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2015年10月19日 (月)

わかる

「自分も不登校でした」「いじめられっ子でした」という「体験」を根拠に、「だから、自分にはよくわかる」と言いたがるのがいるけれど、そんなのは、生まれ故郷が一緒であるとか、母校が同じであるという程度の属性に過ぎないのだと思う。せいぜい「わかる気がする」だけだろう。むしろどうしてそう簡単に他人のことを「わかる」と思えるのかが、私にはわからない。
彼らはたいてい共通の体験を囲い込むことで、おのが言説を特権化しようと(無意識に)しているように見える。「体験してない人にはわかるまい」という例の捨て台詞で、相互不理解の責任を相手に一方的に転嫁する。
たしかに細部に生々しい共感があるのは事実だろう。

たとえば私は劇を書く人間だから、劇作家に共通のある悩みに共感することはある。だが、私の「悩み」は劇作家一般のそれを代表してはいないし、各人の抱える悩みをほんとに「わかる」ことなど、まずない。
そもそも「わかる」とはどういうことか? 
それは固有の体験を類型化し、時系列を整理して、ある程度通りのいい物語に仕立てるということだ。支離滅裂な悪夢を他者に語るようなもの。自分が見たままの夢の印象を言葉にすることなど不可能で、必ず「嘘」が含まれる。コミュニケーションを言葉が媒介する以上、言葉にならない何かが捨象され、すでに常にこぼれ落ちている。
そしてこぼれ落ちたそれこそが、実は一番わかってほしい部分だったりする。

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