バナナ
彼がバナナをリュックに入れて遠足に行くと、友達が「先生! こいつ、バナナを持ってきてます!」
クラスが騒然となる。
先生がやってきて、何故そんなことをしたのかと彼を問い詰める。
「バナナはおやつに入るとばかり思っていたので」
入るわけないじゃなーい、と女子。...
こいつ少しばかり成績がいいと思って調子に乗ってるな、と男子。
「どうして前もって確認しなかったのですか?」
「ごめんなさい」
「退学です」
« 2016年5月 | トップページ | 2016年7月 »
彼がバナナをリュックに入れて遠足に行くと、友達が「先生! こいつ、バナナを持ってきてます!」
クラスが騒然となる。
先生がやってきて、何故そんなことをしたのかと彼を問い詰める。
「バナナはおやつに入るとばかり思っていたので」
入るわけないじゃなーい、と女子。...
こいつ少しばかり成績がいいと思って調子に乗ってるな、と男子。
「どうして前もって確認しなかったのですか?」
「ごめんなさい」
「退学です」
「共産党は国政選挙で党勢拡大しているからと、調子に乗りすぎた。それが藤野発言につながった」
「自衛隊をなくすには国民合意が必要。その合意ができるまで、違憲状態の矛盾を引き受けるということです」
https://twitter.com/kakusanbuchoo/status/745506618473742336
『政権を倒す勇者たちを見よ!』
幼稚でデキの悪い「勧善懲悪」の物語。
それに基づく「アベ政治を許さない」なんだってことがよくわかる。
だからそんなプラカードを持って街角に突っ立ってる演劇人を私はバカだというんです。
反体制という「体制」の側につき、「平和」を口実に閉じた集団内で互いの善人性を認め合ってるだけじゃないか。
いいオトナが不真面目すぎるんだよ。
ところで共産党は「共産」党のくせに平気で「民主主義」を口にしますね。
じゃあ志位和夫が不破哲三から委員長を引き継いで16年間、党代表を決める選挙が一度でも行われましたか?
こういうのを独裁っていうんですよ。
豊かさの実感がない、とかいいますね。
よくそういうアンケートを見ます。だから現政権の経済政策は「失敗」なんだと。
私は1991年に大学を卒業しまして、空前の売り手市場なんていわれ、さしたる苦労もなしに一部上場企業に就職しましたけど「豊かさの実感」なんてありませんでしたよ。
私の感覚がオカシイんでしょうか?
私と同年代のオッサンオバサンらは「実感」してたんすか?
当時も私の耳に聞こえてきたのは不平不満の声ばかりだった気がするんですけど。
http://www.sponichi.co.jp/society/news/2016/06/12/kiji/K20160612012769820.html
どっかの弁護士が御柱祭の中止を求めている件。
私はそれに与しないけど、そういう考えのあるのもわかります。
だって、祭りで死のうが原爆で死のうが「死」には変わりがない。でしょう? 核兵器廃絶を求めるのなら、祭りの中止を求めたっておかしいことはない。
でも実際には扱いが違うよね。なぜか?
それぞれの死がまとってる「物語」が違うんですよ。
「まとってる」と書きましたけどそれは、読み取られる、ってことです。死に行く当事者でさえも、死の瞬間までは自分を主人公とする物語の「読者」なんだという気がします。
そして物語というものは必ず類型化される。「死」そのものに軽重はなくとも、祭りと原爆とで「物語」が区別されるんです。
基本的に善人であるA、B、Cの女三人。
共通項として同い年の子供がいるとしようか。PTAの会合の後、
今、Aのケータイが鳴り、店の外に出て行った。
さて、残されたB、Cの話題は?
容易に想像されるのは、Aの(Aにとって良くない)噂話、つまり
そしてこれが作劇上の定石だ。
こうしたテクスト内の力学がまずあって、それにどれだけ沿うか、
むろんこれは「現実」とは異なる。
現実ならば、Aの不在中、B、Cは他愛のない天気の話を続けるか
しかし劇でそれをしたら、「あえて」の匂いを否応なしに孕んでし
たとえ「日常を切り取ったような」と評される劇であっても
なぜか?
