「読書感想文」原理主義
http://www.yomiuri.co.jp/kodomo/jyuken/japanese/20150624-OYT8T50012.html?page_no=1
いわゆる「ら抜き」言葉を使うときには、いちいち自覚があります。
基本的に書き言葉では「ら抜き」しませんけれども、戯曲の台詞なんかではあえて積極的に「ら抜き」を使うことがあります。作者の美意識と、登場人物のキャラとの間にしばしば齟齬が生じるからです。
ところで、ここでされている「着る/切る」の説明。
私たちはいちいち文法を参照するまでもなく、これを感覚的にすんなり理解します。母語に対するこの「感覚」って、幼少期に決まってしまう気がするんです。
で、以下は私の個人的経験に基づく推論。
小学校を卒業するくらいまで、概して男子より女子の方が学校の成績がいい。俗に「読み書きそろばん」というけれど、男子より女子の方がよく読み、よく書いている。
この「読む/書く」によって言語感覚が涵養されるので、一般に「国語」は女子>男子なんではないか。
少なくとも私の知る限り、びっくりするようなヘンな文章を書く大人は決まって男です。「ヘン」を指摘されても理解できない。そもそも「感覚」が備わってないわけです。語彙は後から追加できるし、今の時代、データベースでも補えるけど「感覚」は、どうしようもない。もう取り返しがつかない。
なので私はほとんど「読書感想文」原理主義者なんです。
感想文を書く際に「自分の言葉」ということが素朴に言われがちですけれども、それを獲得するにはまず、そんなものはどこにもありはしないんだという事実を受容すること、その逆説を理解する必要があるんだと思います。
言葉は常にすでに自分の外側にある。それを理解するには、ガキのうちに読んで、書く、これしかないんだ、と。
言葉が意思伝達のツールであるなら、その発信元と受信先がともに自分である場合を「思考」と呼ぶんだと思います。言葉が陳腐なら必然的に思考も陳腐になるんです。
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