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2016年4月

2016年4月27日 (水)

くださる/いただく

先生が貸してくれた本を読む。
先生が貸してくださった本を読む。
先生に貸していただいた本を読む。
先生が貸していただいた本を読む。とは、いわない。なぜなら「いただく」は謙譲語だからだ。「いただく」主体は誰か?「私」だ。
 
本を貸してくれた先生。
本を貸してくださった先生。
本を貸していただいた先生。っていう? いわないだろう。
 
本を貸してくださり、先生に感謝しています。
本を貸してくださった先生に感謝しています。
本を貸していただき、先生に感謝しています。
本を貸していただいた先生に感謝しています。とは、いわないな、やはり。

2016年4月12日 (火)

最終選考

http://www.tokyo-sports.co.jp/entame/entertainment/529020/

昔、何かの文芸誌で読んだのだったと思うけど、小説の新人賞で最終候補に残るのがいつもイマイチだから下読みが悪いんじゃないかという話になり、応募作を全部、選考委員が直接読んでみたら、やっぱり同じ結果だったという。
戯曲でもそうですけど、新人文学賞の最終選考に残る/残らないのレベルでは、それなりの人が読めば、結果はそう違わない。受賞するかどうかはともかく。

客観的な指標がないジャンルのようでいて、実はほとんど「技術」の話に回収できてしまうんですよ。応募作の多くは作品の体をなしてない。

美術の場合はどうなんですかね?

遠くで子供の声

http://www.sankei.com/premium/news/150820/prm1508200007-n1.html

ト書きで「遠くで子供の声」なんてあれば、のどかな午後の記号ですね。
グンマーの私が出た保育園は寺の境内にあって、近所に民家がないじゃないけど、東京みたいに密集してない。墓場の向こうに「遠くで子供の声」だったと思います。
 
私は今、首都圏の郊外に住んでいて、だからこういう「音」の問題は、わかる。実際、今の部屋に引っ越してくる際、見てまわったマンションの中に、すぐ目の前が中学校の物件があり、部活の声がうるさいんで却下しました。
 
子供=善という構図が情緒的に強調されがちだけど、それで近隣住民に「理解」や「優しさ」を強いるのは暴力的。
じゃあ子供を部屋の中に閉じ込めておく? 
それもなんだかなー。ドロ団子つくってピカピカに磨いたり、集めたカマキリの卵が孵化しちゃってゲッてなったり、そういう体験も大事なんじゃない? これも単なる情緒的思い込みかもしれないけど。
 
どうすりゃいいんでしょうね? やっぱ最後は「金」で解決でしょうか?

2016年4月11日 (月)

三途の川

奥泉光『ノヴァーリスの引用』はこんな書き出し。
〈死が絶対の終焉である。歩み出た向こう側にはなにもなくて、天体のない宇宙空間さながら無際限な暗闇がぽっかり口を開いているばかりである。否、そのようにイメージされることをさえあたまから拒絶して、死がいっさいの内容を欠いた空無であるとしたら、正でも負でもない絶対の零であるとしたら、はたして人間は耐えうるのであろうか。(略)
耐えがたい。この点で全員の感想は一致した。であるならば、死にいかなる内実を与え、死をいかに構想しうるのか。〉
 
「宗教」といったときに一般にイメージされるのは何か「教え」であるとか「戒律」だとか、そういうものだと思うけれども、私はわりとそういうのはどうでもよくて、もっと人々の無意識に入り込んだ「文化」、なんだかんだいって最終的に逃れがたい土着性みたいなものに興味がある。
オカルト的な意味での「死後の世界」を信じているわけではないが、それでも自分はいまわの際に「三途の川」を渡るのだろうという気がしている。
何故か?
わからない。わからないけれどもこういう人間は私の他にも数多くいるはずで、そういう「物語」を無意識レベルで共有する者らの属性を「同胞」と呼ぶんじゃないか。
仮にそうだとすれば、イザナギ・イザナミの神話から「国」を語り始めるのは、至極自然な気がする。

2016年4月 8日 (金)

