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2015年7月

2015年7月26日 (日)

世界平和

ひとりひとりが「平和」を望めば、その善意の総体として「世界平和」が実現するのか?
だとしたらそれは、あるべきひとつの価値観が、たとえば異なるA,B,Cそれぞれに共有されていることが前提で、じゃあその「あるべきひとつの価値観」を誰が決定するのかって話になる。
決定権を巡って「争い」が起きるだろう。
そう考えれば、我々が「平和」と呼んでいるものはせいぜいA,B,C間の〈関係性〉の状態をいっているに過ぎないし、いうべきじゃないと気づくはず。
仮にAが立ち位置を変えたなら、BもCもまた動かなければ、従前の〈関係性〉は保てない。

悪しき相対主義

「因果関係」とは何かというようなことを突き詰めて考えるならば、たとえばヒュームの懐疑論のように、相当厄介な哲学的問題に足を踏み入れることにもなるのだけれど、しかしその手前で「わからなさ」を切り札にして、蓋然性の多寡を無視することを科学的態度とは呼ばないでしょう。
  
ところで今日、太陽が東から昇りました。明日、西から昇ることが100%ありえない、ということを私は自分の力で証明できません。それでも、やはり太陽は東から昇る。明日も明後日も、100年後も。私はそう思ってますよ。べつに、お上に言われたのでもないし、何かトクがあるわけでもない。蓋然性を自分の頭で判断し、生きてるだけです。
西から昇ることに怯えながら生きることが私の身を守ることになるんですか?

「頭がいい」合戦

たんなる快/不快の表明を善/悪に変換したがる人はよくいるが、『俺はおまえより頭がいい!』という人ははじめてだった。
どうやら旧帝大の学者様であるらしい。
と、こういう憎まれ口が気に食わぬようだ。
本当に頭のいい人はそういう言葉づかいをしないのだとか。
はいはい。だいたいいつ私が自分のことを「頭がいい」と規定したんでしょーか。「頭がいい」合戦に興味ないんですけど。不快ならフォローを外せばいい、べつにこちらが頼んだわけでもない。こんな簡単なことすぐに気づきそうなもんだけど、そこまでは頭がよくないようなのでブロックして差し上げる。

2015年7月25日 (土)

ラジオ体操

早朝。まだ涼しい空気は「ラジオ体操」のにおいがした!
ま、コンビニにコーヒーと煙草を買いに行ったんですが。

1

ハシゴ

原初的な道徳を謳う児童文学は児童の情操教育に必要で、しかしそれは「のぼり終えたら外す梯」みたいなもんなわけ。自分の手で外さなければいけないの。それが大人になるってことなの。それをしないから、いい年こいて真顔で「権力には屈しない」とか言っちゃうんだよ。「権力」の源泉が何であるのかも一顧だにせず。

2015年7月23日 (木)

権力

フーコーのいう「権力」(を正確に理解している自信がないが)に基づき私はこう考える。
民主主義において一般に「権力者」と呼ばれる為政者は「私の権力」の執行官に過ぎない。
どういうことか?
国民主権下で「権力」の源泉は当然「私」にあり、公権力は「私」が「私の代理人」を介して「私」に働きかけるいわば自己言及的な「力学」である。言い換えれば、複数の「私」(=大衆)から発せられる「権力」を代理人に束ねる〈手続き〉こそが民主主義というものだ。
つまり民主主義の正当性は〈手続き〉にしかない。

2015年7月21日 (火)

いいひと

善人であるところの自分がその善良な心に基づいてした価値判断はすなわち必ず善であるってロジックなんだな。ほんと「いいひと」ってタチが悪い。

中立

「中立」というのは自分の属する集団の右端左端をまず特定し、両者を足して二で割る「計算」によってはじき出された立脚点で、これを自ら受容するには前提として己がカラッポ(=異なる解をあらかじめ持ってない)である必要がある。
カラッポもそれはそれで処世術の天才ということになるけれど、凡才は多少なりとも自我みたいなもんを持ってしまっているから、それに基づく「私の」立ち位置が「計算結果(=中立)」と重なることなど、まず、ない。
ないものをあるような顔をしてみせるのだから、そこに欺瞞が生じるわけだ。

