”過去を全否定する形での「善」の上書きだ。
こんなパターンは誰にだって想像がつく。

正義

「正義」というものは常に相対的なものだ。
右であろうが左であろうがイデオロギッシュなバイアスのかかった陰謀論を吹聴する人たちはいったい何と闘っているつもりなのか。自己陶酔するのは勝手だが、彼らの発するノイズのせいで、「事実」に対するまっとうな知見が掻き消される。

ミシェル・フーコー『言葉と物』

ともかく、ひとつのことがたしかなのである。それは、人間が人間の知に提起されたもっとも古い問題でも、もっとも恒常的な問題でもないということだ。(略)もしもこうした配置が、あらわれた以上消えつつあるものだとすれば、われわれがせめてその可能性くらいは予感できるにしても、さしあたってなおその形態も約束も認識していない何らかの出来事によって、それが十八世紀の曲がり角で古典主義的思考の地盤がそうなったようにくつがえされるとすれば――そのときこそ賭けてもいい、人間は波打ちぎわの砂の表情のように消滅するであろうと。

フーコー『言葉と物』の結び。 観念的なアングラ演劇の台詞みたいで何を言ってるのかよくわかりませんけれども、わからないなりに曲解しますと、人間のアリンコ化あるいはイワシ化つまり「個」の喪失ってことなんじゃないか。それが「人間の終焉」ってやつではないか。 私の死もあなたの死も区別がない世界。ないでしょ、アリンコやイワシには。

思考態度

「20歳までに左翼に傾倒しない者は情熱が足りない。20歳を過ぎて左翼に傾倒している者は知能が足りない」
チャーチルが言ったとされる言葉だが、「知能が足りない」というよりも、それが右であれ左であれ、目の前にあるリスクの実際的な解決に己の人生経験を活用するつもりがないという怠惰な思考態度が蔑まれるべきなのだ。

自虐史観

よく「自虐史観」というけれど、「自虐」の「自」のなかに「私」だけは含まれてない。そこからいち早く抜け、高みに立って独善的な「内部告発」をして悦に入る。

パフォーマティブ(行為遂行的)/コンスタティブ(事実確認的)

子供の頃、母親に「お風呂、見てきて」と言われ、
「見てきたよ」
「沸いてた?」
「知らない」
「は?」
「見てきてと言われたから見てきただけ」
そしてぶっとばされたもんだ。
 
言葉にはパフォーマティブ(行為遂行的)/コンスタティブ(事実確認的)の二つの側面がある。母がいった「お風呂、見てきて」はむろん前者で「風呂が沸いたかどうか確認してこい」という意味だ。

おてんとうさま

無神論者とはいわないが、「神」を普段は明確に意識しない。
そういう私を含む多くのフツーの日本人にとって、「天網恢恢疎にして漏らさず」だとか「おてんとう様が見てる」だとかって、わかったようで、実はよくわからない。
いったい「おてんとう様」の正体って何なのか?
「世間の目」だとか「同調圧力」と解釈されがちだけれども、それも、ちょっと違う気がする。「良心」といってしまえば、そりゃまあそうなんだが、そもそも「善悪」が相対的である以上、何が「良心」で何が「悪心」なんだか、決められない。

権威主義

〈国家=悪/民衆=善〉というマルクス主義的二項対立に強く支配された者は、〈巨悪が隠蔽する「事実」を民衆が暴く〉という構図のストーリーにすこぶる弱い。
たとえばある組織の元職員の「体験談」を、自分の主張と合致する場合のみ、必要以上の価値を認める。すなわち「事実」の論理的整合性より、話者の肩書き=属人性を都合よく重視して、思考のプロセスを「省略」する。

虚構性

一般に年を取ると信心深くなるらしい。それは死を身近なものと感じ始めるから、というのもあるのだろうけど、同時に生の「虚構性」が理解されるためではないか。
虚構となれば「物語」を与えずにはいられない。現象を冷めた現実としてそのまま受け入れるなんて、人にはできっこなくて、必ず何らかの意味づけ=物語化がされるものだ。
「故人も喜んでいると思います」という喪主の挨拶に誰も根拠を求めない。

レコード

レコードを出したことがある。世界に一枚しかない私のピアノ演奏の音源。
というのはウソではないが、要するに幼稚園時代のピアノの発表会の模様を収めたレコードだ。
むろん自主製作で、世間に流通はしていない。親バカのなせるワザである。
私はラクダ色の半ズボンに白のタイツを穿いていた、と記憶するが、その記憶はたぶん、当時の写真を後で見てのものだろう。
だがステージに上がる直前のことは、ダイレクトに憶えている。
ピアノの先生に付き添われて下手(しもて)の舞台袖にスタンバイしていた。
ステージでは、何人か、女の子の演奏が続いた。
「いよいよ次は男性ピアニストです」
MCが私を紹介した。「男の子」でなく「男性」という言い方にか、あるいは「ピアニスト」という仰々しさにか、観客がどっと笑った。
先生も笑い声を上げた。
私はすでにステージに向かい歩き出していたのだが、あわてて舞台袖に踵を返した。「間違えた!」と直感して。
「いいのよ、いいのよ」
先生が私を回れ右させ、再びステージに押し出した。
私は黄色いバイエル程度の難易度の曲を2曲、弾いた。なんで笑いが起きたのかわからず、憮然として。
それでも教えられた通り律儀にスタッカートなんかしてるのが、自分で言うのもなんだけれど、かわいらしい。意外とテンポもキープしている。が、いかんせんミスタッチが多く、時を隔ててレコードを聴く私が、ひやひやしてしまう。
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水の泡

夢を見た。
私は高校三年生で、大学受験を目前に控えている。なのにちっとも勉強してなくて、まずいまずいと焦っている。私が受けようとしている大学は、去年、私が卒業した大学であるらしい。入学できなかったらどうしよう、苦労してやっと卒業したのに、あの苦労が水の泡になる。

ミシェル・フーコー『監獄の誕生 監視と処罰』

「支配」の内面化という〈パノプティコン〉的なテーマはニューアカの影響もあって80年代小劇場ブームの頃に好んで書かれたテーマだったように思う。
しかしそうした芝居をしていたり観ていたりした人たちが、その後あっさり左旋回し、古くさいマルクス主義的「支配/被支配」の構図に嵌まっていくのを私は見てきた。彼らに対する拭いがたい不信感が私にはある。

仲正昌樹『「みんな」のバカ! 無責任になる構造』

〈デリダの「無限の他者に対する応答可能性=責任」論は、実は、キリスト教文化圏における「告白」を通しての「無限なる神」に対する「責任」という制度を前提にしているのではないか、と「私」には思われる。〉 

〈フーコーに言わせれば、近代的な自律した「主体」というのは、実は、様々な「みんな=社会」の「代表=表象」制度による教化を通して、告白的な責任構造を「内面」化された存在なのである。〉

〈『私の個人主義』(1914)という有名な講演によって、日本の「みんな」がなかなか理解できない「自由」と「義務」(あるいは「責任」)の一体不可分性を明確に論じたとされる夏目漱石も、両者の媒介項としての「法」的な強制システムの問題を飛ばして、純粋な良心の話にしているきらいがある。〉

〈「みんなの正義をみんなで守ろう」という形を取るのが日本的な“みんな”の考え方であるのに対して、西欧個人主義というのは、社会的「正義」をいったん可能な限り個人の「権利」に分解したうえで、責任主体としての「個人」にそれぞれの守備範囲内で守らせていこうという思想である〉

〈そういう責任の分配・限定の仕組みをあまり考えないまま、漱石以来「みんな」が言い続けている「日本人は、自由には社会的責任が伴うことを知らない」という聞いたような台詞を反復してさえいれば、自らの“社会的責任”を果たしたことになると思っている“良心的な言論人”に、「私」は腹が立っている。〉

著者は上記のように言う。
さらに私は、著者が腹を立てている「良心的な言論人」の言説を無批判に受容し、模倣=反復する「みんな」にも腹が立つ。「俗情との結託」(大西巨人)=通俗性への依拠によって自己正当化し、絶対に他者による検証が不可能な己の「内面」を根拠にモラリストを装う。そうして自分の気にくわない相手に対し、この「モラル」でもって一方的に断罪するのだ。これに対する反論は、「モラル」=「みんな」の否定であるという論理のすり替えによって自己防御を図るわけだ。

川崎市海底トンネル

川崎市の工場地帯、千鳥公園の一画に、海底トンネルの入口がある。
軽い工場マニアの私がはじめてこれを知ったのは、もうかれこれ十年くらい前だったか。
冬。日の暮れてかけた公園の片隅に、ぽつんと明かりが灯っていた。
階段を下りていくと、扉が閉じている。なんだ、入ることはできないんだな。と、何か貼り紙がされてある。近づいてみると、いきなり扉が開いて、ぎくりとした。ドアの奥に進み、さらに階段を下りていく。貼り紙の内容は忘れてしまった。

トンネルはまっすぐ続く。出口は見えない。〈歩行者専用通路なので自転車を降りるように〉と促すアナウンスの女の声が、エンドレスで流されている。不気味…。
行き先のわからぬまま、とりあえず、歩いてみる。しかし歩いても歩いても果てがない。だんだん恐くなってきた。引き返そうかと思い、振り返ったときにはすでに、ずいぶん進んだ後で、前方と同じく、後方にもまっすぐな道がどこまでも続いている。実際、少し引き返した。けれど、ここまで来たら、やはり前進した方が早いのでは? そう思い直して再び踵を返す。いやいや、待てよ…と優柔不断に行ったり来たり。結局どちらにもたどり着けぬまま永遠にこのトンネルに閉じこめられ、一生を終えるのではなかろうか?