観客が見ているからだよ。
〈観客〉の介在という構造を持つことにより、現実と虚構ではパ
このことは書き手はもとより演じ手
あの時代、クラスは聖子派/明菜派に二分されてい
むろんそんなのは便宜的な「時代」のカリカチュアに過ぎず、実際のと
そんなこたあわかっているのだが
ていうか同世代人がむしろ積極的に過去の細部を忘却し、戯画
一時期よくいわれた「静かな演劇」とほぼ同義と思っていいが、こ
そういうこと言ってんじゃねーから。もっと〈実存主義から構造主
つまり、確固たる内面を持った〈個人〉がまずあって、それがべつ
現代思想的にはべつに新しくもなんともないが、そうした視点が強
それが「一般化」したんだよ。一過性の「実験」で終わることなく
「挨拶が大事」というのは、そりゃ確かに道徳的にはそうなのだろうけど、ことさらこ
たとえばオーディションで受験者に課題のテクストを渡す。
5分間、黙読してください。
「そろそろ、いいですか?」と、5分後に声を掛ける。
こたえはYES/NOの二者択一だ。
YESであれば審査を始めるし、NOであればもう少し待つ。
しかし重度の「挨拶が大事」系は、読み終わっていないことを「咎められた」と感じてしまう。
こちらの言うことを字義通りに受け取らず、行
そういう不必要な「深読み/裏読み」は、礼儀正しいどころか、無駄な調整コストがかかるだけ。そんなの誰も求めてない。
「若さ」が貴重である(ように思われる)のは、それが二度と取
それは事後的に発見・解釈=物語化され
そう考えると、逆説的に、老いた者しか己の「若さ」を持ち得な
誰が言ったのだったか忘れてしまった。
「物語」というのは始点Aと終点Bをあらかじめ決めて間に線分ABを引くようなものだ、と。
自戒の念も込めて、私はこれを明確に否定したい。
それはもっと積分に近いイメージ。
つまりAB'がB'B''を呼び込み、それがまたB''B'''を呼び込み、その果てにやっとBが現れ、結果として線分ABが完成する。
「物語」というのはそうやって常に事後的なもの。呼び込まれた奇跡の総体。
願わくは、そうして現れたBもまたそこで完結せず、さらに先に伸びていこうと、線分の端でふるふる震えていてほしい。
だから戯曲であれ小説であれ文芸作品というものは、そこに作者が現れてしまうものではあっても、作者が「意見」を表明する場では本来ないし、そのために登場人物を利用することなど決して許されない。
B'、B''、B'''と、新たな「点」を得るその都度、すでに引かれた線を振り返り、そこから影響を受け続ける。 それが文芸作品の作者=作家というものだ。最初にAを書きつけたときの「私」はもういない。
小学校の時、クラスでミニカーが流行った。
休み時間に教室でクラスメートが持参のミニカーで遊んでいたら、学校イチのワル・破壊王がやってきた。
破壊王はクラスメートからミニカーを取り上げ「壊していい?」と聞く。
いいわけがないが、腕力の非対称性を認識しているから、クラスメートは渋々頷く。そうして目の前でミニカーを粉々に破壊され、悔しさからか悲しさからか、泣いてしまった。
泣き声を聞きつけ、担任の先生がやってきた。破壊王を問い詰める。
「なぜそんなことをするの?」
「ちゃんと許可を取りました」
むろん担任もバカではないからそんな説明では納得しない。
すると破壊王はありもしない「真実」を打ち明けはじめる。
自分はミニカーを買ってもらえず、クラスメートが羨ましかった。
そういう通俗的な「物語」を作り上げるのだ。
結局、その「物語」を受け、学校にミニカーを持ってくるのが禁止になった。
なんてクダラナイんだろう、と思ったものだ。
ガキの世界がプリミティブな善意に満ち溢れているなんてことはない。
今と違って昔はイジメも陰湿じゃなかった、なんてのは大嘘だ。
幼い少女が母親の真似をして口紅をつける。
母親に見つかって「何やってんの!」と叱られる。
よくある話だ。
これが現実の「教育」としていいんだか悪いんだか私は知らない。
もっと子供に対して「理解ある」言葉をかけてやるべき、という意見もきっとあるんだろう。
けれど物語の技法としては、これでいい。これが作劇の基本中の基本。
なぜならそれで、読者(観客)は主人公への滑らかな感情移入が可能となるからだ。
作者は主人公と読者(観客)に「共犯」関係を結ばせる。
ドリフの「志村うしろうしろ!」と同じ原理だ。
「口紅」の件は、主人公=少女と読者(観客)だけが知りうる特権的な「秘密」なんであって、母親はその関係を際立たせる部外者としてあらねばならない。つまりちゃんと泥をかぶらなきゃいけない。
自動車の運転免許をなくして久しい。
けれど私も技術的には世間一般のペーパードライバー並みに車を動かすことはできる。
たとえば田舎道に一台の乗用車が停まる。
運転席から一人の巨漢が降りる。
太りすぎがたたったのか、急に胸を押さえてうずくまった。
脂汗をかき、息も絶えだえだ。
私の他に誰もない。
車もまったく通らない。
10キロ先に病院がある。
救急車はあいにく出払っている。
さて、私はどうするか?