書を捨てよ、町に出よう

若いうちにたくさん本を読め。
っていうと、手垢まみれの説教みたいに若者は思うだろうけど、これ、ほんとに大事なことだから。
何も教養主義で言うんじゃない。なんだったらエロ小説だっていい。
 
「書を捨てよ、町に出よう」と寺山修司は言った。
これ、前提として、書物を手にしてるわけ。
捨てる書物もなしに、町に出たってどうにもならん。

宗教

私は俗にいう葬式仏教。宗派もよく知らん。知らんというか、聞いても聞いても忘れてしまう。
 
地下鉄サリン事件が1995年ですか。

21年前。私は27歳。やっと戯曲を書きはじめようかなってくらい。芝居の稽古してると近所の人に怪しまれましたね。実際、怪しいし。
そのほんの数年前まで主な営業先が霞ヶ関で、毎日通ってましたので、なんだか「逃げ切った」という気がしました。
 
よく神秘体験によって宗教にのめり込むっていいますね。
我思う故に我あり、じゃないですけど、「私」がこの目で見た、聞いたのだから間違いない、となるんですね。
宗教といわないまでも、自己啓発系なんてのもだいたいこんなじゃない? 一冊の本や人との出会いで人生変わったとか。
私はそういう経験がないんですね。
そりゃ影響受けたり、目から鱗が落ちることだってありますよ。でもだからってそれまでの自分の価値観が転倒するまでじゃない。
  
「宗教」って何だといえば、いろいろ言い方はあるんでしょうけど、要するに死生観なんだろうと思います。
よく、いまわの際で、川や花を見たって「体験談」を聞きますね。
最近、百閒の『冥途』を戯曲化しつつ思ったんですけども、そういう多くの日本人が共通してもつ「あの世」のイメージって、いつ、どうやって共有されたんだろうか? 
 
この「共有」のことを私は「三途の川の岸辺に呼び集められる」ってキザにいってみたりします。
「三途の川」の切り口で「国家」みたいなもんが語れるんじゃないか、国民/国家の二項対立に基づくプロレタリア演劇みたいなもんを根底からひっくり返すホンが書けるんじゃないかと思って、吉本の『共同幻想論』を読んでみたりもしたんですが、なにいってんだかよくわかりませんでした。

ガソリン会見

ガソリン会見で、犯人が秘書である「蓋然性」について、山尾さんが説明してますね。
不自然な支出の行われた時期と、くだんの秘書の在籍期間が一致している、と。それを以て確からしさの根拠とすると。
   
まっとうな判断ですよ。
元検事がクルクルパーじゃなくて、一国民として安心しました。

 
そのうえで、山尾さんの話がまったくの作り話だという可能性もあるわけです。「可能性」っていうのは常にそういうもん。
今、原発再稼働問題で「不当判決」とかやってるゼロリスク信者の理屈でいえば〈作り話じゃないというなら、その証拠を示せ〉ってなるわけ。
古舘伊知郎メソッドですわ。
 
まず最初に山尾=極悪人と定性的に決めるんです。
その根拠は何だっていい。「さくら学院を冒涜した」だっていいわけです。
すると、古館メソッドが活用できる。
そうして「二度と不正が行われないと証明できるまで、プリペイドカードの発行は中止すべき」「そもそもガソリンを廃止すべき」こんな結論にだってなる。
 
屁理屈だと思うでしょう? でも、そういうことを民進党(民主党)はずーっとやってきたし、今なおやっているわけですよ。

学ぶ

「学ぶ」ということは物の道理を知るってことだから、ときに「信念」とぶつかることがある。そこで思考が生まれるはずだが、知的怠慢者はこの衝突を避け、「信念を貫く」の美名のもと、愚かさをこじらせる。

2016年4月 5日 (火)

反原発イデオロギー

データに基づく定量的リスクの比較に関する言説に対して、いまだに必ず返される「自分で住んでみろ」という戯言。
まさに「空気」(山本七平)。

原子力発電について三、四時間かけて正確な情報を提供し、相手の質問にも応じ、相手は完全に納得したはずなのに、相手はそれで態度は変えない。そして、いまの説明を否定するかの如く見える一枚の写真を見せられると、その方に反応してしまうという。

しかも「住め」などとは誰も言ってない。嫌なら住まなきゃいいのである。
ただ、そこを故郷とし、離れがたく思っている人には、定量的なリスクの比較によって主体的に住む/住まないの判断・選択が可能な政治的環境を整えるのが望ましい、という主張に対して「おまえが住んでみろ」。
 
疲れません?
 