海底トンネルの長さは約1キロ。
到着した先は東扇島。あらかじめわかっていれば、さほど長くもない距離だ。
海の向こうに、さっきの千鳥公園が見える。

オンリーワン

とくに若い頃には自分の「天才=オリジナリティ」を信じたいものだ。それが赦されるのが若さの特権だけれど、現実には、大半の人間は「天才」なんかじゃない。
アタリマエだ。それでも、そうした信仰は根強い。歌謡曲でも「ナンバーワンよりオンリーワン」などと歌われ、それがヒットする。
けれど、需要があるのは実のところ、せいぜい類型からの「ズレ」の肯定だ。本当に「オンリーワン」を実現しようと思ったら、無数の他者に対する「私」の差別化が延々と繰り返されねばならず、その結果、「私」などというものはどこにもいないという結論に至らざるを得ないのだから。 
むしろ「私」が消失してしまう。

立ち位置

自分の立ち位置を「やや」テクスト論者よりと規定してきた。
書かれたものはそれじたいとして独立したものであり、作家の従属物じゃない、という考え方が気に入っているからだ。
むろん矛盾はある。屁理屈めいてるとこもある。
だからしばらく「コンテクストもテクストの一部」なんてことをいってきたのだけど、それもレトリックによる誤魔化しだな、と今は思う。
イラストレーターのレイヤーというかアニメのセル画みたいに次元が異なる「画」が複数枚、重なり合って「一枚の画」を構成してるのだ、というふうに今は思ってる。
そのうちまた変わるかもしれないが。

役の生理/役者の生理

役の生理と役者の生理は分けて考えよ、というのが、ほとんど私の口癖になっている。
「役」というものは演者の主観の外化などでは決してなく、常に演者と観客との間主観的なものである。それが演劇である以上、構造的にそのようにしてしか「役」というものは存在しえない。
演者が「何を思っているか」ではなくて、「何を思っているように、観客に思われるか」が問題だ。その自覚のない者はしばしば己の生理が役のそれを阻害する。平たくいえば、独りよがりというやつだ。
そして同じことが作家にも、演出家にも言える。

情操教育

「情操教育」というものは、べつに幼少期に〈普遍的〉な価値観を植え付けておけ、というものではなく、むしろそれらが後に自身の手によって相対化され、更新され、〈普遍的〉でもなんでもないことが暴かれるのを期待して施されるべきものではないか、と私は思う。

児童文学的な世界では、オオカミは常に「悪」である。
それはそれでいい。
だが、オオカミにはオオカミの価値観=世界があるのだと、やがて子供はその成長過程で気づいていく。
そうしたまっとうな知性と感性を前提としてやること。
それが、子供を「信じる」ということなんじゃないか。
人生にかんする情報量不足からくる〈ピュア〉の側面だけを強調し、妄信的な性善説に基づく放任主義など、ほとんど育児放棄に等しい。

責任の源泉

公のために自分を捨てることが国会議員の仕事、だなんて私はちっとも思わない。
それは結局「動機の純粋性」に還元されるじゃないか。
 
ある人がこんなようなことをツイートしていた。
「ミルは絶対的真実(真理)を想定しつつ,その不可知論ないし手続き的相対性から多様な言論が真理発見(真理補強)に資するとして表現の自由を肯定する。しかし自分は真理を想定せず、コミュニケーションによるコンベンショナルな一応の到達点の不断の見直し自体を重視する」
 
「真理」が「あるけど決して辿り着けない」のと、そもそも「ない」と腹をくくるのとでは同じこと? 私は違うと思う。私らはニーチェ以降を生きている、と私がいうのはそういうこと。イデアなんかそもそもないんだと。
 
人間とは利己的な動物であるってことを前提に、そいつをむしろテコにできる制度設計をするのが大事なんだと私は思う。
であるならば、「次もまた当選したい」という欲望=不純な動機こそが、為政者の「責任」の源泉じゃないか。

ちっちゃい人

夢を見た。
深夜のマンションの共用廊下で何やら大きな足音がする。
「ちっちゃい人だわ」と妻が言う。
「あなた、ちょっと見てきて」
私が玄関のドアを開けると、隣の部屋で一人暮らししている美人女子大生がちょうど帰ってきたところだった。彼女は廊下で私に会釈して言った。
「今夜もまた、ちっちゃい人ですねえ」
「何なんですか、その、ちっちゃい人って?」
私が尋ねると、彼女が詳細な解説を始めたので、
「ちょっと待ってください」
私は一旦部屋の奥に行き、筆記用具を手にまた廊下に戻った。
すでに彼女の姿はなかった。
「解説」がまだ途中である。私は隣の部屋のチャイムを鳴らそうとして、手を止めた。こんな時間に、一人暮らしの女子大生を訪ねていって、誰かに見られたら、あらぬ疑いをかけられるのではなかろうか?
いや、そういえば確かに、下心は、あったのである。
ドスドスと、ちっちゃい人の足音が続いている。

取材

新入社員として勤務した会社周辺をぶらぶら歩く。
で、かなり意外だったのが、ぜんぜん懐かしさを感じない、ってこと。当時の建物が取り壊されてビルになってしまった、というのもあるけれど、どうも、そういうんでもない。
「ふるさとは遠きにありて思ふもの」ということか。べつに「ふるさと」でもないが。

それでもこうして駄文をしたためていると、いろいろ生々しい記憶が芋づる式に蘇ってくる。それらが、20代の頃には書くことができなかった。書く価値もないと思っていた。
 
戯曲を書くための取材である。とはいえ、私戯曲的なものにするつもりなど、さらさらないのだ。取るに足らぬ業界の「裏話」も、むろん「思い出話」も、芝居にする価値などありはしない。あなたが知っていて私が知らぬことがあるように、私が知っていてあなたが知らぬこともある。それだけのことだ。

現国

「作者のいいたいこと」みたいな「現国」的解釈で、作品をモラルに回収されるのは、書き手にとっては苦々しい気がするものだ。
それでつい「現国」批判に走ってしまいがちなのだけれども、そんな批判も、ある程度の「現国」的素養を持つ者にしか理解されない。

われわれすべて

「しゅう‐きょう〔‐ケウ〕【宗教】 《 religion 》神・仏などの超越的存在や、聖なるものにかかわる人間の営み。古代から現代に至るまで、世界各地にさまざまな形態のものがみられる。(デジタル大辞泉)」

「世界各地にさまざまな形態のものがみられる」のだから、世界でただ自分一人だけ、俺さまだけが信仰する“俺さま教”があってもよさそうだ。と、若い頃(20代の終わりくらいまで)私は思っていた。それが私の“宗教観”だった。
が、たぶんそれは、「宗教」とは呼べない。ある程度の広がりを持って、人々の間に死生観が共有されている状態でなければ。(「ある程度」というのが、どの程度なのか、という問題は残るけれど。)

たとえば仏教、神道、キリスト教と、一見、宗教に関して無節操であるかのような日本人の多くが、いまわの際には皆、三途の川の川岸に呼び集められる、そんな価値観の共有。
現象学でいうところの「間主観性」ということになるだろうか?

フッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』に、こういう記述がある。

「自我」―わたしがいま語っているような自我―の意味変更という現象、すなわち、自我が「他我」へ、「われわれすべて」へ、多くの「自我」―そこではわたしも「ひとり」の自我であるような―をもつ「われわれ」への意味変更が欠けていた。したがって、「われわれすべて」としての相互主観性がわたしから出発して構成される、いな、わたしの「中で」構成されるという問題も欠けていたのである。

太田省吾の世界

DVD、disc4枚。『小町風伝』『水の駅』『更地』『砂の駅』『エレメント』『聞こえる、あなた?―fuga#3』と特典映像を収録。
 
観るたびに発見があり、面白い。たとえばタルコフスキーの映画を観るような、あるいはロブ=グリエの小説を読むような。心地よくて、うっかりすると寝てしまう芝居ではあるけれども、夢と舞台が溶け合うのも、それはそれで悪くない。
 
特典映像のインタビューの中で、コクトーがサティの音楽を「タコじゃない音楽」と評した話が出てくる。それまでの音楽というのは、タコの足で観客を絡め取るようなものであったが、サティの場合はそれと違う、という。

要するにアンチロマン的傾向の指摘だろう。太田省吾の演劇もその意味で「タコじゃない=非タコ」であるというインタビュアーの指摘はまったくその通りだ。
しかし太田は、同じく「非タコ」的傾向を持つ「静かな演劇」(という呼称も、もはや死語だが)を、自身の作風との共通性を認めながらも批判的に語る。つまり、日常性の枠組みから「跳べない」というミニマリズム的限界に対する批判である。
 
