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2016年5月 2日 (月)

内田百閒『冥途』

百閒文学の特徴は、たとえば登場人物Aが心の中で思ったことを登場人物Bがあっさり見抜いてしまうとこ。
『私は思った。神などいない、決していない!
「いいえ、あなた、それはいけませんです。神様はいらっしゃいます」』
というふうに。
 
その構造は、舞台における「シムラうしろうしろ!」と実は一緒。
つまり読者=観客があらかじめAの心の内を知っているから、Bはそれを見抜くことができる。
役者はこの「観客の介在」という構造を知っておく必要がある。Bの気持ちとか、生い立ちとかを『ガラスの仮面』的に深読みしたって「答え」には決して辿りつけない。
 
小説では、書かれたものを読者が読む。
一方芝居では、前提として、観客は台本を読んでいない。基本的に役者の語ったことしか知り得ない(心内語を字幕処理しちゃうというアクロバチックな演出方法がないではないが)。
 
このジャンル固有のシバリが表現の方法を規定する。テクストが書き手に作品のスタイルを要請する。
百閒文学のキモを舞台化するには、演劇の伝統的な「お約束」を活用する必要がある、と私は考えた。つまり相手に見抜かれるべき心内語はぜひともモノローグで処理されなければならない。
 
作家が作品に「書かされる」っていうのは、こういう力学に従うことなわけ。そういう意味で私はバルトのいう「作者の死」を理解してるわけ

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