感受性
たとえば心理学的なことを語る文脈で「父殺し」といったら、フロイトのエディプスコンプレックスだな、と思うでしょう?
フロイトなんて知らんがな、って人でも、そうだと言われたら、そうなのか、と思うでしょう? 普通。
「父親を殺すだなんて不道徳だ」だとか「家族の絆」だとか、そんなこといわれても困るんですよ。誰もそんな話はしていない。
同じ理屈で「命がけの跳躍」っていったら、マルクスだなって思いませんか?
これはたぶん高校の教科書に載ってないし、そんなに流通してるフレーズじゃないかもしれないけど、『資本論』の解説本なんかでは必ず出てくる言葉です。
しんぶん赤旗にも解説があります。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-09-20/2008092012_01faq_0.html
これを「軽々に〈命がけ〉なんていうもんじゃない。子供が真似したら責任とれるのか?!」とか、いいます?
アホちゃうかと思いますよ。
さらにこうした思考の平面上に「おまえには子供がないからそんなことが言えるんだ!」なんかがあります。
その「思考の平面」は、通俗的な善意で舗装されている。
といったら、どうです?
「善意で舗装されている」って言い回しは一般にサミュエル・ジョンソンの言葉とされる『地獄への道は善意で舗装されている(The road to hell is paved with good intentions)』をメタレベルで召還するでしょう? 平たくいえば、思い出させるでしょう?
べつに有名な警句のストックをひけらかしてんじゃないですよ。そんなのは今、ググっただけです。
そうではなくて肝腎なのは「メタレベルで召還するでしょう?」という問い。
ある特定の文脈で発せられる言葉は、それが時代を超えて一般に共有された情報を指し示す。そういう言葉というものの構造の理解。ここを問題にしてるわけです。
言葉は常に既に自分の外側にある。
ほら、この「常に既に」ってなんとなくニューアカくさいわけですよ。ニューアカから遠く離れて。「~から遠く離れって」って当然、ゴダールらの『ベトナムから遠く離れて』のパロディで、今、これを真顔で書いたら恥ずかしいな、という言葉に対する感受性。
「一般」を意識するから「個人」の主体があるんですよ。
それは言葉に対する感受性と関係がある。一般/個人を曖昧にし、それで平気な感受性の鈍さが、主体をゆるゆるにするんです。そしてそのゆるゆる同士が絡まり合って「みんな」という塊を形成し、イデオロギーの下に集うんです。
右だとか左だとかの立ち位置の問題じゃないんですよ。その立ってる「平面」が問題なんです。
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