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2016年6月

2016年6月28日 (火)

バナナ

彼がバナナをリュックに入れて遠足に行くと、友達が「先生! こいつ、バナナを持ってきてます!」
クラスが騒然となる。
先生がやってきて、何故そんなことをしたのかと彼を問い詰める。
「バナナはおやつに入るとばかり思っていたので」
入るわけないじゃなーい、と女子。...

こいつ少しばかり成績がいいと思って調子に乗ってるな、と男子。
「どうして前もって確認しなかったのですか?」
「ごめんなさい」
「退学です」

藤野発言

 
「共産党は国政選挙で党勢拡大しているからと、調子に乗りすぎた。それが藤野発言につながった」
共産党が民進党とつるみ、いっちょまえの政党ぶって馬脚をあらわしたのはむしろ良かったと思う。
「ソフト路線」などといっても思想がソフトになったわけじゃなく、単に猫を被っていただけ。そのことを国民に知らしめた。
これが投票行動に結びつかなきゃ日本の有権者もそれまでだ。それこそ民主主義の敗北。
 
「自衛隊をなくすには国民合意が必要。その合意ができるまで、違憲状態の矛盾を引き受けるということです」
赤旗はこんなことをいっている。
しかし翻っていえば〈自衛隊をなくす〉なんていう国民の合意が「ない」ことを共産党自身も認めているわけだ。
自衛隊の存在は国民に認められている。むしろ必要とされている。
経験に基づくそうした国民一般の「合意」があるからこそ、この藤野発言が「問題」とされるのだろう?
 
その国民一般の「合意」が憲法の本質だ。
「合意」に反する記述が憲法典にある、その状態が違憲なんだよ。
憲法九条こそが憲法違反というのはそういうこと。わかる?

2016年6月25日 (土)

独裁

https://twitter.com/kakusanbuchoo/status/745506618473742336

Krgbfxny
『政権を倒す勇者たちを見よ!』
幼稚でデキの悪い「勧善懲悪」の物語。
それに基づく「アベ政治を許さない」なんだってことがよくわかる。

だからそんなプラカードを持って街角に突っ立ってる演劇人を私はバカだというんです。
反体制という「体制」の側につき、「平和」を口実に閉じた集団内で互いの善人性を認め合ってるだけじゃないか。
いいオトナが不真面目すぎるんだよ。  
   
ところで共産党は「共産」党のくせに平気で「民主主義」を口にしますね。
じゃあ志位和夫が不破哲三から委員長を引き継いで16年間、党代表を決める選挙が一度でも行われましたか?
こういうのを独裁っていうんですよ。 

2016年6月23日 (木)

実感

豊かさの実感がない、とかいいますね。
よくそういうアンケートを見ます。だから現政権の経済政策は「失敗」なんだと。
 
私は1991年に大学を卒業しまして、空前の売り手市場なんていわれ、さしたる苦労もなしに一部上場企業に就職しましたけど「豊かさの実感」なんてありませんでしたよ。
私の感覚がオカシイんでしょうか?
私と同年代のオッサンオバサンらは「実感」してたんすか? 
当時も私の耳に聞こえてきたのは不平不満の声ばかりだった気がするんですけど。

2016年6月14日 (火)

道義的責任

http://www.sponichi.co.jp/society/news/2016/06/12/kiji/K20160612012769820.html

 
不信任決議案は都議の3分の2以上が出席し、4分の3以上が賛成すれば可決され、知事は辞職か議会解散を選択する。改選後の議会で再度、不信任案が可決されれば失職が決まる。
 
***
 
「道義的責任」なんてぼんやりした理由で辞職するより定量化された権力を根拠とする方が遙かにマシ。
で、なんで政治資金規正法の改正って話にならないのだろうか?
政治家にとって不利だから? まあ、それもあるのだろうけど、きっとそれだけじゃないと思うんです。
 
よくゼネコンの談合事件てありますね。あれ、なんでなくならないんでしょう? ゼネコンは悪人の集まりだから? んなわけない。 
 
ゼネコンのことには明るくないので自分の体験に基づく話を少し。
たとえば受注金額が数億円の通信システムを官公庁へ納入する。これを一社で落札すると独禁法に引っかかるから複数社で分割して受注する。
でもね、別会社でつくったシステムを繋げてすんなり動くってもんじゃないんです。糸電話じゃないんだから。なのにそういう前提なわけです。業者はお上の仕様書に基づいてつくってるだけなんだから、と。そういう建前。
 