しかしその「限界」を超えるべく、太田以降の多くの劇作家により、さまざまな方法が試され、それなりに成果を上げてきた。少なくとも私はそう思っている。マジックリアリズム的手法の導入や、アングラとの接合、等々。90年代に若い演劇人によってやたらやられた日常のスケッチみたいな作風は、今となってはむしろ少数派だ。

加藤典洋『テクストから遠く離れて』

①作者還元論/②テクスト論/③脱テクスト論。

著者はこのように大別する。
で、①と②の間には「読み」のコペルニクス的転回があって、私は学生時代、こいつに直撃された。
1980年代後半の話。ロラン・バルトとか、いわゆるポストモダンてやつ。
しかしわりとすぐ限界に突き当たる。
テクスト論者の提示する奇抜な「読み」にも、「で?」って感じがした。それ、なんか意味あんの? と。
 
とはいえ、やはりテクスト論自体には大きな意味があったのだ、と私は思う。
①作者還元論的な「読み/書き」=私小説的風土は、あまりに強固で、一度こいつをぶっ壊してやらねば。そのためには「劇薬」が必要で、しかし、それは万能薬ではなかったという話だ。

そんなわけで、②テクスト論を全否定するんでなしに、①と②をアウフヘーベンする形で、というか、教条化したテクスト論のいわば「揺り戻し」として、③を著者は唱えている。
というふうに私は理解した。

「作者の像」という概念がキーワードか。
「像」というのは「役」と置き換えてもいいかもしれない。作者が「作者役」を演じるのだ。作者が演じる以上、作者役は作者に似ているが、決して作者そのものではない。

そしてそういう「読み」を、実はすでに私たちは無意識のうちに、している。
「コンテクストもテクストの一部」という言い方も、まあ、大意としては同じようなことなんだと思うけれども、しかしそうやってテクスト論の正当化に固執するんでなしに、そろそろ「河岸を変え」て、もう少し厳密にフォーマット化しましょう、と。じゃないと、己の思考の枠組みをちゃんと自覚できないから。

冷たい成熟

死傷者数を比較する統計資料を前にワイドショウの司会者は「“数”の問題ではないと思いますが」と付け加えずにはいられなかった。今まさに「数」を問題にしている局面で。数字というものが纏う“冷たい”イメージを情緒で中和してみせたというわけだ。
彼の最も恐れることは、統計から読み取るべきことを読み取れず、伝えるべき情報を電波に乗せられないこと、ではなくて、視聴者の機嫌を損ねることだ。「とにかく許せない!」というあれ。

視聴者の目が“冷たく”成熟してさえいれば、司会者も、こんなつまらん配慮をする必要がない。番組の作り手は、しかし視聴者がそんなふうではないことを知っている。そしてそれはその通りなのだ。
となれば、“熱さ”を逆手に取って煽情し、他の誰かに対する機嫌を損ねさせればよい。メディアにとって“熱い”世論の誘導など簡単だ。

ノルマ

ウチはいわゆるチケットノルマ制度を採っていない。
予算はあくまで予算なので、実績がどう転ぶかは蓋を開けてみるまでわからない。チケットはほとんどが「当日精算」。公演当日、台風なんかにこられた日にはキャンセル続出で、もう完全にアウトだ。お天気は大事。
そうした諸々のリスクヘッジとして、かつては多くの小劇場系の劇団ではチケットノルマという制度が採用されてきた。
しかしプロデュース形式の公演が一般化し、俳優の流動化が進むと、この制度は成立しにくくなってくる。なぜなら団体としての共同幻想が、ない。そういう状態で、「ノルマ」が成立するのは、素人が舞台に“立たせてもらう”ケースに限られてくる。経済的リスクの共同分担ではなくて、「参加料」になってしまうのだ。

2017年5月23日 (火)

シニア料金

芝居で学生料金てありますね。いわゆる学割ってやつ。
一般に学生はお金をもっていないから料金を安く設定するわけですが、どうしてお金を持っていないと安く設定するのか。かわいそうだから?
違います。
需要曲線と供給曲線が交わらないつまり定価だったら買わない学生に買わせるため。少ない所持金の中からいくらかでも出させるためです。

ではシニア料金てどう説明するか?
やはり「かわいそうだから」じゃないはずです。
金は持っている。けれど年をとると出かけるのも億劫だから、その億劫=コストを金に換えて主催者側で負担しますよ、だから残りの金を払ってくださいね、ということだろう。

自己承認

札幌で学生をしていたとき、泊原発反対運動を経験した。「経験した」といっても加担してたわけじゃない。演劇なんかやってると、その手の学生とも付き合いがあるのだ。
彼らに特有の情緒的かつ一面的な「正義」に、私はまるで共感できなかった。それは今も変わらない。
 
リスクを定量的に評価することなく〈動機の純粋性〉(丸山眞男)を根拠にして「善人」としての自己承認を求める。そういうテレビのワイドショウ的思考態度が社会に何をもたらすか、東日本大震災後に何をもたらしたか、いい加減知るべきだ。

美しゅうございます

「美しいでした」「大きいでした」はさすがにカタコトの外国人みたいだけど、「美しゅうございます」っていうのも、それはそれで、なんだか胡散臭いマナー教室の先生のようだ。
けど、普通に使ってる「美しいです」「大きいです」も、実はどこか違和感があったのだ。なんというか、幼児語的な“舌足らず”な感じ。

山本七平『「空気」の研究』

〈簡単にいえば原子力発電について三、四時間かけて正確な情報を提供し、相手の質問にも応じ、相手は完全に納得したはずなのに、相手はそれで態度は変えない。そして、いまの説明を否定するかの如く見える一枚の写真を見せられると、その方に反応してしまうという。〉
Kuki
 
大衆の「臨在感的把握」に科学的知見の水を差す。それが政治の役割ではないのか?
ところがむしろ非科学的な大衆心理におもねり、積極的に「臨在感的把握」を補強してきた政治家がいる。メディアがこれを後押し、「呪い」の源泉となった。
避難者へのイジメをこれらの新聞はシレっと報じているが、彼らは加害者なのである。

木田元『反哲学入門』

西洋哲学はプラトン以降「超自然的な原理を参照して自然を見る、という特異な思考様式」が伝統的で、自然的世界は自己から断絶された分析と操作の「対象物」「材料」だった。ニーチェはそこからの脱出を図る「反哲学者」だった。すなわちニーチェ以前/以降という言い方ができる。ざっとそんなことが書いてある。
 
私は共通一次の社会を「倫理・政経」で受けたんですが、高校の授業に「倫理」がなかったから、参考書を買ってきて独学したんです。
高校生の私には、プラトンの「イデア」的な世界観が親しみやすかった。ガキにも分かる(分かった気になる)イデア論。
これ、わりと誰でもそうなんじゃないかと思う。若者は「自分探し」をしたがるでしょう?「本当の自分」とかいって。
しかし「本当」なんてどこにもないんだ、というのをすごく強調したのがニューアカだったんじゃないか。大学に入って私はその残り香をかいだ。
 
「ニーチェ以降」の立場で「正義」なり「公共」なりを考える。そのためには実際的な「経験」が必要なわけです。書を捨てよ、町へ出よってなもんです。その「経験」を取材対象とする。そのために、自己相対化が必要になる。
私が私の向こうに世界を見るんですよ。

メンタル

たとえば私がラーメン屋で食い逃げしたとして、その店にはしばらく、というかもう一生、近づかない気がするんですよ。
ところが世の中には翌日、堂々と店を訪れて「おいこら店主、スープがぬるいぞ!」とか言えちゃう人がいる。
そういう強いメンタルの持ち主じゃないと議員にはなれないんでしょうね。

佐藤さとる『龍宮の水がめ』

この挿絵、見覚えありません?
小学一年だか二年だか三年だか忘れましたけれども、国語の教科書に載ってました。
私はいわゆる本好きの子供じゃなかったので、こういう不思議な読後感の文学作品て初体験でした。
今読み返しても舌を巻く巧さ。ちょっと文句のつけようがない。
 
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人治主義

一般に「お役所」は融通が利かないと批判の対象になりがちだが、ルールの恣意的運用を排除する仕組みとしては、まあ、理にかなっている。
使用条件をあらかじめ明確にせず、「ともに作り上げる」「臨機応変」などの美名のもとにルールの恣意的な運用を正当化する劇場や稽古場は、まったく信用できない。すべては所有者の気分次第と宣言しているわけだから。
そういう人間に限って、ひとたび自分基準から外れた相手には「悪」のレッテルを貼る。「人間性」とか言いだす。そんなくだらない人治主義なら「お役所仕事」の方が100倍マシというものだ。

選挙権

 

だけどもし私がその「免許」の選考に落ちたとして、選挙結果に不満だった場合、どうするだろう? 
選挙結果を受け入れる理由が私にない。だから暴力を正当化することができる。
翻って、選挙権のある以上、いかなる選挙結果も受け入れるしかないわけだ。「私」が「私たち」を統治する権力の当事者だってことだから。
主権者の「責任」てそういうことじゃないのか。

低線量被曝の影響は分かっていない?

