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2016年7月 3日 (日)

かさじぞう

「かさじぞう」という昔話がある。
大晦日。爺が傘を売りに行く。その金で餅を買おうという算段だ。だが、傘は売れない。帰り道、爺は地蔵を見かける。折しも雪が降ってきた。爺は地蔵に傘をくれてやり、手ぶらで帰宅する。爺から事情を聞いて婆が言う。
「それはよいことをしましたね」
その晩、家に餅+αのご馳走が届けられる。地蔵の恩返し。
ざっとこんな話。

どうやらこの老夫婦はさほど生活に困っているわけでもなさそうだ。餅=贅沢品を手に入れるため、いわば「遊ぶ金ほしさ」で傘を売ろうとしたわけだ。だから、爺が餅の代わりに買って帰った「〈いいことした〉という自己満足」を婆も一緒に消費し、善人の糧とすることができたのだ。

じゃあ仮にこんな設定だったらどうだ。
二人には子供がいて、病に伏している。今日中に薬を飲まなければ命が助からない。しかし薬を買う金がない。
そういう状況で、爺が上記と同じ行動を採ったら、婆は悠長に「それはよいことをしましたね」などと言えるだろうか? 爺のしたことはまるで「世界平和」といいながらDVするみたいなもんじゃないか。もしも私が婆ならそんな爺を許さない。
 
地蔵に傘をくれてやること=絶対善ではないはずだ。
私が爺なら、むしろ地蔵を勝手に質に入れてでも金を作り、薬を手に入れる。そのくらいの「悪行」にはいつでも手を染める覚悟がある。

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