けど「建前」じゃ済まない。国家予算で売りっぱなしってわけにいかない。だから事前に業者間でのすり合わせが必要になるわけです。そこにお上が立ち会うこともあるでしょう。当然、金の話だってしなきゃならない。
これ、週刊誌が悪意を持って書けば簡単に「談合」事件にできますよ。だってそもそもどこが落札するかわからない建前なのだし。
しかし業者は具体的に受注の見込みがないシステムを大金かけて開発なんかするわけないんですよ。
 
こうした業界固有の事情を、しかし関係者は話したがらない。
むろん「関係」してりゃあ誰もが問題を把握してるってもんじゃありませんし、むしろ「暴露話」なんて眉唾ですけど、詳細を知る立場にある者も、その事実確認的発話が行為遂行的に解釈され(つまり自己弁護と見なされ)、ワイドショウ・週刊誌的な「正義」の餌食になることくらいは容易に察しがつくので、「余計なこと」は話さない。
 
何も私は「談合」を認めるべきだと主張してるんじゃないんですよ。
「正義」の「餌食」とされた彼らもまたべつの局面では平気でそんな「正義」の側につく。
かように陳腐な「正義」の循環が、弁証法的な議論を妨げているといっているんです。
政治資金規正法にしろ独禁法にしろ、法の本来の要請と法律の文言とが乖離している、私はそう思ってます。
それを放置したまま「人間性」とか「資質」とかいってるのは、法治国家としてダメだろうと思うわけです。

2016年6月12日 (日)

御柱祭

どっかの弁護士が御柱祭の中止を求めている件。
私はそれに与しないけど、そういう考えのあるのもわかります。
だって、祭りで死のうが原爆で死のうが「死」には変わりがない。でしょう? 核兵器廃絶を求めるのなら、祭りの中止を求めたっておかしいことはない。
でも実際には扱いが違うよね。なぜか?
それぞれの死がまとってる「物語」が違うんですよ。

「まとってる」と書きましたけどそれは、読み取られる、ってことです。死に行く当事者でさえも、死の瞬間までは自分を主人公とする物語の「読者」なんだという気がします。
そして物語というものは必ず類型化される。「死」そのものに軽重はなくとも、祭りと原爆とで「物語」が区別されるんです。

観客

基本的に善人であるA、B、Cの女三人。
共通項として同い年の子供がいるとしようか。PTAの会合の後、喫茶店で談笑している。
今、Aのケータイが鳴り、店の外に出て行った。
さて、残されたB、Cの話題は?
容易に想像されるのは、Aの(Aにとって良くない)噂話、つまり「悪口」だ。
そしてこれが作劇上の定石だ。
 
こうしたテクスト内の力学がまずあって、それにどれだけ沿うか、あるいは沿わないか、それによって登場人物のいわゆる「キャラ」ってやつが決まってくる。

むろんこれは「現実」とは異なる。
現実ならば、Aの不在中、B、Cは他愛のない天気の話を続けるかも知れないし、加納さん(って誰、それ?)を話題に登場させるかも知れない。
しかし劇でそれをしたら、「あえて」の匂いを否応なしに孕んでしまう。
たとえ「日常を切り取ったような」と評される劇であってもだ。
なぜか?
観客が見ているからだよ。
〈観客〉の介在という構造を持つことにより、現実と虚構ではパースペクティブが異なるのだ。
このことは書き手はもとより演じ手もよく自覚しておく必要がある。

2016年6月11日 (土)

聖子派/明菜派

あの時代、クラスは聖子派/明菜派に二分されていた。
むろんそんなのは便宜的な「時代」のカリカチュアに過ぎず、実際のと
こ、そんな図式に綺麗に収まるはずもない。
そんなこたあわかっているのだが、繰り返しそうした「物語」を耳にし口にするうちに、あたかも「聖子派/明菜派」が「事実」であったかのように、自分の過去を錯覚してしまう。
ていうか同世代人がむしろ積極的に過去の細部を忘却し、戯画化された「青春」の証言者になろうとしているかのようで、私は「そんなのウソだ!」と言いたくなる。

関係性の演劇

一時期よくいわれた「静かな演劇」とほぼ同義と思っていいが、ここでいう「関係」、これを「物語における登場人物の〈人間関係〉」みたいに矮小化して解釈し、「そりゃ芝居なんだから人と人の〈関係〉が描かれるのはアタリマエ」なんてほざいてる者があるようだから記しておく。

そういうこと言ってんじゃねーから。もっと〈実存主義から構造主義へ〉みたいな話なんだよ。
つまり、確固たる内面を持った〈個人〉がまずあって、それがべつの〈個人〉との間に〈関係〉を持つ、んじゃなくて、逆に〈関係〉が〈個人〉を規定するんだ、という考え方。