その「おせっかい」の源泉って何なのだろう? 
それが定性的評価に基づく絶対的「正義」だよ。
その「正義」に基づく反原発イデオロギーだよ。
そのイデオロギーを支えるのが「庶民=善/国家・東電・その他金持ち=悪」という単純化された構図で描かれる「児童ブンガク」の物語だよ。
「児童ブンガク」って造語がわかりにくい? だったら「ワイドショウ」と脳内変換すればいいよ。定量的/定性的っていうのがわからない? 頼むから辞書ひいて。
 
かようにバカが善人ヅラして被災地に「呪い」をかけ、ひとの故郷を奪っているんだよ。いまだにまるっきり自覚がないようだが。
 
いいですか。私は今「バカ」といいましたが、生まれつきの頭の良し悪しを問題にしてるんじゃないんですよ。ましてや卒業した大学名や経歴を問題にしてるんでもない。
ハッピーになりたい、あるいは人をハッピーにしたいと思うなら、その気持ちの純粋さ=アツい思いを語るだけじゃダメなんだ。冷めた合理的思考の裏付けが必要なんだ。言葉に責任を持つというのはそういうこと。
そのダメ出しにいつまでたっても反応しない(できない)思考の怠慢をバカといっているんだよ。

日本共産党綱領

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik15/2016-03-26/2016032603_01_1.html

日本共産党は戦前も戦後も党の正規の方針として「暴力革命」の方針をとったことは一度もありません。

そりゃそうでしょ。
オウム真理教に綱領があるのか知らないけど、あったとして「サリン撒きます」とは書かれてないはずだ。
つか〈方針として~の方針をとった〉って、まず赤旗の記者は国語を何とかしろ。

せっかくなんで日本共産党の綱領を我慢して全部読んでみたよ。

http://www.jcp.or.jp/web_jcp/html/Koryo/

つっこみどころ満載なんですけども、長くなるので要点だけ。
 
私が大学生の時、ベルリンの壁が崩壊したのね。1989年11月9日。
で、卒業した1991年にはソ連が解体された。
そんなことって、あんの? と驚いたもんです。
フツーはこれらを社会主義の敗北・終焉と解釈すると思うんだけど、共産党は違う。
 
『ソ連とそれに従属してきた東ヨーロッパ諸国で一九八九~九一年に起こった支配体制の崩壊は、社会主義の失敗ではなく、社会主義の道から離れ去った覇権主義と官僚主義・専制主義の破産であった。』
 
まず、ここで常人はついていけないでしょう?
でもまあ、こういう考えはあり得ますよ。
たとえば、まり菜直筆の暑中見舞いに応募したのに届かないのを「ハズレ」とは決して認めず、「彼女、俺のことが好きすぎて、ポストの前を行ったり来たり、勇気がなくてとうとう投函できなかったんだな」という解釈というか妄想。「もしかしてだけど」の、どぶろっくメソッドと名付けたい。
 
そして共産党はこんなふうに持論を展開する。
 
『発達した資本主義の国での社会主義・共産主義への前進をめざす取り組みは、二一世紀の新しい世界史的な課題である。』
 
『社会主義・共産主義の社会がさらに高度な発展をとげ、搾取や抑圧を知らない世代が多数を占めるようになったとき、原則としていっさいの強制のない、国家権力そのものが不必要になる社会、人間による人間の搾取もなく、抑圧も戦争もない、真に平等で自由な人間関係からなる共同社会への本格的な展望が開かれる。』
 
