炒飯
劇場打合せ後、安ーい中華屋で、丸っこい炒飯。
新卒で勤めた会社を25才だか26才だかで辞めました。
私はもう気が重くて重くてしょうがない。飯なんか喉を通
それから名刺に「劇作家」と肩書きを入れるまでに10年
今考えると、あの高級中華は「芝居なんかやってちゃこう
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劇場打合せ後、安ーい中華屋で、丸っこい炒飯。
新卒で勤めた会社を25才だか26才だかで辞めました。
私はもう気が重くて重くてしょうがない。飯なんか喉を通
それから名刺に「劇作家」と肩書きを入れるまでに10年
今考えると、あの高級中華は「芝居なんかやってちゃこう
「憲法」と「憲法典」の話って、そんなに理解しづらい?
前にもちょっと書いたけど、ハイエクのいうメタ・ルールの概念でしょ。
『現代の憲法論では、憲法典で明示されている基本的諸権利の保護が、憲法の最重要機能と見なされることが多いが、憲法典の具体的な規定よりも、「法」を制約するメタ法的規則を重視するハイエクは、そうした見方とは一線を画している。そうした見方をしてしまうと、憲法典に明記されていない――が、慣習として確立されている――“権利”が軽視されたり、憲法典に書きさえすれば、普遍的権利になるかのような幻想が生じてくるからである。「憲法」は、その社会にすでに存在する「共通の信念」を部分的に成文化したものにすぎない。』(仲正昌樹『精神論ぬきの保守主義』第六章 ハイエク―自生的秩序の思想)
どうしてこれがわからないのかが、わからない。
じゃあ、たとえばコンビニのマニュアルに「未成年には酒を売ってはならない」って書いてあるとする。むろんこのマニュアルは法律と整合してる。
ある日、一組の親子連れが来店した。
レジにビールを持ってくる。
と、子供が親に「ボクが払う!」という。
親が子に小銭を渡し、子がそれをレジカウンターに置く。
店員「未成年には売れません」
て、言いますか?
この状況で、売ったら法律違反になるんですか?
考えればわかりそうなものだ。なのに、何故考えないんですか?
体制に従えなんて話をしてるんじゃないんですよ。こういうロジックで説明がつくでしょってのを無視して、くだらん幼稚な印象論をいつまで繰り返してんだよ、って話。ほんとバカじゃなかろか。
http://www.sankei.com/column/news/150919/clm1509190004-n1.html
故木田元氏によれば、いわゆる「哲学」はニーチェ以前と以降に分けて考えられるべきだという。
「以前」では、形而上学的原理に基づく思考様式こそが「哲学」とされたけれど、ニーチェが目指したのは、これを批判的に乗り越えることだった、と。
『彼の主張を一言にまとめれば、「プラトニズムの逆転」ということになります。』(『反哲学入門』第五章「反哲学」の誕生)
今国会を見ていて私が「うーん」と唸ってしまったのは、いわゆる「造反有理」が、かくもしぶとく生き残っていたのか、ということ。
「理」というのは「道理」の「理」、「理想」の「理」。揺るぎなき絶対的な「理」が、現実を超越したどこかに、ある。
これって、プラトンのイデア論ではないか。
私と同世代の人は、意識する/しないにかかわらず、青春時代にポストモダンの洗礼を受けた、と私は思っている。つまり、あらゆる「理」は相対化されるべき、という思考のクセがついている。それが証拠に、後にこの思考のクセは「行きすぎた相対主義」と批判されたものだ。「価値観は人それぞれ、ひとつになんか決められないよねー」と、バカでも言える懐疑主義とセットになった思考停止を招いてしまったというわけだ。
「造反有理」の復刻は、それへの反動と考えるべきなのだろうか?
かつてともに「青春」を送った私と同世代の人たちが、自分の息子/娘世代と一緒になって平気でこれをいっている。
私は、くらくらしてしまった。長年一緒に暮らしてきた妻に「実はあたし男なの」と告白されるような衝撃だ。
あんたら俺と一緒にあの時代をくぐり抜けてきたはずじゃなかったのか、と。
http://www.j-cast.com/2015/09/16245404.html
『野党がうまく協力していただければ、次の選挙で応援をしやすくなる。』
***
「野党がうまく協力して〈くだされ〉ば」あるいは「野党〈に〉うまく協力していただければ」。
政治活動も結構だが、まず学生としてやるべきことがあるんじゃねーの?
