制作業務も一段落し、今月は少々作家モード。書斎の本棚にあるいろんな本を乱読したり。
って〈いろんな本を手当たりしだいに読むこと〉を「乱読」というのだった。
さらに自己言及し「一段落」について。
これを「いちだんらく」と読むか「ひとだんらく」と読むか、稽古場で揉めた(?)ことがある。
戯曲の作者としては「いちだんらく」だ、と主張したが、辞書にはこうある。
『いち‐だんらく【一段落】
[名](スル)
1 文章などの、一つの段落。
2 物事が一応かたづくこと。ひとくぎり。「事件もこれで―がついた」「仕事が―したらお茶にしよう」
[補説]2を「ひとだんらく」と読むのは誤りだが、話し言葉では使われることも多い。』
現代口語で劇を書く以上「誤りだが、話し言葉では使われることも多い」を無視できない。
たとえば「ら」抜き言葉など、私は地の文では滅多に使わないけれど、それも選択する文体によるし、台詞となれば、むしろ積極的に「私」を捨てて登場人物の要請に従う。登場人物は劇作家の美意識を代弁する装置ではないからだ。
「書斎の本棚にあるいろんな本を乱読したり」とさっき私は書いた。
しかし人はこういうふうに話すか?
もちろん話すこともあるだろう。けれど、私たちはしばしばこういう話し方をするんじゃないか。
「いろんな、書斎の本棚にある本を乱読したり」
この程度にホツレていた方が、話し言葉としては自然な印象を与える。「いろんな」本の「画」が登場人物の脳内にまず描かれ、整理されぬままぽんと口から出て、それが次に連なる単語を召喚する。そうやって文がフィジカルに構成されていく。蜘蛛の巣や繭玉みたく。
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