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2016年5月

2016年5月28日 (土)

サミット

ピタパタの旗揚げ公演「ジョマクノギ」は、石碑の除幕式に一族が集結する話。(http://homepage2.nifty.com/k_imai/libraly.html
劇中、ある女が夫に「滝を見に行こう」と誘われ、断るシーンがある。
「行こうよ。ミゴトな滝らしいよ」

「水が落ちてるだけでしょ」
今、正確な台詞を確認しようとしたら、そういう台詞がない! なんで?! カットしたんだっけ? 
初稿では確かにあったんです。
 
「滝」は観光地として成立している。
多くの人がそのイメージ=フィクションを共有している。
そこに「時間」が加わり、滝は「物語」になる。「こんなことがあったわねえ」と後で写真を眺めたり、そうして体験の記憶が「歴史」になる。
しかし現象としてはやはり「水が落ちてるだけ」なのだ。
  
ちと、抽象的な話になるけれど、「歴史」っていうもんは「テクスト=書かれたもの」であるなと、サミットのテレビ中継を見て改めて思ったのでした。
誰が言ったのだったか失念したけど、「物語」というのはいわばレース編みの模様みたいなもん。糸(意図)が交錯して形づくる「空白」の輪郭すなわち「構造」の解釈。

2016年5月24日 (火)

ト書き

戯曲にト書きってありますね。
その役割は一般に〈〔指定の言葉が「…ト両人歩み寄り…」などと「ト」ではじまる,歌舞伎脚本から起こった語〕 脚本で,せりふの間に,俳優の動き・出入り,照明・音楽・効果などの演出を説明したり指定したりした文章。 (大辞林 第三版)〉といわれますが、実はそれだけじゃないんですよ。
たとえばこういうこと。
*** 
最愛「これでお別れなのね?」
一隆「ああ」
一隆、口に煙草をくわえ、ポケットからおもむろにマッチを取り出す。
***
普通はこんなもんですね。
べつにそれでいいわけですけど、もし、一隆が煙草を口にくわえたりポケットからマッチを取り出したりする様を細密描写したらどうなるか。
私、描写がヘタなんでやって見せませんけども、「おもむろに」と書かなくても、そうなるんですよ。時間が遅延するんです。
読者の体感時間として「おもむろに」という記述は実は一瞬で処理され、「おもむろに」じゃないんです。エコノミーな記号=「説明」にすぎないんですよ。
戯曲というのはもちろん文学です。工場の製造命令書じゃないんで、叙述の方法がテクストにある効果をもたらすんです。
演出家の最初の仕事は、それを読み取ってやること。
翻っていえば、そういう読みの技術がない人間は、そもそも演出家とは呼べないんですよ。

品性?

べつに舛添さんを擁護するつもりはないのだけど、「品性」だとか「器」だとか「道義的責任」だとか、そういうことかよって思ってしまう。
そうじゃなくて、メタレベルの「法の支配」の話じゃね?
前にも憲法のからみでこういうたとえ話を書いた。

***

コンビニのマニュアルに「未成年には酒を売ってはならない」って書いてあるとする。むろんこのマニュアルは法律と整合してる。
ある日、一組の親子連れが来店した。
レジにビールを持ってくる。
と、子供が親に「ボクが払う!」という。
親が子に小銭を渡し、子がそれをレジカウンターに置く。
店員「未成年には売れません」
て、言いますか? この状況で、売ったら法律違反になるんですか? 

***

メタレベルの法の支配に従うこと、つまり法の要請するところを曲解しないこと、それを「品性」というのかもしれないが、そういうぼんやりした言葉で思考するから話がとっちらかるのじゃないか。挙げ句に「人間性」やら、真偽のわからぬ出自やらを持ち出し、「だからか」と勝手に納得するのじゃないか。
それを思考停止というのだ。
あくまで「法」なのだ。法治国家なのだから。情緒の話じゃない。

2016年5月19日 (木)

封印

http://www.asahi.com/articles/ASJ5F5FSRJ5FOIPE01Z.html

地元では、事故の不安を抱えながらも、原発に頼らざるを得ない生活があり、「脱原発」の声が封印されつつある。

***

ふう‐いん【封印】
[名](スル)
1 封をした証拠として印を押したり証紙をはったりすること。また、その印や証紙。「書類を入れて―する」
2 (比喩的に)人目につかないように隠すこと。それまであった物事や言動を、表に出さないようにすること。「得意技を―する」「―された過去」
3 公務員が法律の規定に基づき、有体動産の現状の変更を禁止するため、その物の上に印章を押した標識を施すこと。また、その標識。

***

むろん「2」の意味で「封印」が使われてるわけだ。
この月舘彩子氏だか岡戸佑樹氏だかの記者は、原発=悪/脱原発=善という価値観をアプリオリなものと規定している。少なくとも私にはそう読める。
地元住民は生活のために「正しい」本音を隠さねばならぬ状況を強いられている。心は脱原発を求める善なのに、誰かが作ったこの薄汚い資本主義の現実に迎合して、悪の振る舞いをしなければならない。
アンビバレンツに苦しむ住民。
   