2015年7月19日 (日)

児童ブンガク

http://www.j-cast.com/2015/07/17240574.html

端的にいえば「独善」なんだが、ではどうしてこういう独善的な思考に陥いってしまうのか?
そもそも「善」て何? っていう自問自答が足りないんだと思う。
その源泉が何で、どういう回路を経て社会的に正当性が付与されるか。そういうことを論理的に考える思考パターンが欠如している。
 
この「欠如」を正当化するのが、児童ブンガク的価値観なんだろう。
「児童ブンガク」というのは私が勝手にいっている便宜的な比喩で、不適切だったら関係者の皆さんゴメンナサイだが、つまり「(弱い)善の私/(強い)悪の敵」の単純化された対立構造で物語が展開されがちということだ。
ほんらいならば「私」の「善」も、その成分=構造が明らかにされる必要がある。しかし児童ブンガクはその一切を不問に付す。ただ、己のキヨキココロ=心情倫理ばかりを重んじ、そこにアプリオリな「善」を設定する。
   
政治家というのは大衆の心情倫理を利用する。そのいい例が先日国会でやられた「プラカード」だ。
与党議員と同じ重みの一票を投じる「構造的」な立場にいながら情緒的に「弱者」を気取る自己演出に多くの国民はドンビキしたはずだが、ある種の人はあれに共感してしまう。
そこが彼ら議員の狙い=俗情との結託だ。
民主主義を言うのなら、ここにこそよく気をつけなきゃならないはずだけれど、日頃「権力の監視」を謳う左派系の新聞は、こぞってあれを好意的に評価した。
私はそういう党派性に欺瞞と危うさを感じる。
 
児童ブンガクは、がんらい「上ったら外すハシゴ」なのだと思っている。
大人になるのに必要だけど、大人になったら(自分の手で)処分しなけりゃならない。
しかし『「日本国憲法知ってますか?法案に賛成すると言うことは、憲法違反をおかしてるってことになるんですよ?」「大義がない海外の戦争に日本の自衛隊を送り出すことを支持なさっているのですか?」「反対以外の情報が欲しいということは賛成したいという意味なんですよ」』などとリプライ飛ばす彼らは「ハシゴ」を決して外そうとしない。外すものだという認識すらないようだ。
だから「善」を価値観の構造として捉える「冷めた」目を持たない。それを世間は独善と呼ぶ。
チャーチルが言ったとされる「20歳までに左翼に傾倒しない者は情熱が足りない。20歳を過ぎて左翼に傾倒している者は知能が足りない。」という警句も似たような意味なんだろうと思う。
ま、だからって、右に振れればいいってもんじゃないけどな。

2015年7月18日 (土)

論点

http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/161876

まず大前提として誰も戦争なんかしたくない。
戦争を回避するためにどうするか、という文脈上での集団的自衛権行使容認という話なわけだ。
当然、中国の覇権主義を念頭においている。それは「現実」に起こっていること。知らぬわけはないだろう。
 
むろん、集団的自衛権行使容認が戦争回避につながらない、むしろリスクが高まる、という議論はありうるし、実際あるわけだ。ならばその蓋然性を論じ尽くせばいい。
そこが「論点」だ。いい加減そのくらいのことは理解しろ。
 
論点に基づき自分の頭で考えて自分の口から出た「私」の言葉を他者の言葉と並べてみろ。それが自己相対化というものだ。
それを怠り、ただ自分の立場を情緒的に正当化するために、誰かが用意した「戦争法案」などというレッテル貼りをし「平和を愛する私/戦争をしたがっている政権」というありもしない善悪二元論の構図に持ち込む。他者を不当に貶めて「平和を愛する私」を独占しようとするのだ。この卑怯な選民思想。
 
こういう思考回路の持ち主がいう「平和」や「正義」を私は信用しない。

2015年7月17日 (金)

猿芝居

http://bylines.news.yahoo.co.jp/kataokahidehiko/20150716-00047569/

『「きょう採決されることは、すでにみんな分かっていたのに、何で急に一斉に駆け寄るのだ??」
「国民を代表する大人なのだから、泣くことはないんじゃないか?」
「テレビカメラに背を向けて講義する議員は少ないのはなぜだ?」  』

