猿芝居
http://bylines.news.yahoo.co.jp/kataokahidehiko/20150716-00047569/
『「きょう採決されることは、すでにみんな分かっていたのに、何で急に一斉に駆け寄るのだ??」
「国民を代表する大人なのだから、泣くことはないんじゃないか?」
「テレビカメラに背を向けて講義する議員は少ないのはなぜだ?」 』
猿が猿芝居をするのは当たり前なので、そこはもう問題にしない。
問題は「観客」の側に移る。
こうした猿芝居を正当化する論拠を「正義」に求める危うさ。
まず「正義」って何かね?
それはひとつの「価値判断」であり、自然科学的な「事実」と異なり、必ず「主観」の下にある。(厳密なことをいえば、自然科学的な「事実」だって主観的なものにすぎないという議論はあるが、話がややこしくなるのでひとまず措く。)
他者との「主観」の共有はありえるか?
フッサールは「間(共同)主観性」ということをいった。
〈純粋意識の内在的領域に還元する自我論的な現象学的還元に対して,他の主観,他人の自我の成立を明らかにするものが間主観的還元であるが,それは自我の所属圏における他者の身体の現出を介して自我が転移・移入されることによって行われる。 〉
で、「自我の所属圏における他者の身体の現出を介して自我が転移・移入」って具体的にどうやるのかね?「思いやり」みたいなもの? それを我々は客観的にどう検証するのか?
カラタニが「デモ>選挙」をいって笑いものになっている。だがちょっと矮小化されすぎてる気もするから擁護しておけば、為政者はデモのノイズに影響されるし、されていいのだ。そういう「隙間」込みでの投票結果。ここらへんは東浩紀が『一般意志2.0 』の中で「ニコニコ動画」などと絡めその可能性を考察し(夢見)ている。
その意味では、「数が絶対じゃない」というのは、その通りなのだ。そもそも「絶対」なんてものはどにもありはしない。だからこそ、我々は投票のプロセスに権力の正当性を求めるのだ。
「権力」は正当性を持っていなけりゃならない。それではじめてノイズが働きかけるに足る。いいかえれば、正当性を持った権力だけがノイズに耳を傾ける資格を持つ。
善良な市民/悪い王様、ってデキの悪い少年漫画のワカリヤスイ構図じゃないんだよ。しかしこのワカリヤスイ構図を自己保身に活用したがる者がいる。その例が昨日の国会での「猿芝居」であり、私がそれを「俗情の結託」(大西巨人)と蔑む所以だ。
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