周回遅れの放射脳がいまだ枕詞のように使うこのフレーズ。
だが、「わからない」というのは「影響が小さすぎて正確な計算ができない」ということだ。正確な計算すらできないほどに影響が小さい、ってこと。
もう何度も何度も何度も何度も何度も目にしてきたこの問答。この期に及んで適正なリスク評価の必要を理解しないその思考回路が、私には理解できない。
合理的な根拠もなく、陰謀論を振りかざして「もう、そこには住めない」などと嘯く。そういう者らが被災地に「呪い」をかけてきたのだ。

悪ふざけ

怒りの表明の仕方を工夫すれば、単なる好悪を善悪に変換できると思っている人がいる。それに基づく己の暴力を正当化できると踏んでいるジャーナリストや学者がいる。
こういう理不尽な「悪ふざけ」は、本来なら私みたいな河原乞食が嬉々としてやるべきことなんじゃないか。河原乞食の「悪ふざけ」に社会的有用性があるとすれば、「常識」に一瞬、水を差すことだ。膝カックンを食らわせることで、二本脚で立つという無意識かつ「自明」の行為を相対化し、常に重力に抗っているのだということを意識の表層にのぼらせる。結果として。

主権

国民主権といったとき、権力の源泉は「私」で、だから「私」が「私」を支配する。為政者は「私」と「私」の間に、いわば権力の執行官として置かれているわけだ、少なくとも原理的には。純朴な市民/極悪な政府、という少年漫画的二項対立の図式でもって「民主主義」は語れない。

男社会

入社して最初に配属されたのが事業場の経理部だった。
同期入社にはもちろん女子もいたのだが、私と同じ職場に配属されたのは男子ばかり。というか、本社採用の女子は事業場の経理部に一人も配属されない。一人もだ。
なぜか? 男女平等に反するではないか?
つまりこういうことだ。
事業場の女子は、事業場で採用された、高卒・短大卒・専門学校卒の一般職がほとんどで、そこに同性の総合職が入ることにより生まれるであろう「軋轢」を(おそらく過去の事例に基づいて)あらかじめ人事部が避けたのである。
一般職の彼女らは就職活動の過程でたいてい簿記の2級くらいはとっている。たとえ大学で高度な会計学を修めていようと、新入社員のやるべき仕事など限られているし、大卒の「後輩」に仕事を教えてやる立場の「先輩」にしてみたら、このツカエナイのが自分より給料が高い。しかもこれが30歳くらいで確実に主任に昇格する。ひょっとしたら自分の上司になるかも知れない。
ああ、給湯室でのひそひそ話が聞こえてくるようだ…。
結果として、事業場の経理部は女子は100%一般職、男子が100%総合職ということになる。少なくとも私が会社にいた頃は、こういう「現実」が確かにあった(し、おそらく今もあるのだと思う)。この場合、「男社会」の職場環境は、女同士のイザコザが生んだのだといえる。

福島浜通りの現状:敵は放射線ではない

福島の放射能は怖い。そのようにおっしゃる方々の多くは、(一部の明らかな悪意は別として)心の底から福島に住む子供たちを心配されているのだと思います。それだけではなく、避難区域の設定も、避難指示も、甲状腺スクリーニングも、そのどこにも「悪意」は存在しない。私たちはその事をもっと深刻に考えなくてはいけないのではないでしょうか。
http://agora-web.jp/archives/1611061.html?utm_source=SNS_20140904

この先生のいうことは、確かにそうなのだろう。
しかし「動機の純粋性」を忖度してやる時期はとうに過ぎた。学ばぬものは永遠に学ばぬのだ。これは「情報量」の問題じゃない。彼らは、いわばワイドショウ的な「正義」に慣れ親しみすぎている。それをイデオロギーが後押しする。だから物事を単純な善悪の二分法でしか捉えることができず、今そこにあるリスクを定量的に比較することの意味を(積極的に)理解しない。

思考の枠組み

べつに正確な知識をストックしておく必要はないわけですよ。そんなのはググれば済む時代。
そんなことより思考の枠組み。
こいつが脆弱だからおかしな知識を仕入れてくる。腐った肉の臭いに気づかず平気で口に入れてしまう。

一段落

制作業務も一段落し、今月は少々作家モード。書斎の本棚にあるいろんな本を乱読したり。
って〈いろんな本を手当たりしだいに読むこと〉を「乱読」というのだった。
さらに自己言及し「一段落」について。
これを「いちだんらく」と読むか「ひとだんらく」と読むか、稽古場で揉めた(?)ことがある。
戯曲の作者としては「いちだんらく」だ、と主張したが、辞書にはこうある。
 
『いち‐だんらく【一段落】
[名](スル)
1 文章などの、一つの段落。
2 物事が一応かたづくこと。ひとくぎり。「事件もこれで―がついた」「仕事が―したらお茶にしよう」
[補説]2を「ひとだんらく」と読むのは誤りだが、話し言葉では使われることも多い。』
 
現代口語で劇を書く以上「誤りだが、話し言葉では使われることも多い」を無視できない。
たとえば「ら」抜き言葉など、私は地の文では滅多に使わないけれど、それも選択する文体によるし、台詞となれば、むしろ積極的に「私」を捨てて登場人物の要請に従う。登場人物は劇作家の美意識を代弁する装置ではないからだ。

  

コノテーション

「閉じた先に開く」という言い方をときどき私はする。
どういうことか?
「閉じる」というのは集団内のコノテーションを密にすること。「開く」というのは、それがデノテーション化すること。   

話を小劇場演劇に限定しましょうか。
90年代まで、役者が客席におしりを向けてぼそぼそ喋り続ける演技のデノテーションは、日本の「演劇の辞書」に存在しなかった。演劇というのは役者が客席に顔を向けて大きな声で話すもの。
しかしそれってどうなの? という疑問は私が学生演劇をやってた大昔からあったんです。その疑問に自らこたえる形で「客席におしりを向けてぼそぼそ喋り続ける」コノテーションの芝居を作ってみせる集団が90年代にぽつぽつあらわれた。
これがいわゆる「静かな演劇」ってやつです。こういうのが一時期、あちこちの劇場でわーっとやられたんです。
そうして日本の現代演劇でデノテーション化したんですよ。

そう考えると「閉じた先に開く」って「通俗化することを目指して、通俗化を拒む」あるいは「通俗化を拒むことによって通俗化を目指す」ともいえそうです。
矛盾している。
けれど、この矛盾を矛盾のまま引き受ける必要があるんだろうと思います。おそらく表現の価値(面白さ)は、開いた結果よりむしろその過程、「閉じる→開く」の運動にこそある。

関係

ひとりひとりが「平和」を望めば、その善意の総体として「世界平和」が実現する、のか?
一口に同じ「平和」といっても、たとえば異なるA,B,C三者にそれぞれの「平和」がある。我々が漠然と「平和」と呼んでいるものは、全世界に共通の普遍的な何かじゃなくて、せいぜいA,B,C間のかりそめの〈関係〉をいっている過ぎない。
仮にAが立ち位置を変えたなら、BもCもまた動かなければ、従前の〈関係〉は保てない。

文化政策

TPPのときさんざん出た話だけど、関税撤廃により社会的総余剰が増加するってのは経済学的な常識。
これは信じる信じないの話じゃなく、理論的にそう。
で、その「浮いた金」を農業の補助金にまわすか否かは「政治」の話。「農業は伝統文化だ」的なことをいう人とも、ここで折り合いをつけたらいい。

この文脈で、芸術に国が金を出すってどういうことか(私は一円も出されてないけどな!)、どう正当化されるのかと考える。芝居屋なので。

国が舞台芸術に金を出すようになったのは90年代のこと。当初は「赤字補填」だった。赤字じゃないと助成されない。それがいろいろあって、今はこういう考え方が出てきた。
つまり、誰もが観客として舞台芸術に触れる権利がある。しかし舞台製作は構造的に高コストで必然的に入場料が高い。そこで製作費の一部を税金でまかない、入場料を安く抑えることで、すべての国民が舞台芸術にアクセス可能な社会を実現する。
ざっとこんな感じ。

じゃあ国民は私の芝居にアクセスしなくていいのか? そんなの誰が決める(た)のか。仮に私に金が出されてたとしても、制作の実感として、こんなの屁理屈なんですよ。
芸術なんてもんはどっから何が出てくるかわからない。
政府なんかに予測できない。
政府にできることといったらせいぜい、新しい芸術が出てくる土壌を残しておくことだ。
具体的には何か?
景気を良くすることですよ。だから経済政策こそが文化政策なんだ、というのが私の持論。

護憲論

憲法改正の焦点が9条に絞られたのはいいことだと私は思う。「改憲」それじたいを目的にすべきじゃない。「いじくる」ことで留飲を下げるとか、そういうバカバカしいことにつき合いたくない。

そして今こそ護憲論をききたい。皮肉でなしに。護憲論というよりは反改憲論か。民共は最近「安倍政権のもとで」という「条件」を思いついたようだけど、そんなのはダメだ。
フーコーは、こういっている。
〈権力は権力自体に拠って立つものではない。また、権力自体を出発点として手に入れられるものではない。権力メカニズムは「あらゆる関係の総体にとって元々内属的な部分をなす」のであって、関係と権力メカニズムは互いに互いの原因にして結果だという循環的な関係にある。〉

不正受給

「謝金」の名目で多く支払い、一部を「寄付」で返納させる。
それをあらかじめ業者と結託してやることを経費の水増しというんです。
そうしたやり方で国から助成金を得ている事実を知りながら黙って監査のハンコをつくのを「荷担」というんです。