男を背負って病院まで行くか?
おそらく背負うことすらできないだろう。
では、救急車の戻ってくるのを待つ?
待つ間に男は死んでしまいそうだ。
私は自ら車を運転して男を病院に連れて行くだろう。
こんな私でも、こんな田舎道で事故を起こす蓋然性はきわめて低い。
しかしもちろんその可能性はゼロではないし、そもそも「無免許運転」は道路交通法違反なのだから、法に従い、男を見殺しにするのも一つの「正しさ」なのだろう。
けれどきっと私はそうしない。
表層的な「遵法精神」が人を殺すバカバカしさに耐えられないからだ。
そしてそれは法の本来要請するものではない。
危ないので割れた瓶の断面にヤスリをかけました。
ガラスの粉が飛び散らないよう、水の中で作業。
指が腫れてしまった。
ガラスの粉を含んだ水に長いこと手を浸していたわけで、あちこち細かく傷ついている。手袋しろよって話ですが。
学生時代、建築現場でアルバイトしてたことがありました。
建物の壁に断熱材を敷くんです。グラスウールっていうガラス繊維の綿みたいなやつ。
手でちぎると空気中にガラスの粉がキラキラ舞う。綺麗なんですが、吸い込むと肺がやられてしまうから、作業員はみんなマスクして、目にはゴーグル、頭と首にはタオルを巻き、ウインドブレーカーを着ます。夏だったので死ぬほど暑い。
そこまでしてもガラスの粉が入り込んで皮膚がチクチクします。首や胸が赤くなるんです。
それで日給7千円でしたか。ブラックだよなあ。
経理部時代、会社のB/SとかP/Lって見たことない。
ないこたないのかもしれないが、ヒトゴトでした。実感ない。
自分の担当する事業部の予算は、数字に「愛着」がありました。
継続して毎日見る、というのが大事で、するとヘンな数字は「ん?」と気づく。
これって、たとえば学者や学生が一人の作家や評論家を専門に追いかけ続けると、その独特な言い回しや造語のニュアンスがなんとなくわかってくるのと似てる気がする。閉じてはじめて見えてくる。構造としては女子高生の「ヤバイ」と一緒。
で、「ヤバイ」はどうでもよくて、P/Lですよ。損益計算書。
小劇場演劇のチケットの値段設定って原理は実に単純で、製作費の予算を観客動員数の予算で割ってやればいい。
これでトントン。でしょ?
すると、ウチ程度の規模で、ラクに5千円を超えます。
新劇や商業演劇並みに脚本料・演出料などを設定したら、もっと。
労働価値説でいけば、これでいいわけです。
しかしこれじゃあ市場で取引されない、つまり誰も買ってくれない。小屋ごとの相場ってもんもあるし、そんな値段はつけられない。
なので削りやすいとこから削っていくことになります。主宰が作・演出を兼ねてれば、脚本料も演出料もゼロに設定し直すんです。
マルクスの敗北ですよ。
なのに演劇人がいまだにヒダリマキだらけなのはどういうわけなんでしょう? いや、だからこそ資本主義を否定したいのか。
文化庁主催の公演で、チケット2500円てことがありました。
相場の半額ぐらいじゃないですか。
なぜそんなことが可能か?
もちろん税金が使われているからです。出演者・スタッフのギャラも私の原稿料もほぼすべて税金。
けど、納税者でもある観客には「良心的」な料金設定とか言われるんですね。朝三暮四。
そりゃ民主党が「高速道路無料化」をいうはずだわ、と思いました。
最近のコメント