現代思想的にはべつに新しくもなんともないが、そうした視点が強調された戯曲の〈書かれ方〉は、日本で90年代まではなかったわけ。少なくとも一般化していなかった。
それが「一般化」したんだよ。一過性の「実験」で終わることなく、演劇固有の表現として。単なる日常風景のスケッチみたいな多くの駄作を産みもしたが、それも含めて演劇史的に特筆に値することだから、そうした方法で作られた芝居をわざわざ呼び直してるわけ

行為遂行的

「挨拶が大事」というのは、そりゃ確かに道徳的にはそうなのだろうけど、ことさらこれを言いたがる人はその「礼儀」的側面ばかりを重んじ、事実確認的(=コンスタティブ)な側面を軽視してるキライがある。私は経験的にそう感じる。
たとえばオーディションで受験者に課題のテクストを渡す。
5分間、黙読してください。
「そろそろ、いいですか?」と、5分後に声を掛ける。
こたえはYES/NOの二者択一だ。
YESであれば審査を始めるし、NOであればもう少し待つ。
しかし重度の「挨拶が大事」系は、読み終わっていないことを「咎められた」と感じてしまう。
こちらの言うことを字義通りに受け取らず、行為遂行的(=パフォーマティブ)に解釈しがちなのだ。
そういう不必要な「深読み/裏読み」は、礼儀正しいどころか、無駄な調整コストがかかるだけ。そんなの誰も求めてない。

若さ

「若さ」が貴重である(ように思われる)のは、それが二度と取り返しがつかないからだ。
それは事後的に発見・解釈=物語化されるもの。それ自体が、常に既に〈失われたもの〉としてある
そう考えると、逆説的に、老いた者しか己の「若さ」を持ち得ない。

作者

誰が言ったのだったか忘れてしまった。
「物語」というのは始点Aと終点Bをあらかじめ決めて間に線分ABを引くようなものだ、と。
自戒の念も込めて、私はこれを明確に否定したい。

それはもっと積分に近いイメージ。
つまりAB'がB'B''を呼び込み、それがまたB''B'''を呼び込み、その果てにやっとBが現れ、結果として線分ABが完成する。
「物語」というのはそうやって常に事後的なもの。呼び込まれた奇跡の総体。
願わくは、そうして現れたBもまたそこで完結せず、さらに先に伸びていこうと、線分の端でふるふる震えていてほしい。
 
だから戯曲であれ小説であれ文芸作品というものは、そこに作者が現れてしまうものではあっても、作者が「意見」を表明する場では本来ないし、そのために登場人物を利用することなど決して許されない。
 
B'、B''、B'''と、新たな「点」を得るその都度、すでに引かれた線を振り返り、そこから影響を受け続ける。 それが文芸作品の作者=作家というものだ。最初にAを書きつけたときの「私」はもういない。

破壊王

小学校の時、クラスでミニカーが流行った。
休み時間に教室でクラスメートが持参のミニカーで遊んでいたら、学校イチのワル・破壊王がやってきた。
破壊王はクラスメートからミニカーを取り上げ「壊していい?」と聞く。
いいわけがないが、腕力の非対称性を認識しているから、クラスメートは渋々頷く。そうして目の前でミニカーを粉々に破壊され、悔しさからか悲しさからか、泣いてしまった。
泣き声を聞きつけ、担任の先生がやってきた。破壊王を問い詰める。
「なぜそんなことをするの?」
「ちゃんと許可を取りました」
むろん担任もバカではないからそんな説明では納得しない。
すると破壊王はありもしない「真実」を打ち明けはじめる。
自分はミニカーを買ってもらえず、クラスメートが羨ましかった。
そういう通俗的な「物語」を作り上げるのだ。
結局、その「物語」を受け、学校にミニカーを持ってくるのが禁止になった。
なんてクダラナイんだろう、と思ったものだ。
 
ガキの世界がプリミティブな善意に満ち溢れているなんてことはない。
今と違って昔はイジメも陰湿じゃなかった、なんてのは大嘘だ。

共犯関係

幼い少女が母親の真似をして口紅をつける。
母親に見つかって「何やってんの!」と叱られる。
よくある話だ。

これが現実の「教育」としていいんだか悪いんだか私は知らない。
もっと子供に対して「理解ある」言葉をかけてやるべき、という意見もきっとあるんだろう。
けれど物語の技法としては、これでいい。これが作劇の基本中の基本。
なぜならそれで、読者(観客)は主人公への滑らかな感情移入が可能となるからだ。