猿が猿芝居をするのは当たり前なので、そこはもう問題にしない。
問題は「観客」の側に移る。
こうした猿芝居を正当化する論拠を「正義」に求める危うさ。
 
まず「正義」って何かね?
それはひとつの「価値判断」であり、自然科学的な「事実」と異なり、必ず「主観」の下にある。(厳密なことをいえば、自然科学的な「事実」だって主観的なものにすぎないという議論はあるが、話がややこしくなるのでひとまず措く。)
 
他者との「主観」の共有はありえるか?
フッサールは「間(共同)主観性」ということをいった。
〈純粋意識の内在的領域に還元する自我論的な現象学的還元に対して,他の主観,他人の自我の成立を明らかにするものが間主観的還元であるが,それは自我の所属圏における他者の身体の現出を介して自我が転移・移入されることによって行われる。 〉
で、「自我の所属圏における他者の身体の現出を介して自我が転移・移入」って具体的にどうやるのかね?「思いやり」みたいなもの? それを我々は客観的にどう検証するのか?
 
カラタニが「デモ>選挙」をいって笑いものになっている。だがちょっと矮小化されすぎてる気もするから擁護しておけば、為政者はデモのノイズに影響されるし、されていいのだ。そういう「隙間」込みでの投票結果。ここらへんは東浩紀が『一般意志2.0 』の中で「ニコニコ動画」などと絡めその可能性を考察し(夢見)ている。
  
その意味では、「数が絶対じゃない」というのは、その通りなのだ。そもそも「絶対」なんてものはどにもありはしない。だからこそ、我々は投票のプロセスに権力の正当性を求めるのだ。
 
「権力」は正当性を持っていなけりゃならない。それではじめてノイズが働きかけるに足る。いいかえれば、正当性を持った権力だけがノイズに耳を傾ける資格を持つ。
善良な市民/悪い王様、ってデキの悪い少年漫画のワカリヤスイ構図じゃないんだよ。しかしこのワカリヤスイ構図を自己保身に活用したがる者がいる。その例が昨日の国会での「猿芝居」であり、私がそれを「俗情の結託」(大西巨人)と蔑む所以だ。

2015年7月16日 (木)

プラカード

そもそもプラカードなんか議場に持ち込むのは禁止でしょう。
なぜ「禁止」なのか? 
そこが「言論の府」であるからですよ。その「言論」にしか権力の正当性はないからです。禁止の背後にそういう文脈があるんです。
なのに野党はプラカードを持ち込み、「資料」だと勝手な「解釈」をした。文脈を無視し、その独善を正当化するための三文芝居=俗情との結託です。
このことはよく記憶されるべきです。

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アイドルソング

TSUTAYAで借りる知恵をつけた。
2013年度盤は中古を購入。2010年度とこの2014年度を借りたので、あと2011年度、2012年度を買うか借りるかすればコンプリート。どれもクオリティ高いです。
  
アイドルソングの良さは、楽曲にパフォーマーのアイデンティティを求められないこと。商業的であることを逆手にとって、先行するさまざまなジャンルのいいとこ取りを堂々とやる。コンセプトはあるが作家性と呼べるようなものはない。そしてそこにパフォーマーの少女期にしか持ち得ない声と身体性をパッケージしてくるわけだ。
   

で、作品からメタレベルにはみ出す「物語」こそが実は「作品」で、アイドルというもんの本質なのだなあ、と思う。たとえばBABYMETALのゆい・もあなんて、当初はまるっきり子供で、やたらに踊れる「両側のちび」とか呼ばれてたけど、今じゃ「すっかり大きくなって」と古参のファンは親戚のおじさんみたいに目を細めてしまうし「ああ、この子らもいつか嫁に行くのだなあ」などと一抹の寂しさを感じるに至っては、もはやコンサバティブな父親の心境。