タクシードライバー

先日、知り合いの芝居を観て、役者ってのはタクシードライバーに似てるかもなあ、と思ったんでした。
運転が上手くても道を知らなきゃ使い物にならない。いくら道に詳しくてもそもそも運転できなきゃ話にならない。
最悪なのは、さして上手くもないのになぜか運転に自信があって、まったく道を知らないやつ。

過熱報道

オウム事件にしても、結果的に事実として教団はとんでもない殺人集団だったわけだけど、そのことが、「印象」にもとづく過熱報道を免罪し、正当化するわけではない。
ここは教団側の言い分に理があるってとこだって多々あった。
しかしそれを指摘すれば、問題を切り分けて考えられない者らが正義ヅラで「おまえはオウムの肩を持つのか!」ってなるのだから、ほんと参ってしまう。

言語の役割

言語の役割は何か? はい、コミュニケーションの道具です。それはそのとおりだが、実はもっと重要な作用を人間に及ぼしている。言語は、人間がものを考えるための道具でもある。
 
屁理屈に聞こえるかも知れないけども、「人間がものを考える」のもコミュニケーションの一種なんだと私は思うわけです。私が私とコミュニケートする。
わりとこれ「実感」なんです。戯曲を書くからかも知れません。執筆中は頭の中で常に何か独りごちている。私が私を取材対象としていて、あ、今、自分はこういう状況でこういうことを思ったぞ、とノートに書き留める(最近はスマホで音声メモをとる)。
そうして面白い(=価値がある)と思って一週間前の私が書いた言葉を今の私が否定する。それを何度も繰り返すうち、軽く離人症めいてくる。私が私を不信感をもって眺めるようになる。
文豪に狂人が多いのはこのためなんだと思います。

ジェットコースター

ジェットコースターが恐くない。
いや、恐いことは恐いのだが、落下の恐怖は所詮、安全性に裏打ちされた“スリル”でしかない。むろん事故の可能性がないわけじゃないけれど、万が一そうなったら、じたばたしたってはじまらない。
それゆえ、なおさら恐怖なのだ、と言う人もいるだろうが、私はむしろ、自分がそのジェットコースターの整備責任者の立場だったりした場合を想像すると、心臓の縮み上がる思いがする。

フィクション的な許容度

後からよくよく考えてみれば解決されていない「謎」や合ってない辻褄、。その程度の「謎」や「辻褄」は、そもそも無理に解決したり合わせてやる必要もないのだ。
戯曲を書くにあたり、私は常々そう思っている。
 
自作に几帳面な書き手は、つい自ら先回りしてこれを「解説」してしまったり、執筆の過程で周囲の意見を収集し、過剰なつじつま合わせをしたりする。そしてそれを書き手の“誠実さ”などと思い込んでいるわけだが、そうした態度が、こと創作において、必ずしも美徳であるとは限らない。

蓮實重彦は「フィクション的な許容度」ということをいった。フローベールの例を引いて、こう説明する。

「フローベールはそうした細部の大半を無視した。親しい友人が「きみ、これは一八四九年のできごとだろ。そうだとすると、ここにはあの建物は見えていなかったんだから、この挿話は削りたまえ」といってもフローベールはどうもそれに耳を傾けた気配がない。ですから『感情教育』は歴史的におかしいところがたくさんある。まだ存在するはずもない路線を列車が堂々と走っていたりする。しかし、今日のフランス人でさえ、それを顔をしかめたりもせずに読んでいます。」(『「結婚詐欺」からケイリー・グラントへ 現代日本の小説を読む』「早稲田文学」2003年7月号)

書かれたものを演出する際にも、これはいえることだ。演出家も、俳優と一緒に長く稽古場にいると、この「フィクション的許容度」の見極めが鈍ってくる。細部を作り込む過程で、「現実」のロジックで整合性をとろうとし、結果、テクストの伸びやかさが失われることがある。
とくに作・演出を兼ねる者は、容易にテクストの更新が可能なので、これを恐れるべきなのだ。
もっともその「許容度」の見極めこそが難しい。どこで線を引くべきか、何か法則性があるわけではないし、だからもう、センスとしかいいようがないのだが。

長期的には我々は皆死んでしまっている

ケインズの「長期的には我々は皆死んでしまっている」ってどいうい意味なんすかね。ググるといろいろ勝手な解釈されている。なので自分もそれに加わってみる。
ホッブスのいう「万人の万人に対する闘争」だって「長期的」には「秩序」に与するわけだ。闘争による淘汰を経て、つまり神の手によって、あるべき「調和」が実現する。
経済だってそうだ。ほっときゃ何らかの秩序に収斂する。神の目にはそう見える。
でも、神は死んだ。我々が殺してしまったの。
だから人工物としての調和、擬制としての秩序を自ら作り出す必要がある。
たとえばブレグジット。
英国のEU離脱=保護主義への傾斜というふうにいわれるけれども、考え方によっては、必ずしもそうとは言えないんじゃないか。むしろそもそもEUこそが保護主義ともいえる。なぜならEU/EU以外という壁を作っているのだから。
じゃあグローバリズムって何か。本当の自由な取引って? 

この文脈上にある「本当の自由」って、おのおの好きにしろっていう放任状態いわば「万人の番人に対する闘争」みたいなカオスでしょ?
「神」というのはそういうカオスのメタレベルにいるんだと思うわけです。というか、そういうメタレベルの存在を想定して神と呼んでいるんだと思うわけです。

ほっとけば、長期的にはおのずと秩序が形成される。なるようになる。
しかしそこには近代化した人間はいない。つまり個がない。
個がないっていうとき私は、泉鏡花『夜叉ヶ池』の生贄や、柳田國男『一つ目小僧その他』の異形の者を思うんです。たぶん彼らには我々の思う「内面」はない。
そういう世界の秩序というのはあくまで神にとってのもの。
けれど人間が近代化すると、そういうわけにいかない。個が神の秩序づくりに奉仕して黙って死んでいくわけにはいかない。
だから我々は神を殺して、互いの個による取り決めによって「統制された自由」とでもいうような矛盾した状態をとりあえず作りあげたんだ、と私は思うんです。近代つうもんをそういうふう解釈してるわけです。

だから擬制なんですよ。フィクションなんです。「自由」というのも常にカッコつきのものでしかない。なのに、というかだからこそ、我々はカッコの存在を忘れてしまいがちなんです。

真実

ソボクに「真実」なんてもんを信じすぎなんですよ。
それってあらかじめそこにポンとあって、勇気あるジャーナリストが邪心を捨てれば手にできる、ってもんじゃないでしょう?
ジャーナリズムって「技術」だと思いますよ。「技術」というのはもちろん、情報を取ってくる巧さってこともありますけども、私が言いたいのはもっとものの考え方のレベルの話。
目に映るすべてのものは「虚構」なんだ、とかいっちゃうと文学的というか哲学的すぎるかも知れないけれども、「事実」というのは誰かにとっての「物語」にすぎないんだという認識。芥川『藪の中』的な。そして自分もその「誰か」の一人なんだと。

ペット問題

もともとウチのマンションは〈ペット不可〉なのだ。だが、飼っている人もあって、長年、なんとなく「黙認」されていた。
その「黙認」の事実を不動産屋経由で聞きつけ、それで入居してきたという者もいて、今さら〈ペット不可〉を強調されても困る、管理組合は責任取れ、とか意味不明なことを言う。

で、トラブルは以前から何度もあって、そのたびに、総会の議題にもされるのだが、争点がはっきりしないまま、互いがそれぞれの〈価値観〉を述べ合うから、ぜんぜん話が噛み合わない。
まるで不条理劇だ。そして最後はたいてい「常識」「モラル」「思いやり」など、空疎な言葉でお茶を濁して会はお開きとなる。

あー疲れる。

そんな感じでいつまで経っても堂々巡りなので、私が理事長時代にペット飼育者に働きかけて「ペットクラブ」なるものを作らせた。
ペット飼育者による自治会みたいなもんだ。
規約上はペット飼育禁止のままなので、クラブの存在自体が矛盾してはいるのだけれど、すでにある〈現実〉に耳目を閉ざして疑心暗鬼をこじらせるより、ひとまず規約違反は括弧に入れて、実態を把握し、責任の所在を明らかにすべき、と考えたのだ。
彼らがもしも規約の変更を望むなら、クラブを主体としてそういう気運を盛り上げていけばいい。反対意見と衝突するだろうが、弁証法的に落としどころが見つかるかもしれない。

ところが、これが思うようには機能しないものなのだ。

それどころか、ペットクラブ成立の経緯をすっかり捨象し、むしろその存在こそが規約違反を助長している、とかいうやつまで現れる始末で、まるで私が「戦犯」みたい。

劣化?