作者は主人公と読者(観客)に「共犯」関係を結ばせる。
ドリフの「志村うしろうしろ!」と同じ原理だ。
「口紅」の件は、主人公=少女と読者(観客)だけが知りうる特権的な「秘密」なんであって、母親はその関係を際立たせる部外者としてあらねばならない。つまりちゃんと泥をかぶらなきゃいけない。

遵法精神

自動車の運転免許をなくして久しい。
けれど私も技術的には世間一般のペーパードライバー並みに車を動かすことはできる。

たとえば田舎道に一台の乗用車が停まる。
運転席から一人の巨漢が降りる。
太りすぎがたたったのか、急に胸を押さえてうずくまった。
脂汗をかき、息も絶えだえだ。
私の他に誰もない。
車もまったく通らない。
10キロ先に病院がある。
救急車はあいにく出払っている。
さて、私はどうするか?
男を背負って病院まで行くか? 
おそらく背負うことすらできないだろう。
では、救急車の戻ってくるのを待つ? 
待つ間に男は死んでしまいそうだ。
 
私は自ら車を運転して男を病院に連れて行くだろう。
こんな私でも、こんな田舎道で事故を起こす蓋然性はきわめて低い。
しかしもちろんその可能性はゼロではないし、そもそも「無免許運転」は道路交通法違反なのだから、法に従い、男を見殺しにするのも一つの「正しさ」なのだろう。
けれどきっと私はそうしない。
表層的な「遵法精神」が人を殺すバカバカしさに耐えられないからだ。
そしてそれは法の本来要請するものではない。

2016年6月 7日 (火)

「くださる/いただく」問題

 
以前にも書いた「くださる/いただく」問題。
それに関して参考となる文献(高島俊男『お言葉ですが』)の一部をある方から送って【いただき】/ある方が参考文献の一部を送って【くださり】、私はそれを読んで「そうそう、まさにそういうこと!」と膝を叩いた。
 
その文献の記述に比べ、私の説明はわかりにくいかなあ、ヘタクソだなあ、とも思うけれど、ま、いいや。
中島義道はこんなことをいっている。
〈書くことは他人を巻き込んで自分に向かって語ること、他人の目を通して自分に対して語りかけること、他人に納得させようとするかのような外見を保ちながら、つまり普遍的問題であるかのようなトリックを駆使しながら、じつは自分自身だけに語りかけることである。〉
 
演劇なんかやってるくらいなんで私は常識的な人間ではないし、「正しい」敬語を使いましょうなんて他人に説教するつもりも資格もない。
そうじゃなくて私が問題にしてるのは「主体」だ。行為の主体。
モノカキを名乗る者、とくに社会派を自称する劇作家などが、この「主体」に鈍感なのがどうにも許せない。
そうして「みんな」におもねる通俗的な「善」をなぞって何事かいったふうな顔をする。そういうのを目にすると、私はムカッ腹が立ってしょうがない性癖なのだよ。
今「性癖」? と思ったあなたは辞書を引け。

2016年6月 6日 (月)

ガラス

危ないので割れた瓶の断面にヤスリをかけました。
ガラスの粉が飛び散らないよう、水の中で作業。
指が腫れてしまった。
ガラスの粉を含んだ水に長いこと手を浸していたわけで、あちこち細かく傷ついている。手袋しろよって話ですが。
 

学生時代、建築現場でアルバイトしてたことがありました。
建物の壁に断熱材を敷くんです。グラスウールっていうガラス繊維の綿みたいなやつ。
手でちぎると空気中にガラスの粉がキラキラ舞う。綺麗なんですが、吸い込むと肺がやられてしまうから、作業員はみんなマスクして、目にはゴーグル、頭と首にはタオルを巻き、ウインドブレーカーを着ます。夏だったので死ぬほど暑い。
そこまでしてもガラスの粉が入り込んで皮膚がチクチクします。首や胸が赤くなるんです。
それで日給7千円でしたか。ブラックだよなあ。

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損益計算書

経理部時代、会社のB/SとかP/Lって見たことない。
ないこたないのかもしれないが、ヒトゴトでした。実感ない。
自分の担当する事業部の予算は、数字に「愛着」がありました。
継続して毎日見る、というのが大事で、するとヘンな数字は「ん?」と気づく。 
これって、たとえば学者や学生が一人の作家や評論家を専門に追いかけ続けると、その独特な言い回しや造語のニュアンスがなんとなくわかってくるのと似てる気がする。閉じてはじめて見えてくる。構造としては女子高生の「ヤバイ」と一緒。