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三文芝居

ハムレットは「生きるべきか死ぬべきか」と悩んだが、私が秋にやる芝居では、男子学生が自主映画のロケに行くのに、高速道路を使うか否かで逡巡する。そういうシーンがある。
 
「高速」を使えば昼前に着ける。けど、余計に金がかかる。レンタカー代も思ったよりかかっちゃったし、やっぱ「下道」にしとこうか。いや待てよ、今日は日曜だから渋滞するか…?
で、友人に「どう思う?」と意見を求めるのだが、友人がなんと答えたかはネタバレになるのでここに書かない。ぜひチケット(3800円)を買って劇場で確かめて欲しい(ステルスマーケティング)のだけど、今、仮に「高速」案を否定したとしようか。
当然「なぜ?」と学生は聞くだろう。その「理由」が、自分の考えを弁証法的に相対化し、より合理的な選択を可能にする。そう期待したのだ。...

で、友人が『コーソクは許さない!』というプラカードを掲げたらどうだ?
意味がわからない。会話(対話)劇として成立しない。
 
言論の府において野党がやった三文芝居は、そういうことだ。

逆鱗

「私の逆鱗」と書いて、手を止めた。

『逆鱗に触れる
【読み】  げきりんにふれる 
【意味】  逆鱗に触れるとは、目上の人を激怒させることのたとえ。  ...

自分が怒ったときに使うのは誤り。
誤用例 「今まで我慢してきたが、さすがの私も今回は逆鱗に触れた」 』

そうなのだ。私に「逆鱗」は、ないのだ。じゃあ、なんて書けばいいのだろう?「地雷」とか?

スカート

私が中学生の頃は、女子学生のスカートが長かった。
スケバンは地面に引き摺るくらい。
なので校則に「スカート丈は膝下10センチまで」とか記されていた。「下限」が決められていたわけだ。
これ、今、通用しないでしょ?
パンツの見えそうな超ミニでもいいってことになるから、むしろ「上限」を決めてやらなきゃならない。なので「膝上10センチまで」に改めましょう、とかってなるわけだけど、すると以前の「膝下10センチまで」の価値観は変わってしまうのか?...

変わらない。
なぜなら一貫して学校側の「品行方正な服装をしなさい」という要請が生きているから。「膝下10センチまで」は、漠然とした「品行方正な服装」というものを当時の価値観で便宜的に定量化したものに過ぎないんだよ。

2015年7月14日 (火)

原初的な道徳を謳う児童文学は児童の情操教育に必要で、しかしそれは「のぼり終えたら外す梯」みたいなもんなわけ。自分の手で外さなければいけないの。それが大人になるってことなの。それをしないから、いい年こいて真顔で「権力には屈しない」とか言っちゃうんだよ。「権力」の源泉が何であるのかも一顧だにせず。

2015年7月10日 (金)

関係

ひとりひとりが「平和」を望めば、その善意の総体として「世界平和」が実現する、のか?
一口に同じ「平和」といっても、たとえば異なるA,B,C三者にそれぞれのシニフィエがある。
我々が漠然と「平和」と呼んでいるものは、全世界に共通の普遍的な何かじゃなくて、せいぜいA,B,C間のかりそめの〈関係〉をいっている過ぎない。
仮にAが立ち位置を変えたなら、BもCもまた動かなければ、従前の〈関係〉は保てない。

2015年7月 9日 (木)

2520億円

http://www.asahi.com/articles/ASH775KKZH77UTIL029.html

その「巨額」な2520億円て、原発停止による火力燃料費約1ヶ月分だそうですよ。1年間に約3兆円。そんな巨額な「無駄」をすでに何年も続け、そしてこれからも続けていくべきだと主張する連中は、その費用が新国立競技場の工費よりは有効であるという合理的根拠をさっさと示してくださいよ。
 
示せやしないだろう。それが山本七平いうところの「臨在感的把握の絶対化」ってやつですよ。平たくいえば通俗的な思い込み。印象。岩は水より重いってやつ。

しかし実際にその水が岩をも押し流し、多くの人の命を一度に奪ったんです。さすがに覚えているでしょう? 
岩が水より重い、というとき、そこには量の概念が欠けている。ものごとを比較するときには定量的な評価が必要なんです。 
  
