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2016年6月 4日 (土)

分ける

ジャンル分けに意味はない。
と芸術家は言いたがる傾向があるが、はたしてそうか?
「わかる」は「分かる」と書き、そもそも「分ける」と語源が同じなのだ、などと東進ハイスクールの先生みたいなこと(http://www.toshin-kinshicho.com/%E5%88%86%E3%81%8B%E3%82%8B%E3%81%AF%E5%88%86%E3%81%91%E3%82%8B/)をいうつもりはないけれど、劇作家が自作の方法に自覚的であろうとすれば、べつの方法との比較によって自己相対化してやる必要がある。つまり「分ける」のだ。
 
たとえばひとつ前の投稿で私は「話し言葉(=パロール)」と「書き言葉(=エクリチュール)」の特性について思うところを「分けて」書いた。
両者の差異について、劇作家なら誰でもいつでもこの程度のことは考えている。誰でも、いつでもだ。考えていないようなのは劇作家のうちに入らない。少なくとも私は認めない。
 
歌舞伎/新劇、新劇/アングラ、アングラ/80年代小劇場、80年代小劇場/静かな演劇、と後者が前者を否定する形で演劇の新しい表現が生まれてきた。
むろん私は自分の感性に基づいて、今の自分に相応しいと思う芝居を勝手につくっているんであって、演劇史的な流行に合わせてスタイルを決めているわけじゃない。
しかし「今」って何か?
後藤明生が指摘するように〈「時代」とは、人間が唯の一度だけ具体的に生きることのできる、唯一の空間〉で、いかなる芝居の作り手も〈現代というものの侵蝕から免れ得る特典を有して〉いない。
 
90年代に日本の現代演劇の主流となったいわゆる「静かな演劇」をパロール原理主義とするならば、今の時代の演劇は、それ以前に蓄積された演劇的コード=お約束、をそのパロール原理主義的方法にどう接続させるのか/させないのか、試行錯誤するものである。自作を通じて私はそう感じている。

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