 
で、「ヤバイ」はどうでもよくて、P/Lですよ。損益計算書。
   
小劇場演劇のチケットの値段設定って原理は実に単純で、製作費の予算を観客動員数の予算で割ってやればいい。
これでトントン。でしょ?
すると、ウチ程度の規模で、ラクに5千円を超えます。
新劇や商業演劇並みに脚本料・演出料などを設定したら、もっと。
労働価値説でいけば、これでいいわけです。
しかしこれじゃあ市場で取引されない、つまり誰も買ってくれない。小屋ごとの相場ってもんもあるし、そんな値段はつけられない。
なので削りやすいとこから削っていくことになります。主宰が作・演出を兼ねてれば、脚本料も演出料もゼロに設定し直すんです。
マルクスの敗北ですよ。
なのに演劇人がいまだにヒダリマキだらけなのはどういうわけなんでしょう? いや、だからこそ資本主義を否定したいのか。
 
文化庁主催の公演で、チケット2500円てことがありました。
相場の半額ぐらいじゃないですか。
なぜそんなことが可能か? 
もちろん税金が使われているからです。出演者・スタッフのギャラも私の原稿料もほぼすべて税金。
けど、納税者でもある観客には「良心的」な料金設定とか言われるんですね。朝三暮四。
そりゃ民主党が「高速道路無料化」をいうはずだわ、と思いました。

2016年6月 4日 (土)

分ける

ジャンル分けに意味はない。
と芸術家は言いたがる傾向があるが、はたしてそうか?
「わかる」は「分かる」と書き、そもそも「分ける」と語源が同じなのだ、などと東進ハイスクールの先生みたいなこと(http://www.toshin-kinshicho.com/%E5%88%86%E3%81%8B%E3%82%8B%E3%81%AF%E5%88%86%E3%81%91%E3%82%8B/)をいうつもりはないけれど、劇作家が自作の方法に自覚的であろうとすれば、べつの方法との比較によって自己相対化してやる必要がある。つまり「分ける」のだ。
 
たとえばひとつ前の投稿で私は「話し言葉(=パロール)」と「書き言葉(=エクリチュール)」の特性について思うところを「分けて」書いた。
両者の差異について、劇作家なら誰でもいつでもこの程度のことは考えている。誰でも、いつでもだ。考えていないようなのは劇作家のうちに入らない。少なくとも私は認めない。
 
歌舞伎/新劇、新劇/アングラ、アングラ/80年代小劇場、80年代小劇場/静かな演劇、と後者が前者を否定する形で演劇の新しい表現が生まれてきた。
むろん私は自分の感性に基づいて、今の自分に相応しいと思う芝居を勝手につくっているんであって、演劇史的な流行に合わせてスタイルを決めているわけじゃない。
しかし「今」って何か?
後藤明生が指摘するように〈「時代」とは、人間が唯の一度だけ具体的に生きることのできる、唯一の空間〉で、いかなる芝居の作り手も〈現代というものの侵蝕から免れ得る特典を有して〉いない。
 
90年代に日本の現代演劇の主流となったいわゆる「静かな演劇」をパロール原理主義とするならば、今の時代の演劇は、それ以前に蓄積された演劇的コード=お約束、をそのパロール原理主義的方法にどう接続させるのか/させないのか、試行錯誤するものである。自作を通じて私はそう感じている。

2016年6月 1日 (水)

消費税率引き上げ延期

http://biz-journal.jp/2016/05/post_15302.html
 
消費税率引き上げの延期を決めた安倍首相を民進党は批判する。
じゃあ民進党は「引き上げるべし」という立場なのかといえば、そこは自民と同じく、「延期」という。
おまえは何を言っておるのかって話だが、安倍首相の「公約破り」がケシカランという。そしてそれはアベノミクス「失敗」の証左であると。
 
上武大学ビジネス情報学部の田中秀臣教授の指摘によれば、「アベノミクスの失敗ではなく、民主党(≒民進党)の失敗、その負の遺産がいまだに日本を汚染している」「安倍首相は民進党の負の遺産を過小評価していた。原発対応ミスや安全保障で日本をひっくりかえそうにしてた政権。その残した負の遺産を甘くみてはいけない」
 
そもそも「公約破り」せざるを得ない状況をつくりだしたのは民主党≒民進党に他ならないということだ。
アベノミクスが「失敗」というなら、それは民主党≒民進党の尻ぬぐいをしきれなかったってこと。
 
だから責任感じて、すみっこで肩身を狭くしてるならまだ可愛げもあるが、岡田代表をはじめとして民進党議員はどいつもこいつもまるでそういう自覚がない。
不必要にのびのびとしゃしゃり出てきては、偏差値バカ特有のくだらん屁理屈をいうのだけれど、「和製英語」の件などみると、どうやらその「偏差値」も怪しい。
つまり偏差値バカですらなく、単なるバカってことだ。

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