よくマスコミの「劣化」ということが言われますけども、全体の傾向としてそういえるのか、ほんとのところ、私にはよくわからない。
今と昔とを比べるにしても、私だって昔は若かったわけで、感じ方の違いは私自身の変化によるものかもしれない。
だいたい昔、自分が何をどう感じていたか、正確に思い出すこともできない。
    
けれど確かに、昔はマスコミ=「神」だった気がするわけです。
まず、「活字」に対する畏怖ってあったでしょう? 少なくとも私はありましたよ。岩波あたりから出ている本が読めないのは自分の頭が悪いせいだと思いましたもん。今は「読めるように書かないオマエが悪い」って思いますけど。 
 
あと、新聞記事に「署名」がなかった。
この記者の匿名性がマスコミを「神」にしてたんだと思うんですよ。自分と同じ「人」が書いてる気がしなかった。
さらにSNSもなかったわけで、まさか「てにをは」もままならぬレベルの記者が存在するとは思わなかったわけです。
ま、これは劇作家も一緒ですけどね。
 
「神」って何か?
「私/あなた」の関係を隔てる「/」=神秘の幕みたいなもんではないか。
今、その「神秘」が取り払われた。「劣化」というより「神は死んだ」んですよ。
そしてそれじたいは、決して悪いことじゃない。

「くださる/いただく」問題

①ご来場くださった皆様/②ご来場いただいた皆様
②をしばしば見かけるが、私はこれ、めっちゃ違和感がある。
だって、「皆様がご来場くださる」ことはあっても、「皆様がご来場いただく」ことはないでしょう? 言うなら「皆様にご来場いただく」。このとき「いただく」主体は「私(たち)=話者」であって、「皆様」ではない。だから②がヘンな気がする。なのにやたら目にする。

先生が貸してくれた本を読む。
先生が貸してくださった本を読む。
先生に貸していただいた本を読む。
先生が貸していただいた本を読む。とは、いわない。なぜなら「いただく」は謙譲語だからだ。「いただく」主体は誰か?「私」だ。

本を貸してくれた先生。
本を貸してくださった先生。
本を貸していただいた先生。っていう? いわないだろう。

本を貸してくださり、先生に感謝しています。
本を貸してくださった先生に感謝しています。
本を貸していただき、先生に感謝しています。
本を貸していただいた先生に感謝しています。とは、いわない。 

これに関して参考となる文献(高島俊男『お言葉ですが』)の一部をある方から送って【いただき】/ある方が参考文献の一部を送って【くださり】、私はそれを読んで「そうそう、まさにそういうこと!」と膝を叩いた。

向うまかせ

劇の登場人物と劇作家とが、まったくの無関係というわけにはいかないけれど、登場人物が劇作家の分身となってメッセージを「代弁」するかのごとき芝居を見せられると、私は心底うんざりするのである。
「創作」って、作者にとって、そんな都合のいいもんじゃないはずだ。
泉鏡花はこう言った。
最初は、或る材料と事件とが、ふとした導火線によつて連絡(つなが)れて、好い工合に調和したといふことが動機になつて書き初めても、途中でどうかすると意外な方面に向かつて進むことが有るのです。然し、私は書く時にこれといふ用意は有りませんが、茲(ここ)に、一つの私の態度ともいふべきことは、筆を執つていよいよ書き初めてからは、一切向うまかせにするといふことです。

思考の地平

「芸術」は通俗的な価値観を上書き保存する装置ではない。だからしばしば芸術家は「お行儀」が悪い。
しかし「芸術家」の属性が、お行儀の悪さを正当化しない。
そもそも「はねっかえり」として社会に勘定されることを自ら望む芸術家など芸術家ではない。ただのゲージツカだ。

演劇人なんだから「アベ政治を許さない」よね、と軽々しく肩に回してきた手を私は振り払う。
政治的立場の違いではない。思考の地平が違うんだ。

優先順位

たとえば小田急線で新宿駅に行く。
プロミネンスは「新宿駅」だ。そこに着くことが目的。
その日、小田急線が運休していた。どうするか?
京王線かJRか、ほかの方法で新宿に向かう。目的を果たすために方法を変える。
ところが、「小田急線」を「新宿駅」より優先する「意識の高い」者がいる。「新宿駅」をうっちゃって、国会前あたりで小田急線運転再開を求めるデモとかやっている。

スキゾ/パラノ

かつて左翼=知的って時代があったんですよ。いつ頃までかな。少なくとも私の学生時代なんてそう。
それはとくに若者の目には、いわゆる保守の思考態度が、単に「腰が重い」と見えたからじゃないか。そうやって変化を恐れるのはパラノなんだと。俺らはスキゾで行くんだと。
実際、そういうパラノな人もいるだろう。けれど多くの人は、すでにある価値観を「選びなおしている」んだよ。
若者は、なかなかそのことに気づけない。比較する過去がないからね。それが若さということでもあるし、だからまあ大目に見てやるけど、40歳過ぎてこんなザマなら容赦なく罵倒する。

魔女裁判

「証拠」なんかなくていいわけですよ、彼らとしては。そういう「空気」が大衆の間に醸成されれば。
そんな「空気」でもってひとを貶める。それを私は「魔女裁判」だとずっといってるわけ。
そんなやり方で裁かれるのはまっぴらごめんだ。右だ左だって問題じゃない。
そういう思惑に乗っちゃう大衆がいるのは、まあ、しょうがないですよ。けれど曲がりなりにも学者であるとか大マスコミなら、そんな「魔女裁判」はヤバイと気づかなきゃいけない。
ところが善人ヅラしてむしろ積極的に加担していく。
その風潮が気持ち悪くて気持ち悪くて気持ち悪くてしょうがないんだよ。

普遍的な「善」?

こんな「つぶやき」を見た。
〈「トランプの勝利は反ポリコレの勝利だ」って反リベラルの人たちが盛り上がってるんだけど、そこから引き出せる結論は「だからポリコレはいらない」じゃなくて、「そうだね、多数決の制度のもとでは負けるに決まってるマイノリティを守るために、多数決に依らないポリコレがやっぱり必要だよね」では。〉

多数決に依らない「ポリティカルコレクトネス」って何なんです?
その「コレクトネス」って誰がどうやって決めるんですか? 
プラトンのイデアのように形而上の世界に確固としてある? 
しかし私たちはニーチェ以降を生きている。  

安保関連法成立時、多数決では多数派が勝つに決まっているから野党の「抵抗」は評価できる、アベの悪事の前には仕方がない、みたいなことをぬかしていた人らを思い出します。
なんでこの手の人らは簡単に普遍的な「善」を設定し、自分をそっちの側に置くことができるんでしょうね。
「善」を相対化するという発想がない。だからすぐに独善に転落するんです。  

私も多数決の結果が常に「正しい」だなんてちっとも思いませんよ。 そもそも「多数決」じたいが「正しい」やり方である保証なんかない。単にそういう制度、手続きでやるって決めただけのことなんだから。
しかしそれが民主主義ってもんでしょう?   
民主制を採用する以上、個々の利己的な主体が互いに認めた決定のプロセスにしか、社会的な「正しさ」なんかない。 普遍的な善を設定するから普遍的な悪が必要になるんですよ。

自販機

夢を見た。
明け方、自動販売機でジュースを買おうと思ったのだが、お金がない。
通りには人目がない。私は、そこらにあった紙切れを自販機に投入してみたのだが、案の定はじかれて戻ってきた。
そこで紙切れを半分の大きさにちぎって再度入れてみたところ、1万円札と認識されたらしく、釣り銭の100円玉がじゃんじゃん出てきた。
とても財布に収まりきらず困っていたら、いつのまにか日が高くなっており、私のまわりに人だかりができていた。私は恐くなって釣り銭の返却口を手で塞ぐのだけれど、100円玉で押し返されてしまう。

「22歳の別れ」基準

ホンを書いてると、これじゃあ観客にわからないんじゃないか、いやいやこれ以上は説明過剰になってしまう、などと悩むんです。
「22歳の別れ」基準というのがあって(ないけどね)、私はこの歌詞の情報量を一応の目安にしてます。
つまり、ロウソクに『17本目からは一緒に火をつけた』だけでは不十分で『5年の月日が長すぎた春』と「事実」を補強してやることで、二人がつきあい始めたのは17歳なんだな、と観客のだいたい7割くらいが疑いなく思えるというわけ。
それでも伝わらない残りの3割はどうするか? 
諦めるんです。両者はトレードオフの関係にある。

正義

単なる好悪の表明を「善悪」に変換したがるのはなぜなのか?
己の価値観を正当化したいのだ。 自我を「正義」で補強しなけりゃいられない。
けれどそもそも次元の違う話なのでロジックによる変換は不可能。
そこで「みんな」を使うのだ。最大公約数の言葉を拾い集める。
「優しさ」「思いやり」「人間性」「平和」「人権」「民主主義」…。
言葉の通俗的な印象に依存して、借り物の文脈に配置する。

無神経

たとえばある種の人は太った少女を見つけたら黙っていられない。我先に傍らに駆けていき、「気にすることないのよ。コンプレックスを持ってる人こそ他人の痛みが理解できて、思いやりのある人間になれるんですから。デブをバネにして強く生きるの。それによく見ると豚ってなかなか可愛いものよ」とかなんとか、慰めてやる。それでいいことしたと大満足。 己の善人性の承認が最優先で、その自己愛の外部をまるで考えない。要するに無神経なんですよ。

杞憂

杞憂であるならそれにこしたことはない。誰一人「戦争したい」などと思ってない。それは「大前提」だ。
だが、望まぬ事態が、向こうからやってくることもある。それを想定し、いかに回避すべきか知恵を出し合う局面で、状況の変化をまるで考慮せず、ただただ善人ヅラして「大前提」を情緒的に強調する。
この無責任、思考停止ぶり。
そのくせ、知恵を出す者の足を引っ張ることにかけては、足りない頭をフル回転させるのだ。