こんなことは震災後、いろんな人から何度も何度も何度も何度も何度も何度も指摘されてきたはずで、なのにいつまで経っても理解できない。思考の枠組みを改められない。
なぜか? 
自己相対化の能力が欠如しているからだよ。自分の思考の枠組みをメタ視点で眺め、検証することができない。
そういうのを端的にバカというんです。バカだからものごとを検証不能な領域に引きずり込み、独りよがりな価値判断で勝利宣言して溜飲を下げるんです。ちらちら「みんな」の顔色をうかがいながら。
こういうのはもういい加減邪魔なだけなんで、議論の場から退場しろというんですよ。

会議

たとえばドブの臭いがひどいので何とかしましょうという町内会の会議で、まずは悪臭の原因を徹底して究明するのがいいのか、それよりさっさとドブさらいしてしまうのか、ドブさらいするとして、当番を決めてやるのか、あるいは専門業者に頼むのか、頼むとして負担の割合をどうするか、世帯あたりか一人あたりか、などと話を煮詰めているときに、ドブの臭いがどれだけひどくて迷惑してるか、改善の必要をいかに自分は強く感じているかというようなことを繰り返し情緒的に力説することで「意見」を述べた気になっているバカは、金輪際会議に出なくていい。邪魔なだけだ。

2015年7月 7日 (火)

伝統

『佐藤首相は(日米安全保障)条約の継続を協議するためアメリカへ向かいます。
訪米を阻止しようとする若者たち2千人以上が逮捕されました。
昭和45年6月、安保条約は自動延長されました。
その夜、三島は国会議事堂の前をドナルド・キーンさんと通りました。
 ...

ドナルド・キーン「その日、自動車かタクシーで、その前を通りましたら、お巡りさんがたくさん並んでいましたが、学生は一人もいなかった。誰もいない。彼(三島)は笑った。どんな笑いか、わからない。自分の失望を隠す笑いかも知れない。あるいは彼はニヒリストとして、これもゼロだ、学生たちの情熱も夢だと。」』
 
***
 
三島はいった。
『このまま行ったら、「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代りに、無機的な、空っぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目のない、或る経済的大国が極東の一角に残るであろう』
そして翌年、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地の「事件」が起こる。
 
「死ぬのはいつも他人ばかり」とマルセル・デュシャンはいった。
寺山修司はこれをしばしば引用し、自作映画では登場人物にこう言わせている。
「自分の死を量ってくれるのは、いつだって他人ですよ。それどころか、自分の死を知覚するのだって他人なんです」
 
しかしはたしてそうか? と私は思う。
 
動画の中で横尾忠則が三島の自死についてこう語る。
「(三島は)〈これは全部お芝居なんだよ、演劇なんだよ、市ヶ谷のバルコニーも最大の見せ場だ、あれが俺の演劇のハイライトだよ〉といわんばかりに、どっかにあったんじゃないか」
それは間違いなくそうだろう。そういう認識の下に「物語/類型」を三島本人が生きて(演じて)いる。三島は「物語/類型」の中で自分の死を知覚していた。というか、むしろ死から逆算して、そこに至る「物語/類型」を編んだわけだ。
 
そしてそれは三島に限らず誰だってそうなんだと思う。物理的にモノと化す瞬間まで、少なくとも意識のある限り、私たちは自分の「物語/類型」を生き(演じ)続けているんだろう。死に接近して価値観が一変した、という話を聞くことがあるけれど、それはべつに死の陰に隠されていた「真実」を手にしたわけでも何でもなく、それを期に「価値観が一変した」というまたべつの「物語/類型」を演じ始めたってだけの話だ。
 
それが証拠に私たちはたいてい、いまわの際には三途の川に呼び寄せられる。少なくとも日本に生まれ、暮らして、ありやなしやの一般的な宗教観を持っていれば。
しかし三途の川なんてもんは、もちろん実在しない。そんな「真実」はどこにも、ない。ただそういう「物語/類型」の『伝統』があるだけだ。
三島はこの『伝統』を生きる(演じる)「物語/類型」を「大義」と呼んだわけだ。

https://youtu.be/-u7TxapTwH4

2015年7月 6日 (月)