今、何年? 2016年?
ちょっと背筋が寒いっす。
 
あと、綱領を読んでもらえばわかるけど、やたら「たたかう」「たたかい」「闘争」だらけなの。
こえーよ。
そんなんだから、宮本顕治はリンチ殺人を犯すし、高安知彦は白鳥警部補を射殺するんだよ。

カフカ的世界

http://agora-web.jp/archives/2018314.html

もうほとんどカフカ的不条理の世界。

数値が基準以下の処理水は希釈して海に捨てろという話はずいぶん早い段階から専門家によってされていた。
しかし「捨てる」という語感の悪さからか、合理的な議論はいつまでたってもされない。どこの国だってそうしてるのだから、といえば「じゃあ、みんなが駐車違反してたら、自分もしてもいいのか!」みたいなガキの道徳に話を矮小化する。
なるほどこの頭の悪さは国会前系。イデオロギーというよりも、彼らは論理的思考能力の欠如によって結びついている。
 
そうしていたずらに無駄なコストばかりかかるわけだ。
そのくせそのコストを負担するのはいやがる。
この矛盾。
矛盾が起きるのは、原発=悪だから、と「予定通り」に結論づける。
 
それで済む話なのか?
東電叩いて溜飲下げてりゃ問題解決するのかよ?
    
本来ならば、こうした大衆の愚かさに水を差すのがメディアの役割ではないかと思うのだけど、むしろ愚かさを助長して飯のタネにするのだから始末に悪い。

子ども/子供

http://www.j-cast.com/2013/09/01182664.html

同省の公文書では常用漢字を使うのが原則だが、「こども」については漢字の「子供」ではなく「子ども」が多用されてきた。「供」という字が「お供え物」「お供する」などを連想させ、差別的な印象を与えるというのがその理由だ。

少なくとも私には〈「供」という字が「お供え物」「お供する」などを連想させ〉ません。
 
とはいえ、「子ども」表記にも一理あるな、と思ってます。
最初は、単なる交ぜ書きと思ってましたけど、「ども」はもともと「野郎ども」などと同じ接尾語で、「供」は当て字なんだと知り、なるほど、と。
  
「国立国語研究所」は、こういってます。

従属や隷属の字義に思いを馳はせ,あるいは,本来の接尾語の姿を想像したり,連想したりすることを,すっかり一切やめなさい,といっても,そう簡単に抑えられるものではないでしょう。このことは,差別表現とも通じ,「嫌だ,不快だ,落ち着かない,という人がいる以上は,やめておく。」という穏やかな原則も成り立つことでしょう。
http://pj.ninjal.ac.jp/QandA/notation/kodomonohyoki/

その「穏やかな原則」は誰がどのようにして決めるのか。
ちょっと屁理屈をいいますが、たとえば「穏やか」の「穏」が「隠」に似ていて、なにか物事を隠蔽している印象を受けて落ち着かないので「おだやか」と平仮名に開くべき、と私が主張したら? 
私ごときの意見は無視されるだろうが、じゃあ村上春樹がそう主張したら?

2016年4月 4日 (月)

落書き

 

昭和46年ていうと、私、3歳です。
もちろん当時の記憶はありません。  
こういう落書きをしてた人たちって、その後の長い人生の中で「後悔」とまではいわなくとも、自分の浅はかさを「恥じて」はいるもんだと思ってました。「若気の至り」というふうに。
それがぜんぜんそうではないと知ったのが去年の「国会前」周辺です。「周辺」てのはべつに物理的な距離のことではなくてね。
いやもうほんとびっくりでした。長年連れ添った妻に「今まで隠してきたけれど、実はあたし、カッパなの」と告白されたような気分。告白されてませんけども。

向いてない

http://www.sankei.com/premium/news/160326/prm1603260019-n1.html

番組では、手術を受けた女性や家族のインタビュー、複数の識者の話、チェルノブイリ取材などを交えながら、甲状腺がん患者の増加が「放射線の影響とは考えにくい」としている福島県の調査検討委員会の見解を疑問視。古舘氏は「(原発事故との)因果関係がないというのは甚だ疑問だ」と述べ、特集の終盤には「因果関係が分からないのであれば、因果関係があるんじゃないかという前提で、じっくり探っていくプロセスが必要ではないか」などと訴えた。

12年やってこのザマですよ。
もしも「因果関係がない」というのに疑問だったら「ある」根拠を述べなきゃダメなんです。「ない」は証明できない、そういうのを「悪魔の証明」っていうんだって、キャスターやってりゃさんざん聞かされたでしょう?
 