気づけば自分が一匹の猫になっていた

DVDを返却に行きましたら、ビデオ屋の入ったビルから突然、男が飛び出して、後ろを振り返りながら何か意味不明なことを叫び、走り去ったんです。べつに誰に追われているわけでもないのに。
心臓が縮み上がりましたよ。「刺される!」って思いました。
「刺される!」っていうのは、赤ん坊はきっと思わない。なぜならそれは「記憶」に基づく「物語」のはずだからです。

先に上演した芝居で、主人公が「耶蘇でも三途の川を渡るのか?」と問うシーンがありました。
どうなんでしょうね。問われた相手が返した台詞がこれまたまったく意味不明で、「答え」がわからないんですけど、しかし「三途の川」が日本人の間でほとんど無意識に共有されてる「物語」だというのは確かです。
だから、劇作家として気障な言い方をすれば、「日本」というのは三途の川の岸辺のことだ、と定義したい気分なんですね、私は。
 
けど、「刺される!」というゆうべの私の反応って、ほとんど脊髄反射に近いもんだと思うんですよ。専門的にはどうなんだかわかりませんけども。
たとえば人の姿を目にして逃げる猫に近い気がする。猫は「記憶」によって「死」という「物語」を構成し、それ恐れて逃げるわけじゃないですからね。
キチガイの去った後、気づけば自分が一匹の猫になっていた。
 
で、何が言いたいかというと、「記憶」って必ずしも「物語」に資するもんではないんだなあ、と。そんなことを思ったわけです。

体験談

雪解けの水蒸気の匂いで「ああ、春だなあ」と感じたもので、そのとき私は札幌時計台前あたりを歩いており、通りの気温計に目をやると「0℃」だった。
という話をよくするのだけど、これ、「事実」か?
「春だなあ」で「0℃」ってことがある?
嘘をついてるつもりはまるでないし、記憶の映像も鮮明なのだけど、いかんせん30年近くも昔の話だし、その間に、しばしばナイチの友人に誇張して札幌の寒さを伝え、私自身がそれを信じ込んでいるのじゃないか? 
口から出任せの性癖は、そのまま劇作家の資質になっている。「雪解け」だからギリギリ「0℃」だなと「理科」の辻褄を合わせたのかもしれない。
だから私は私の体験談を鵜呑みにできない。

同調圧力

今の若者が同調圧力に弱い傾向があるのかどうか、私は知りません。
私の感触でいえば、私と同世代以上の映画監督や舞台演出家、劇作家、小説家、ミュージシャン、そういった芸術界隈の人間こそ同調圧力にめっぽう弱く、同じ思想を同じ言葉で語りたがりますね。
本人たちは少数派で集ったつもりなのかもしれませんが、ギョーカイ内の「体制」に従って、つまり長いものに巻かれて、互いの視線を満足させるステレオタイプを演じています。自覚のあるなしにかかわらず。
そうしてコミュニティ内の「みんな」と一緒で安心し、かつ少数派の集団に属することで選良意識も満たされるんでしょう。私にいわせりゃいい気なもんです。

「私」の分裂

ライブハウスに行くと、さっきまでステージで演奏してたミュージシャンが客席で腕組みしてつまんなそーにべつのバンドの演奏を見てたりしますよね。
同業者に対する「視線」ってそういうもん。
で、その視線の対象に、さっきの自分の姿を設定する観念を自己批評性というんですよ。

「私」という「物語」は、かように言葉によって分節化される。そうして「私」の分裂を促す。
私は演劇を通じてそれを実感するんです。
演じるワタシ/演じられるワタシ、この分裂を一身に引き受けるのが役者というもんだ、と定義できる。

おつり

夕方、スーパーで買い物したら3千316円とか、そんなんだったので、5千円札一枚と小銭316円を払ったんですね。で、私は財布の小銭入れを閉め、千円札2枚のおつりをもらう気でいる。
実際、その通りになったんですが、そうじゃない可能性もある。千円札1枚と5百円玉2枚とか。
そのとき、私だったらどういうリアクションをするだろう? と思ったんです。
アテがはずれて一瞬「え?」と声になるかならないか、思わず店員の顔を見つめ、そして動揺を隠蔽しつつ、さっき閉じたばかりの小銭入れをまた開けて5百円玉をしまう。
このミニマムな「非日常」が劇的なんだと思うわけですよ。
一瞬の「え?」、そして動揺の隠蔽。これを描写して観客に伝えるのが演技というもの。
ここで大仰に「ええっ?!」とやってみせたり、最悪なのは「5百円玉かよ!」と言葉でツッコミを入れてみたり、そしてこう演技をしたがる役者は実在するし、それをヨシとする演出家もいるけれど。

コミュニケーション

合理的な手続きの内にものごとの正統性がある。コミュニケーションというのはその理解と遂行のことだろう。愛想よくふるまって相手のご機嫌を取るってことじゃない。

20歳までに左翼に傾倒しない者は情熱が足りない、20歳を過ぎて左翼に傾倒している者は知能が足りない

チャーチルが言ったとされる「20歳までに左翼に傾倒しない者は情熱が足りない、20歳を過ぎて左翼に傾倒している者は知能が足りない」って言葉がありますね。
これってどういう意味か?
 
今はどうだか知りませんけれども、私が子供の頃、私の田舎にはまだなんとなく部落差別ってあったんですよ。中上健次が書くようなやつ。まともな就職もないし、「一般」の人とは結婚もできないんだと。
もちろん、差別はいけないことだと教えられていたわけです。なのに、ある。矛盾してる。だから私は大人になったら部落の人と結婚しようと思いましたよ。矛盾を解消するために。「優しさ」のつもりでもあったんでしょう。そういうことを口にすることで己の善人性を担保したい。
しかしそれこそが「差別」なわけですよ。やがてそのことに気づくわけ。
 
そうした「気づき」のないままオッサンオバンサンになっちゃうのがいる。私が「寄り添う」系と呼んでる連中がそれですよ。
だからチャーチルは、若いうちはせいぜい単細胞をやっておけってことを言ったのかなって思うんですよね。

死ぬのはいつも他人ばかり?

核兵器で死のうが、バナナの皮ですっころんで頭を打って死のうが、「死」には変わりない。
そう思う一方で、いや、やはり違う、と主張することも可能なんです。
つまり「死」というのは単に物理的な消滅でなく、死に方=死に至る「物語」のことなんだ、と。
そう解釈するなら、たしかに両者は等価じゃない。文学的に。
翻って、等価じゃないのはあくまで文学的次元の話なんだ、という自覚があれば、ときにそいつを括弧に入れて、核兵器とバナナの皮のリスクを定量的に比較し、「死」そのものを遠ざけるのに役立てることもできる。
それが「政治」というもんだろう。

ところで「死ぬのはいつも他人ばかり」とマルセル・デュシャンはいったけど、果たしてそうか? 死の当事者である「私」もまた「私の死」の傍観者という側面があるように思う。

コノテーション

コノテーション 【connotation】

[1] 言外の意味。含意。

[2] 〔専門〕 論 内包。共示。潜在的意味。⇔デノテーション

[3] 〔専門〕 論中世論理学で、ある語が具体的事物を指示するとともに、抽象的事物を随伴的に指すとき、この後者の働きをいう。例えば「白いもの」は、具体的な事物を指示しつつ、同時に「白さ」を随伴的に指しもする。

通常、俳優というものは、台詞のコノテーションに敏感なものだ。隙あらば、作家の意図していない「行間」まであえて誤読して、自らその役を「おいしく」仕立てようとする。
舞台に立つ者として、この自己顕示欲は基本的に、正しい。
しかし希に、これと真逆の働きをする役者がいる。
台詞から当然イメージされるであろう抽象性=比喩を排除し、むしろそこに〈書かれてあるとおり〉の具体的現象に解釈を矮小化してしまうのだ。
なぜか?
戯曲の構成要素の相互関係から「役」を読み取ることをせず(できず)、「割り振られた」台詞から刹那的に感情をこしらえようとするからだ。
演劇を自己啓発か何かのツールとし使用するならそれでいいのかもしれないが、「俳優」としては、それではまるで足りない。

丸山眞男『日本の思想』

パチンコというかパチンコ的なものつまり実質「違法」なのに堂々と社会に存在している(ずっとしてきた)ものについて考えると、領土問題=「実効支配」が正当化されることにも関係しそうだし、それってつまり「時効」の論理ではないかと思う。
丸山眞男はこんなふうに書いている。
学生時代に末弘(厳太郎)先生から民法の講義をきいたとき「時効」という制度について次のように説明されたのを覚えています。金を借りて催促されないのをいいことにして、ネコババをきめこむ不心得者がトクをして、気の弱い善人の貸し手が結局損をするという結果になるのはずいぶん不人情な話のように思われるけれども、この規定の根拠には、権利の上に長くねむっているものは民法の保護に値しないという趣旨も含まれている、というお話だったのです。(略)
請求する行為によって時効を中断しない限り、たんに自分は債権者であるという位置に安住していると、ついには債権を喪失するというロジックのなかには、一民法の法理にとどまらないきわめて重大な意味がひそんでいるように思われます。

