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2016年7月

2016年7月27日 (水)

なそう/なさそう

 
いずれにしてもBABYMETALが欧米で受け入れられている事実の前には、彼の発言は何の影響力も持たなさそうだが‥‥。
 
俗にいう「さ入れ」問題。
広辞苑で「そうだ」を調べるとこう書かれてある。
〈形容詞および助動詞「ない」「たい」の語幹に接続。形容詞の語幹が1音節の場合は間に「さ」が挿入される〉
 
「持たない」の「ない」は形容詞か助動詞か。
「ぬ」に置き換えてみればいい。置き換えられたら助動詞です。中学の国語で習ったでしょ?
「持た・ぬ」
置き換えられた。だから助動詞。
助動詞「ない」の語幹は「な」ですから、「持た・な・そうだ」となるんです。「さ」なんて入らない。
  
じゃあ、たとえばこれならどうか。
〈彼の発言は何の影響力もなさそうだが‥‥。〉
 
さっきと同様「ない」を「ぬ」に置き換えてみ。
「影響力も・ない」→「影響力も・ぬ」
置き換えられない。だからこの「ない」は形容詞。
形容詞の語幹が1音節なので、「さ」が入って「な・さ・そう」になるんです。
 
問題はしかし文法の知識じゃない。受験生じゃないんだから、それは誰かが持っていて、そこにアクセスできればいい。
「持たなさそう」が〈気持ち悪い〉〈なんかヘン〉と感じられる語感。これの有無が問題なのだ。
少なくともモノカキを自称するならこういう語感が具わってなきゃいけない。それが最低限の「資格」だ。
カーブでいちいち脱輪する車両感覚のドライバーがプロに相応しくないのと一緒、ボックスも踏めないダンサーなんてダンサーとは呼べないんDEATH。
 
Moa_2

2016年7月 3日 (日)

かさじぞう

「かさじぞう」という昔話がある。
大晦日。爺が傘を売りに行く。その金で餅を買おうという算段だ。だが、傘は売れない。帰り道、爺は地蔵を見かける。折しも雪が降ってきた。爺は地蔵に傘をくれてやり、手ぶらで帰宅する。爺から事情を聞いて婆が言う。
「それはよいことをしましたね」
その晩、家に餅+αのご馳走が届けられる。地蔵の恩返し。
ざっとこんな話。

どうやらこの老夫婦はさほど生活に困っているわけでもなさそうだ。餅=贅沢品を手に入れるため、いわば「遊ぶ金ほしさ」で傘を売ろうとしたわけだ。だから、爺が餅の代わりに買って帰った「〈いいことした〉という自己満足」を婆も一緒に消費し、善人の糧とすることができたのだ。

じゃあ仮にこんな設定だったらどうだ。
二人には子供がいて、病に伏している。今日中に薬を飲まなければ命が助からない。しかし薬を買う金がない。
そういう状況で、爺が上記と同じ行動を採ったら、婆は悠長に「それはよいことをしましたね」などと言えるだろうか? 爺のしたことはまるで「世界平和」といいながらDVするみたいなもんじゃないか。もしも私が婆ならそんな爺を許さない。
 
地蔵に傘をくれてやること=絶対善ではないはずだ。
私が爺なら、むしろ地蔵を勝手に質に入れてでも金を作り、薬を手に入れる。そのくらいの「悪行」にはいつでも手を染める覚悟がある。

2016年7月 2日 (土)

感受性

たとえば心理学的なことを語る文脈で「父殺し」といったら、フロイトのエディプスコンプレックスだな、と思うでしょう? 
フロイトなんて知らんがな、って人でも、そうだと言われたら、そうなのか、と思うでしょう? 普通。
「父親を殺すだなんて不道徳だ」だとか「家族の絆」だとか、そんなこといわれても困るんですよ。誰もそんな話はしていない。
 
同じ理屈で「命がけの跳躍」っていったら、マルクスだなって思いませんか? 
これはたぶん高校の教科書に載ってないし、そんなに流通してるフレーズじゃないかもしれないけど、『資本論』の解説本なんかでは必ず出てくる言葉です。
しんぶん赤旗にも解説があります。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-09-20/2008092012_01faq_0.html
 
これを「軽々に〈命がけ〉なんていうもんじゃない。子供が真似したら責任とれるのか?!」とか、いいます?
アホちゃうかと思いますよ。
さらにこうした思考の平面上に「おまえには子供がないからそんなことが言えるんだ!」なんかがあります。
その「思考の平面」は、通俗的な善意で舗装されている。
といったら、どうです?
「善意で舗装されている」って言い回しは一般にサミュエル・ジョンソンの言葉とされる『地獄への道は善意で舗装されている(The road to hell is paved with good intentions)』をメタレベルで召還するでしょう? 平たくいえば、思い出させるでしょう?
 
べつに有名な警句のストックをひけらかしてんじゃないですよ。そんなのは今、ググっただけです。
そうではなくて肝腎なのは「メタレベルで召還するでしょう?」という問い。
ある特定の文脈で発せられる言葉は、それが時代を超えて一般に共有された情報を指し示す。そういう言葉というものの構造の理解。ここを問題にしてるわけです。
言葉は常に既に自分の外側にある。
ほら、この「常に既に」ってなんとなくニューアカくさいわけですよ。ニューアカから遠く離れて。「~から遠く離れって」って当然、ゴダールらの『ベトナムから遠く離れて』のパロディで、今、これを真顔で書いたら恥ずかしいな、という言葉に対する感受性。
 
「一般」を意識するから「個人」の主体があるんですよ。
それは言葉に対する感受性と関係がある。一般/個人
を曖昧にし、それで平気な感受性の鈍さが、主体をゆるゆるにするんです。そしてそのゆるゆる同士が絡まり合って「みんな」という塊を形成し、イデオロギーの下に集うんです。
右だとか左だとかの立ち位置の問題じゃないんですよ。その立ってる「平面」が問題なんです。

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