造反有理
http://www.sankei.com/column/news/150919/clm1509190004-n1.html
故木田元氏によれば、いわゆる「哲学」はニーチェ以前と以降に分けて考えられるべきだという。
「以前」では、形而上学的原理に基づく思考様式こそが「哲学」とされたけれど、ニーチェが目指したのは、これを批判的に乗り越えることだった、と。
『彼の主張を一言にまとめれば、「プラトニズムの逆転」ということになります。』(『反哲学入門』第五章「反哲学」の誕生)
今国会を見ていて私が「うーん」と唸ってしまったのは、いわゆる「造反有理」が、かくもしぶとく生き残っていたのか、ということ。
「理」というのは「道理」の「理」、「理想」の「理」。揺るぎなき絶対的な「理」が、現実を超越したどこかに、ある。
これって、プラトンのイデア論ではないか。
私と同世代の人は、意識する/しないにかかわらず、青春時代にポストモダンの洗礼を受けた、と私は思っている。つまり、あらゆる「理」は相対化されるべき、という思考のクセがついている。それが証拠に、後にこの思考のクセは「行きすぎた相対主義」と批判されたものだ。「価値観は人それぞれ、ひとつになんか決められないよねー」と、バカでも言える懐疑主義とセットになった思考停止を招いてしまったというわけだ。
「造反有理」の復刻は、それへの反動と考えるべきなのだろうか?
かつてともに「青春」を送った私と同世代の人たちが、自分の息子/娘世代と一緒になって平気でこれをいっている。
私は、くらくらしてしまった。長年一緒に暮らしてきた妻に「実はあたし男なの」と告白されるような衝撃だ。
あんたら俺と一緒にあの時代をくぐり抜けてきたはずじゃなかったのか、と。
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