演技

「ちゃんと見ろ」「ちゃんと聞け」ということを演出家なら誰でも一度は稽古場で言ったことがある。
で、素人の役者は「見てますが?」「聞いてますが?」ってなる。
「ちゃんと」のコードを共有していないからだ。翻って、素人には容易に実感しがたい「ちゃんと」が存在するってこと。
 
確かに、聞いている/聞いていない、見ている/見ていないは、ほんらいその本人にしかわからない。
けれど、いくら「見ている」「聞いている」と演者が強く主張したところで、観客の目にそう映らなかったら意味がない。
 
舞台には「現実」とは異なる固有のパースペクティブ=遠近法がある。それは「観客の目」の介在による構造の話。精神論では決して克服することができない。
その構造を活用して演者が役(≠役者)の「内面」を唯物的に外化=可視化すること。
細部におけるその技術の総体が「演技」ってことだろう。

生命保険

生命保険のプランを見直し。
もともと会社員時代に収入の右肩上がりを前提として加入したもので、しかし現実にはぜんぜんそんなふうになってないから、年齢の節目で跳ね上がる保険料がキツイ。
そいつを回避したのだけど、それでもやっぱり月々の支払いは増える。さらに、死んでもいろんなことがチャラにはならなくなった。

取材対象

たとえば車の通らない深夜の交差点で、歩行者が信号無視してささっと道を渡るのを、私は声を荒らげ咎めるつもりはない。けれど、たまたま警察官が居合わせたなら、そりゃあ怒られても仕方なかろうと思う。
怒られたのが当の私だったら?
「いちいちうるせーな!」くらいは思うだろう。でも、それはただの身勝手な「感情」。それで行為を正当化できるもんじゃない。そんなことはわかりきってる。
にもかかわらず、やはりなんとか正当化したい。この俗な心の動きは、劇作家の「取材対象」。

伝聞

つくづく思うのは「伝聞」はかなりの確率で情報が捨象されており、「事実=〈線〉」とは異なるってこと。それを「報告を受けた」という己の「体験=〈点〉」を過大評価し、盲信するから間違うのだ。
って何もそんなめんどくせえ話でなく、「こういうふうに聞いてるんですけど、実際どうなん?」と確認すりゃあいいだけのこと。
そういうプロセスをすっとばしていきなり値上げ交渉みたいなマネをするから私がブチギレるんである。
慇懃無礼に、あたかもこちらの発注の仕方に問題があったかのような物言いをして話をこじらせたのは業者の方だ。まあ、次はないだろう。

喉元過ぎれば熱さ忘れる?

カルトじみたノンベクレル系反原発の連中は、プラグマチックな対応をする者に対し、「喉元過ぎれば熱さ忘れる」などという批判を浴びせる。誰が忘れなどするものか。時間の経過により、人々は冷静な判断力を恢復させたのだ。独善的で知的に怠慢なカルト信者には決して解るまいが、マトモな知性の持ち主はこの間、得るべき情報を得、恐れるべきを適正に恐れる努力をしてきたのだ。

対話

人は自分の過去を「物語」として記憶する。
記憶とは過去の物語化に他ならない。
だから思い出が美化される、というのはある意味当然のことなのだ。
私には私の物語があり、あなたにはあなたの物語がある。両者は決して一致しない。
このあたりまえの「絶望」を引き受けることからしか、対話などはじまりはしない。

2017年5月22日 (月)

歪んだ正義感

http://blogs.yahoo.co.jp/bloom_komichi/66459413.html

「歪んだ正義感」や「「危険」と言う方が思い遣りのある人と取られやすい雰囲気」で、ノイジーマイノリティのヒステリーが専門家を黙らせた結果、大衆の多くは有意な情報を得る機会を奪われた。
リスクを「正しく」=「適正に」恐れる必要を、この「歪んだ正義感」の持ち主たちは、まるで理解しない。“事実を知りたい”というポーズをとるくせに、決して学ぼうとしない。せいぜい自分の思い込みを補強するのに都合よさげな知識“だけ”を仕入れ、耳目を閉ざす。だから、専門家がどんな情報発信に努めたところで徒労に終わる。
発信器が優れていても受信機がぶっ壊れていたんじゃ話にならないというわけだ。

「『危険』と言う方が思い遣りのある人と取られやすい雰囲気」に浸り、場当たり的に善人ぶるから自己矛盾に陥るのだ。振り上げた拳を正当化するために都合良く他人の言説をコラージュするから論理的整合性などありはしない。
たとえば「東京五輪招致」に、放射能汚染を理由に反対の声を上げたその口で、被災地の風評被害を嘆いてみせる。彼らは自ら被災地への差別と風評被害を助長しながら、その自覚がまるでない。自分の論理が矛盾していることにすら気づかない。そうしてワイドショウばりの短絡的な「物語」で「絶対悪」を作り上げ、それを叩くことで溜飲を下げる。そうやって、おのが「正義」を担保しようとする。

上記リンク先の記述にもあるように、一時期、放射線による影響で畸形が生まれたというデマが流された。
そもそも畸形はどんな環境でも一定数生まれるので、それが放射線由来であるというなら、因果関係を示す客観的根拠が示されてしかるべきだ。
だが、そんなものはありはしない。
何が根拠たるかすらも彼らは理解できていない。
ただ放射線の恐怖を強く「印象」づけるのに、出所も怪しいグロテスクな奇形児の写真を利用した。これをSNS等で拡散し、ファナティックに恐がって見せれば、「問題を憂慮する善人」のスタンスで、社会問題にコミットしているとでもいいたげだ。

こういう「お祭り騒ぎ」により、被災地は風評被害による経済的ダメージを受け、また実在する奇形児たちの人権は傷つけられたのだ。そういう自覚があるのイだろうか?
彼らはすぐに動機の純粋性を強調したがるが、仮に動機が“純粋”であったとしても、そんなものは免罪符にはならないのだ。

2017年5月20日 (土)

テロ等準備罪

政府は二十一日、「共謀罪」の趣旨を含む組織犯罪処罰法改正案を閣議決定する方針。この法案に対しては、各界に反対の動きが広がっていて、文化界でも懸念の声が上がる。昨年まで約十年間、日本劇作家協会長を務め、沖縄を題材とした作品を多く手がける劇作家・演出家の坂手洋二さん(55)に聞いた。 (村上一樹)

 -なぜ「共謀罪」法案に反対なのか。

 「演劇は人間が集まることで成立する表現。(法案は)人間同士のコミュニケーションの自由や、表現の多様性を否定することにつながる」

 -具体的には。

 「表現上、今ある仕組みに疑いを持つこともある。より面白く、深く、豊かな表現をしようとするとき、既成の枠を超えて想像することは当然ある。そうした言論、表現の自由に恣意的(しいてき)に『共謀罪』が適用されると、脅威になりかねない」

 -現実的に、どんなことがあり得るか。

 「『誰かが爆破作戦を考えている』という設定で戯曲を書くため、何人かで資料を集めたり買ってきたりすると、思いもせず『共謀』として適用されてしまうかもしれない。フィクション(創作)のためだと言っても、判断するのは捜査機関だ」

 -日本劇作家協会は二月に緊急アピールを出した。

 「二〇〇六年四月に『共謀罪に反対する表現者の緊急アピール』を出した。当時と名前が変わっても、『共謀罪』には変わりない。なぜ性懲りもなくまた出すのか。昔の治安維持法につながる法案であることは間違いない。またアピールを出さなくては、と」

 -沖縄県名護市での新基地建設反対運動に影響するとの指摘も。

 「影響は大変大きい。座り込みや、(建設現場に)車両を入れるのを阻止することも、計画段階で止められてしまう。いろんな人が勾留されてしまう恐れを危惧している」

 

すでに共謀罪のある多くの国ではそれが原因で「表現の多様性」が否定されているのだろうか? 
私は寡聞にして知らない。
もしも日本のケースが特別だというのであれば、それらの国々と比較してどこがどう違うのだろう? 
「放射能」の問題にしてもそうだが、そういう比較がされぬまま単に「みんな」の数に頼るから、今どきの左翼の言説は説得力がないのである。 

経済学でティンバーゲンの定理というのがある。
〈N個の独立した政策目標を同時に達成するためにはN個の独立な政策手段が必要である〉
考え方としてはこれではないか。つまり、テロに備えるのだという大きな方向・目標が、まず、ある。多くの国民はこの必要性を認めている。
そのうえで、懸念される個別のケースに対処する法を整備すればいい。監視カメラなんかと同じだ。これが常識的な大人の考え方。
 

「判断するのは捜査機関だ」という左翼的紋切り型の言説がここでも語られているが、その捜査機関もまた法の枠組みの中で機能するわけだ。べつにお巡りさんが気分次第でそこらの市民を逮捕できるわけじゃない。例外的なケースをマンガチックに想定し、二元論で全体を否定するなど建設的な議論とはいえない。
 
むろん法律が万全ということはないだろう。
己の立場を利用し、組織を私物化して薄汚いチョンボをやる者はどこにでもいる。
たとえば戯曲賞の下読みでハネられたホンの作者が選考委員の弟子だという理由でちゃっかり二次審査を通っていたり。

それはそれで裁かれればいい。

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