一般意志/全体意志
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/13645/m0u/
いっぱん‐いし【一般意志】 《(フランス)volonté générale》私利を追求する個々の意志の集合(全体意志)ではなく、共同の利益のため利己心を捨てて一体となった人民の意志。ルソーが使用しはじめた用語。
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ルソーのいう一般意志と全体意志。
後者は、たとえば選挙によって(一応)抽出可能だけれど、前者はおそらく事後的にしかわからないし、わかるとも限らない。
そもそも何をもって「わかる」とするのかが、わからない。
わからないから逆説的に「一般意志は、つねに正しく、つねに公の利益を目ざす」とルソーは定義することができたのだ、と私は思う。
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80年代に消滅したと思っていた過激派組織は、実はほそぼそ生き続け、最近、息を吹き返したかに見える。うすら左翼を巻き込み、何かにつけデモをやっている。私にとって「デモ」って何かを考えるきっかけにはなった。
「デモ」そのものを私はべつに否定しない。
それは一般意志と全体意志の裂け目から生じるノイズのようなものだと思うからだ。
ノイズは政策に一定程度反映される。なぜか?
それは為政者が「次の選挙」を睨むからだろう。
つまりデモの有用性もまた、「選挙」という民主主義のシステムによって担保されているというわけだ。
何も大衆のキヨキココロがもたらす奇蹟ではないのだ。
気をつけなければならないのは、そういう独善的な誤解がテロを生み、ヒロイックな陶酔がこれを正当化すること。
それがかつて(?)共産党の目指した「暴力革命」だ。
「民主主義」というものが最善の政治体制であるとアプリオリに決まっているわけではない。
他により有効な選択肢を私たちは持たないだけだ。
しかしこれを選択する以上、「数」は合理的に抽出されなければならない。
「数」が現実を反映していなければ、一般意志はおろか全体意志も政治に反映させることができない。だからこそ抽出のプロセスが重視されるのだ。
そしてその「プロセス」を通して「民意」が正当化される。
民主主義というのは最後は結局、多数決なのだ。
当たり前のことだ。
「民主主義は数ではない」という言いぐさは、一般意志≠全体意志につけ込んだ詭弁にすぎない。
それが証拠にデモ主催者がデモ隊の数を水増ししまくっているではないか。
それは結局、「数」の客観性に依拠するより他に、己の存在価値を他者に示す方法がないからだ。
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