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2017年4月

2017年4月25日 (火)

人治主義

一般に「お役所」は融通が利かないと批判の対象になりがちだが、ルールの恣意的運用を排除する仕組みとしては、まあ、理にかなっている。
使用条件を明確にせず、「ともに作り上げる」「臨機応変」などの美名のもとにルールの恣意的な運用を正当化する劇場や稽古場は、まったく信用できない。すべては所有者の気分次第と宣言しているわけだから。
そういう人に限って、ひとたび「自分
基準」から外れた相手には「悪」のレッテルを貼る。「人間性」とか言いだす。
そんなくだらない人治主義なら「お役所仕事」の方が100倍マシというものだ。

ブッシュマン

『ブッシュマン』というコメディ映画がかつてアメリカで製作され、日本でもヒットした。
登場するのは南部アフリカのカラハリ砂漠に住む狩猟採集民族「サン人」で、今は「ブッシュマン」というのは「蔑称」なんだとか。それで『コイサンマン』と改題されたらしい。
 
約35年前につくられたこの映画から、米国人の有色人種に対する差別意識を見出すのは簡単だ。この映画を観て、かつて一緒に「笑った」日本人も今は反省し、むしろ積極的に「差別」を糾弾する側にまわることで、過去の「罪」を帳消しにしようとする。
これが言葉狩りの構造だ。
 
「構造」といえば、構造主義の祖とされるレヴィ=ストロースが『悲しき熱帯』で言わんとしたのは「西洋の知で世界を見るな」ということだった。
もっともその「言わんとしたこと」じたいが、西洋的な知の枠組みに規定されるものだという批判を後に受けることにもなるのだが。
 
『ブッシュマン』に対する意識高い系のステレオタイプな「反省」は〈民族を「笑いもの」にした〉〈大自然に対するリスペクトがない〉等々。
なるほど失礼な話ではあるんだろう。
だが、こうした安直な「反省」こそが、実は失礼きわまりないんじゃないかと私は思っている。
レヴィ=ストロースが批判した(また批判された)「西洋の知」と同様、大前提として〈近代>前近代〉の構図は温存したまま、それを隠蔽することを勝手に「美徳」としているわけだから。
 
平たくいえばこういうこと。
「上から目線でごめんなさい」と頭を下げるが、そもそも相手は「下」である認識がないのだから「はあ?」ってなる。それじゃあこっちとしては「反省」が成り立たないので、相手を「教育」し、なんとか自分の価値観の枠組みに引き込んで「それもこれも、みんな私が悪いんです。どうかひとつ許してください」と、金をくれてやったりする。
これがいわゆる「従軍慰安婦問題」の構造だ。

朱に交わって赤くなる

べつに正確な知識をストックしておく必要はないわけですよ。
そんなのはググれば済む時代。
それより思考の枠組み。
こいつが陳腐で脆弱だからおかしな知識を仕入れてくる。
腐った肉の臭いに気づかず平気で口に入れてしまう。
カラッポなやつは簡単に朱に交わって赤くなる。

国民主権

国民主権といったとき、権力の源泉は「私」で、だから「私」が「私たち」を支配する。
為政者は「私」と「私たち」の間に置かれたいわば権力の執行官だ。
べつに難しくないでしょう?
いい年こいたオッサンオバサンが、この程度のことも理解できず、純朴な市民/極悪な政府という少年漫画的二項対立の図式でもって「民主主義って何だ?」とかいっている。相当頭が悪い。

業界内体制

アベノミクスの三本の矢は「大胆な金融政策」「機動的な財政政策」「投資を喚起する成長戦略」。
安倍政権の採用したいわゆるリフレ政策には私も当初、懐疑的だった。1991年に経済学部(しかもマル経のゼミ)を卒業した私には、これがよく理解できなかった。
今でも「投資を喚起する成長戦略」というのは眉唾だと思っている。そういう産業政策的な成功例ってあっただろうか? あったように見えたとしても、それはせいぜい民間からの要請を政府が阻害しなかったにすぎないのでは?
 
だからアベノミクスに批判的な立場をとる人がいるのもわかる。
しかし、たとえば演劇人やロックミュージシャンらのゲージツカから出てくる批判はどうか?
世界平和に資する経済、エコを基軸とした経済、みんなが豊かさを実感できる経済、これらを産業政策(政府)に依存し、アベノミクスはその方向に反するという。
まるで「脱原発」的なノリ。
フジロック的ともいうか。
中学生の作文みたいに原初的かつ通俗的な「正義」を口にしてさえいれば、すなわちギョーカイ内における「体制」の側についていれば、己の思考の怠慢を正当化できると思っている。ゲージツカの肩書きによって、バカが素朴さに変換されると踏んでいる。
なるほど民共と親和性が高い。
バカなだけならいいが卑怯なのだ。

一段落

制作業務も一段落し、今月は少々作家モード。書斎の本棚にあるいろんな本を乱読したり。
って〈いろんな本を手当たりしだいに読むこと〉を「乱読」というのだった。
さらに自己言及し「一段落」について。
これを「いちだんらく」と読むか「ひとだんらく」と読むか、稽古場で揉めた(?)ことがある。
戯曲の作者としては「いちだんらく」だ、と主張したが、辞書にはこうある。

『いち‐だんらく【一段落】
[名](スル)
1 文章などの、一つの段落。
2 物事が一応かたづくこと。ひとくぎり。「事件もこれで―がついた」「仕事が―したらお茶にしよう」
[補説]2を「ひとだんらく」と読むのは誤りだが、話し言葉では使われることも多い。』

現代口語で劇を書く以上「誤りだが、話し言葉では使われることも多い」を無視できない。
たとえば「ら」抜き言葉など、私は地の文では滅多に使わないけれど、それも選択する文体によるし、台詞となれば、むしろ積極的に「私」を捨てて登場人物の要請に従う。登場人物は劇作家の美意識を代弁する装置ではないからだ。

「書斎の本棚にあるいろんな本を乱読したり」とさっき私は書いた。
しかし人はこういうふうに話すか? 
もちろん話すこともあるだろう。けれど、私たちはしばしばこういう話し方をするんじゃないか。
「いろんな、書斎の本棚にある本を乱読したり」
この程度にホツレていた方が、話し言葉としては自然な印象を与える。「いろんな」本の「画」が登場人物の脳内にまず描かれ、整理されぬままぽんと口から出て、それが次に連なる単語を召喚する。そうやって文がフィジカルに構成されていく。蜘蛛の巣や繭玉みたく。

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