あと、「キャスターは反権力」なんですか?
自分の立場をあらかじめ「反権力」と規定したら、権力の逆張りで、常に権力に規定されてしまうんですよ。そこには主体性がないんです。あるのは権力に対峙しているという自己陶酔だけ。
 
この人は、そんなことすらわからないのでしょう?
古館さんて、いくつですか? 61歳? 
一回り以上の長者年に向かって、こういうのもあれですけど、やっぱ、古館さん個人が未熟すぎやしませんか? 未熟というより向いてなかったんですよ。

核保有の是非

http://www.yomiuri.co.jp/politics/20160330-OYT1T50032.html 

おおさか維新の会代表の松井・大阪府知事は29日、日本の核保有の是非について議論するべきだとの認識を示した。  
松井氏は府庁で記者団に「完璧な集団的自衛権(で日本も相応の負担をする代わりに米軍に守ってもらう)か、自国で全て賄える軍隊を備えるのか(を議論すべきだ)。
武力を持つなら最終兵器が必要になってくる」と述べた。  
米大統領選候補者のドナルド・トランプ氏が、在日米軍を撤退させる可能性に言及したことを踏まえたもの。
おおさか維新の橋下徹・法律政策顧問もツイッターに「トランプ氏躍進は平和ボケ意識を改める大チャンス。集団的自衛権の否定は完全自主防衛そして核保有の流れになる」と書き込んだ。(2016.3.30・読売新聞)

議論はしたらいい。
むろん議論の結果が常に「正しい」とは限らない。
しかし弁証法的な思考の末に得た「結論」ならば、仮にそれが間違いだと気づくときがきたとしても、どこがどういう理由で「間違って」いたのか検証可能だろうし、検証できれば、新たな結論を選び直すこともできるだろう。
 
最悪なのは思考停止することだ。
 
そして思考停止者が寄り集まって、その「寄り集まった」ことを自信とし、おのが「信念」を正当化することだ。
世界のあちこちで起きているテロを見てみろ。論理を捨象して信念をフィジカルに昇華した結果があれだ。
 
「正義」にかんして簡単に「自明」を口にする者は、一度ヒュームあたりの懐疑論に落ち込んでみるといい。
その上で自分が現実の中で何を何のために選択するのか。
その自覚が主体性ってもんではないか。
民主主義というのはこの主体性に基づく多数決のことだ。

石油ショック

第一次石油ショックが1973年。
私、5歳ですけど、まったく記憶がありません。
トイレットペーパーの買い占めのことなど、小学校で習いました。
で、「そうだったん?」と母親に聞けば、そんなことしなかったという。新聞紙をくしゃくしゃっとすれば事足りたと。ボットン便所でしたから。痔になりそうですが。

たとえばこの母親への取材=私がこの耳で聞いた、という実体験のみに基づけば、世間に流布している「買い占め」などというのは嘘だということになる。
そんなわけはないでしょう?
じゃあ母親が嘘を言っているのか?
それも違う。
どっちも「事実」なんですよ。ただウチのケースはおそらく少数派だったの。べつに巨悪によって母親が「言わされてる」わけでもない。

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体験

「体験」は自分にとっては揺るぎない事実のように思えるけれど、そのまま他人と共有できない。
たとえば夢の話。
「夢」って「夢に向かって」の「夢」じゃなくて寝てる間に見る「夢」ね。
これを他人に話すとき、見たそのままを語ることはできない。必ず「物語化」されてる。  

「夢」といって誰でも思い出すのが、夏目漱石の『夢十夜』。
内田百閒の初期短編もこの系列といわれる。
で、これらの作品を、作者が見た夢そのままを書いたものだと思うのは、読者の勝手。でももしそれを作家がいうなら、作家なんかやめた方がいい。

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