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2016年9月

2016年9月27日 (火)

情操教育

「情操教育」というものは、べつに幼少期に〈普遍的〉な価値観を植え付けておけ、というものではなく、むしろそれらが後に自身の手によって相対化され、更新され、〈普遍的〉でもなんでないことが暴かれるのを期待して、施されるべきものではないか、と私は思う。

児童文学的な世界では、オオカミは常に「悪」である。それはそれでいい。だが、オオカミにはオオカミの価値観=世界があるのだと、やがて子供はその成長過程で気づいていく。

そうしたまっとうな知性と感性を前提としてやること。それが、子供を「信じる」ということなんじゃないか。人生にかんする情報量不足からくる〈ピュア〉の側面だけを強調し、妄信的な性善説に基づく放任主義など、ほとんど育児放棄に等しい。

2016年9月26日 (月)

引力

〈役〉というものは演者の主観の外化などでは決してなく、常に観客との間主観性に立脚してようやく成り立つ存在だ。
 
たとえばそこに椅子がある。
とりたてて特別な設定が示されてない条件下、演者が椅子の傍らに立ったとき、彼/彼女が次にとるべき行動は?
当然、「座る」だ。
なぜか?
「椅子」は「座る」ものであるというコードを〈我々〉が共有しているためだ。
あたかも登場人物と椅子との間に「引力」が働くように、演者の行動は「物」の制約を受ける。舞台上にはそういう力が働いている。
 
むろん、「引力」に逆らってあえて「座らない」という選択はあり得る。その場合、それなりに納得できる理由・動機がいる。
誰が「納得」するのか? 演者か、作家か、演出家か?
否、〈観客〉である。

2016年9月22日 (木)

冥途

『冥途』の稽古も佳境。
作品もだんだん煮詰まってきて、するとこの時期、良くも悪くも「雑」になる。「雑」にも良い雑/悪い雑がある。
どういうことか?
私はいつもハスミのいう「フィクション的な許容度」ということを思う。
 

〈フローベールはそうした細部の大半を無視した。親しい友人が「きみ、これは一八四九年のできごとだろ。そうだとすると、ここにはあの建物は見えていなかったんだから、この挿話は削りたまえ」といってもフローベールはどうもそれに耳を傾けた気配がない。ですから『感情教育』は歴史的におかしいところがたくさんある。まだ存在するはずもない路線を列車が堂々と走っていたりする。しかし、今日のフランス人でさえ、それを顔をしかめたりもせずに読んでいます。〉(早稲田文学『「結婚詐欺」からケイリー・グラントへ 現代日本の小説を読む』)
 
細部を「現実」に依存しすぎた結果、虚構の伸びやかさが失われる。そういうことがしばしばある。雑な丁寧さ、とでもいうか。いわゆる「説明過剰」もこの部類。
そうではなしに、びびらず大胆に嘘をつけって話だ。丁寧な雑さ。
もっとも両者の見極めが難しい。どこまでが「許容」されるのか。何か法則があるわけではないから、もうセンスとしかいいようがないのだけど。

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