http://weblog.horiemon.com/100blog/31497/
『論理的に間違っている事を盲信して、雰囲気に流されて体が動いてしまう人は私は危険だと思う。』
***
学生の彼らを見て、自分がその頃、どんなだったかと思ってしまう。
年をとる中で、かつての純粋さを失って、いつしか理想を忘れ、現実と妥協している、などというテレビドラマ的紋切り型のナルシシズムは、違うのだ。
なぜならそれは、「理想」の源泉であるキヨキココロを自明なものとして無批判に、手つかずのまま温存する方便だからだ。
そういう陳腐な図式自体を相対化する必要がある。
それをしないできた者が、60年・70年アンポ世代の「アベ政治を許さない」系なのだと思う。
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/13645/m0u/
いっぱん‐いし【一般意志】 《(フランス)volonté générale》私利を追求する個々の意志の集合(全体意志)ではなく、共同の利益のため利己心を捨てて一体となった人民の意志。ルソーが使用しはじめた用語。
***
ルソーのいう一般意志と全体意志。
後者は、たとえば選挙によって(一応)抽出可能だけれど、前者はおそらく事後的にしかわからないし、わかるとも限らない。
そもそも何をもって「わかる」とするのかが、わからない。
わからないから逆説的に「一般意志は、つねに正しく、つねに公の利益を目ざす」とルソーは定義することができたのだ、と私は思う。
***
80年代に消滅したと思っていた過激派組織は、実はほそぼそ生き続け、最近、息を吹き返したかに見える。うすら左翼を巻き込み、何かにつけデモをやっている。私にとって「デモ」って何かを考えるきっかけにはなった。
「デモ」そのものを私はべつに否定しない。
それは一般意志と全体意志の裂け目から生じるノイズのようなものだと思うからだ。
ノイズは政策に一定程度反映される。なぜか?
それは為政者が「次の選挙」を睨むからだろう。
つまりデモの有用性もまた、「選挙」という民主主義のシステムによって担保されているというわけだ。
何も大衆のキヨキココロがもたらす奇蹟ではないのだ。
気をつけなければならないのは、そういう独善的な誤解がテロを生み、ヒロイックな陶酔がこれを正当化すること。
それがかつて(?)共産党の目指した「暴力革命」だ。
「民主主義」というものが最善の政治体制であるとアプリオリに決まっているわけではない。
他により有効な選択肢を私たちは持たないだけだ。
しかしこれを選択する以上、「数」は合理的に抽出されなければならない。
「数」が現実を反映していなければ、一般意志はおろか全体意志も政治に反映させることができない。だからこそ抽出のプロセスが重視されるのだ。
そしてその「プロセス」を通して「民意」が正当化される。
民主主義というのは最後は結局、多数決なのだ。
当たり前のことだ。
「民主主義は数ではない」という言いぐさは、一般意志≠全体意志につけ込んだ詭弁にすぎない。
それが証拠にデモ主催者がデモ隊の数を水増ししまくっているではないか。
それは結局、「数」の客観性に依拠するより他に、己の存在価値を他者に示す方法がないからだ。
【現代の憲法論では、憲法典で明示されている基本的諸権利の保護が、憲法の最重要機能と見なされることが多いが、憲法典の具体的な規定よりも、「法」を制約するメタ法的規則を重視するハイエクは、そうした見方とは一線を画している。そうした見方をしてしまうと、憲法典に明記されていない――が、慣習として確立されている――“権利”が軽視されたり、憲法典に書きさえすれば、普遍的権利になるかのような幻想が生じてくるからである。「憲法」は、その社会にすでに存在する「共通の信念」を部分的に成文化したものにすぎない。】
(仲正昌樹『精神論ぬきの保守主義』第六章 ハイエク―自生的秩序の思想)
***
メタ・ルールとしての「法の支配」。
『憲法は、立法過程を「共通の信念」と適合させるための媒体であって、それ自体に絶対的価値があるわけではない。』
これがハイエクの考え方。私もこの考えに近い。
仲山氏はべつの著書『ポスト・モダンの左旋回』の中でこういっている。
【「運動」というのは、自らの「理想」とする社会のイメージと、「現実」の社会の間に差異を感じる諸個人の「連帯」としてその都度、立ち上がってくるはずのものであって、そこから特定の「集合主体」に特化した、“われわれの運動”なるものが出てくるというのは(非弁証法的な)“矛盾”である。】
ある業界に属する者たちが判で押したように同一の政治的傾向を示すのは、〈類は友を呼ぶ〉というより〈朱に交われば赤くなる〉から、と考える方が自然だ。
要するに付和雷同。普段からろくすっぽ自分の頭で考えることをしてない(自称)芸術家たちが、あらかじめ用意されたこんなプラカードを揃って掲げておきながら、平気で「個性」とか抜かすんだから臍で茶を沸かす。
なるほど「日本国憲法」を小中学生並みのソボクな読解力で読めば、自衛隊は「違憲」ということになるのだろう。
しかし、メタ法的規則を重視する立場で憲法を考えるならば、自衛隊は当然合憲。むしろ、これを排除する憲法典の記述こそが憲法違反 ということになる。
http://www.nikkei.com/article/DGXLASFS30H25_Q5A830C1MM8000/
国会前に何万人という「数」を根拠に〈国民の意思〉をいうノイジーマイノリティは、より大きなこっちの「数」=サイレントマジョリティのことも少しは頭に入れておけ。
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