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2016年3月

2016年3月27日 (日)

感性?

http://www.asahi.com/articles/ASJ3X7TRTJ3XUCVL045.html

集団的自衛権を行使できるようにする安全保障関連法が施行された29日、文学座の演出家西川信廣さん(66)らで作る「安保法制と安倍政権の暴走を許さない演劇人・舞台表現者の会」が、東京や京都、岡山など各地の駅頭で、無言でプラカードを持って抗議する「緊急サイレントスタンディング」を行った。

東京都内では、午前8時半から1時間ほど、新宿区のJR信濃町駅前、渋谷区のJR恵比寿駅前、武蔵野市のJR吉祥寺駅前などで実施した。

信濃町駅前では文学座や青年劇場、劇団青年座、劇団文化座などの有志ら約70人が、「安保法制施行反対」「立憲主義を守れ!3・29」「戦争法案施行反対!」などと記されたプラカードを手にたたずんだ。通りがかりの人から「頑張って下さい」と声援もかかった。

西川さんは「立憲主義に立つべきだということと、安倍政権の暴走を止めようという気持ちで団結してやっている。演劇の表現者が、何も言わないのは時代への感性として問われるべきことだ。今後も活動を継続していく」と話した。(朝日新聞・2016年3月29日)

安保関連法の施行に関し『演劇の表現者が、何も言わないのは時代への感性として問われるべきことだ』とは思わない。
むしろなぜ「問われるべき」と、まるでその態度がアプリオリに正しい選択であるかのようにいえるのか、いえてしまうのか、その感性をこそ問いたい気分だ。
劇を書く者としては、世界をテクストとして捉えたい。
テクストとはもともとテクスチャ=織物のこと。
さまざまな文脈の糸(意図?)が交錯し、それらの「関係」の総体としてこの世界=作品がある。

アンガージュマン気取り

すでに何度か言及したが、ルソーのいう全体意志と一般意志。
 
これを門外漢なりに解釈すれば、民主主義下では選挙を通じて全体意志は示されるけれど、それは必ずしも一般意志とイコールじゃないから両者の間に軋みが出る。
その「軋み」のひとつがデモなんだ、というふうに私は思ってる。

そしてデモは時の為政者が次の選挙を意識することで政策に影響を与える(こともある)。その意味では、デモも民主主義の一部であり、ある程度の有用性がある。
 
なので私はデモを全否定しない。
むろん「全否定しない」というのは「全肯定する」って意味じゃない。ひとつのデモに肯定できる側面とできない側面があるってことだ。 
 
私がとても肯定できないのは、論理的思考を捨象して信念をフィジカルに昇華すること。それでアンガージュマン気取り、つまりバカが何かを「やった気」になる。そうしておのが思考停止を正当化する。
 
たとえばこの季節、すぐにこういうのが現れる。
桜の花の散る風景に特攻隊を思い、これと安保関連法とを短絡的に結びつけて語り、恥じることがない。 
自己正当化のためにはまず、アベが、特攻隊をよしとしていると規定しなければならない。そういう「物語」の中でしか、自分は主人公を演じられない。 
 
こういう思考停止者が、類は友を呼ぶのパターンで集って情緒的に愚かさをこじらせるのだ。
そこにメディアの力がくわわって仮に多数派となれば、それが我が国の全体意志となる。
民主主義ってそういうものだ。
 
実際、そのようにして民主党政権は誕生したのだし、我々は「命を守りたい」の演説を聞かされて飯を噴いたのだ。

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