バカなのか?
なんなのだその汚れちまった悲しみに的センチメンタリズムは。
 
そもそも原発=悪/脱原発=善という価値観の自明性を疑うことからはじめてみろ、と何度いっても、教条的反原発の耳には届かない。
だからもう勝手にすればいい。知らん。

蓮實重彦「不機嫌会見」

蓮實重彦の「不機嫌会見」が、少なくとも私にとって痛快だったのは〈戦争に向かう今の時代の危うさとか、ひわいなイメージで読者を揺すぶってみたいとか、そういう意図というのはないのでしょうか。〉みたいな「現国」的愚問や、『(文芸時評)ポルノとファシズム 危うい空気に抗する砦』(http://www.asahi.com/articles/DA3S12284288.html#Continuation)みたいな低俗な読みがいまだに世間に流布し、それなりの共感を得る状況への嫌悪感を「作者」として表明して見せたことですよ。
だいたいあの会見で記者のビビった相手は誰なのか?「作者」なのか?
否。蓮實重彦という「権威」でしょう?
その権威を作者が活用してみせたわけです。

2016年5月16日 (月)

18歳選挙権

Q あなたが、最も良い印象を持っている政党はどれですか。1つだけ選んで下さい。
                            ★ ■
  答 1.自民党                  26  33
     2.民進党                   3   8
     3.公明党                   3   5
     4.共産党                   1   5
     5.おおさか維新の会            3   5
     6.社民党                   0   1
     7.生活の党                  0   1
     8.日本のこころを大切にする党      1   1
     9.新党改革                  --  --
    10.その他の政党               0   0
    11.印象の良い政党はない        60  40
    12.答えない                  1   2

 http://www.yomiuri.co.jp/feature/opinion/koumoku/20160510-OYT8T50028.html

自分が18歳のときはどうだったろう?
1986年。
最大の関心事は大学受験と女の子とへヴィメタルで、支持政党なんてもちろんなかった。
仮にあの頃の自分が今の時代にタイムスリップしたとしたら?
私と似た属性の少年少女の多くにとって、シールズみたいなクルクルパーが同世代人の代表みたいに言われることは不愉快だろうし、そんなもんに寄り掛かる民進党なんかを支持できるわけがない。

余裕

かつて有権者の半数が社会党を支持してた。それは自分にかかわる秩序がすでに完成してる気がなんとなくしていて、新聞なんかどこでも一緒、政治家なんか誰がなったって一緒、戦争なんて海のむこうのできごとで、自民党批判でもしてりゃ正義でいられる「余裕」があったんだと思う。
今はそんなんじゃ通用しない。それが民進党なんかはまるでわかってない。

2016年5月 8日 (日)

芸術か猥褻か

http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20160507000063
 
よく「芸術か猥褻か」って議論がありますね。
なぜ二律背反で語られるのかが私にはわからない。猥褻な芸術だってあるでしょう。「芸術」なんて自己申告制なので、本人がそうだといえばそうなんです。
だから何?
  
私はこう考える。
「芸術」というのは形而上学的には際限なく自由です。その限りにおいては殺人だって正当化される。つまり思うのは勝手ってこと。
けれど、形而下において表現する際、つまり、そこが法秩序に基づく社会であるなら、法的な制約を受けるのはあたりまえの話。
なんで「芸術」が治外法権だと思うんです? 
だったら私も「表現の自由」の名の下に劇場費踏み倒しますよ。そんなの許されるわけないでしょう?
  
少し抽象的なことをいうと、我々が読む「社会」っていうテクスト=織物は、さまざまな「糸(意図)」が交錯して一枚の面をなしているんであって、「芸術」だってその糸のうちの一本に過ぎないんですよ。
 
こういう理屈っぽいのは芸術家らしくないですか?
だったら私は芸術家なんかじゃなくて結構。

2016年5月 2日 (月)

内田百閒『冥途』

百閒文学の特徴は、たとえば登場人物Aが心の中で思ったことを登場人物Bがあっさり見抜いてしまうとこ。
『私は思った。神などいない、決していない!
「いいえ、あなた、それはいけませんです。神様はいらっしゃいます」』
というふうに。
 
その構造は、舞台における「シムラうしろうしろ!」と実は一緒。
つまり読者=観客があらかじめAの心の内を知っているから、Bはそれを見抜くことができる。
役者はこの「観客の介在」という構造を知っておく必要がある。Bの気持ちとか、生い立ちとかを『ガラスの仮面』的に深読みしたって「答え」には決して辿りつけない。
 
小説では、書かれたものを読者が読む。
一方芝居では、前提として、観客は台本を読んでいない。基本的に役者の語ったことしか知り得ない(心内語を字幕処理しちゃうというアクロバチックな演出方法がないではないが)。
 
このジャンル固有のシバリが表現の方法を規定する。テクストが書き手に作品のスタイルを要請する。
百閒文学のキモを舞台化するには、演劇の伝統的な「お約束」を活用する必要がある、と私は考えた。つまり相手に見抜かれるべき心内語はぜひともモノローグで処理されなければならない。
 
作家が作品に「書かされる」っていうのは、こういう力学に従うことなわけ。そういう意味で私はバルトのいう「作者の死」を理解してるわけ

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