単細胞

単細胞の偽善者が「弱者」の鎧を身に纏う。

婉曲表現

バカは比喩を理解しないって誰かが言ってたけど、比喩に限らず婉曲表現一般が通じない傾向にあるよね。バカだからそうなのか、そうだからバカなのか。いずれにせよこういうのはよほど注意しなけりゃいけない。下手に「謙遜」すれば真に受けてつけ上がる。

いつからか私にとってカブトムシが特別な価値を持つ昆虫でなく、単なる「虫」になってしまった。

少年

https://youtu.be/TZeO1gDOTjw

向かって右のモトリークルーのTシャツが大村孝佳。今やBABYMETALの神バンドのギタリスト。左がジェットフィンガーこと横関敦。どっちもメタルの世界じゃ超有名人。
雑誌『Young Guitar』かなんかの付録DVDだと思う。大村のデビュー直後くらいかなあ?「天才少年現る」的な鳴り物入りのデビューで、私もCD買いましたけど、こうして比較してみるとやっぱ、横関>大村だよね。私のような素人が聞いても音の粒立ちが全然違うもん。大村の演奏終わりで横関が「ふん」て鼻で笑ったように見えるんだけど、勘ぐりすぎ?
  ...

それにしてもギター小僧はこういう「技術合戦」が昔から大好き。「勝ち抜きエレキ合戦」とか。ライムスター宇多丸が『アンヴィル! 夢を諦めきれない男たち』の映画評で、メタラーを「愛すべきボンクラ」と好意的に呼んでいたけど、私の言葉でいえばそれが「少年」。

単細胞

右だろうが左だろうが単細胞はお断り。ついでに足して二で割るのも。

抑止力

近所の公園で幼稚園児を遊ばせてることがあるんだけど、こないだ見たら、引率者の中に男の先生がいたのね。これ、いいなって思うわけ。やっぱ女だと犯罪者にナメられるってのは、あるわけさ。フェミニズムの観点からけしからんとか言っても通用しない。
もっとも彼が実際にどんだけ「強い」のかわからないし、彼より強い女の先生だっているのかもしれないけど、「男」というだけで「腕力」のアイコンになるんだよね。これ、大事。べつに犯罪者と戦うのが目的じゃないから。つまり抑止力だよ。

徒党

https://youtu.be/clkjp6WjKTg

「自分でペンを操ることが信じられなくなるからペンクラブが欲しくなるんです。ペンクラブは自分流に信ずることはできないんです。クラブ流に信ずるんです? んなこたないですよ。クラブ流に信ずるからイデオロギーってものがあるんじゃないか。そうだろ? 自分流に信じないからイデオロギーってものが幅をきかせるんです。だからイデオロギーは匿名ですよ常に。責任を取りませんよ。そこに恐ろしい力が今、あるじゃないか。それが大衆・集団の力ですよ。責任を持たない力ってのはこれはまあ恐ろしいですね。僕は責任取れば死ねばいいんですよ。僕は。それでお終いです。僕の責任だって。だけど集団てのは責任取りませんからね。どこへでも押しかけますよ。自分が正しいといって。」

戦艦大和

戦艦大和が支援物資を積載して沖縄に向かったのはなぜなのか。「見捨て」ていたならそんなことする必要もないわけです。
フツーに考えればわかりそうなものですが『沖縄タイムス』(2007年3月20日)はこう書きます。
 
「あっ、よかった。戦艦大和が、沖縄のはるか北方の海に沈められてよかった。(略)沖縄人が、戦艦大和によりさらに多数を殺され、島の集落のことごとくが破壊されたであろうことを思えば、それはまさに明治以来の差別の行きつくところであった。」
 
これだから『沖縄タイムス』はもはや「新聞」と呼べないと私はいうんです。
そしてこの体質は昨今の「辺野古」報道にも通じます。まるで過激派のアジビラですよ。
ところがこういう左翼の言説に同調して「平和」を口にしたがる者がいる。脳みその疲れることはしたがらない。ソボクな口調で「平和を祈る」とかいってれば、思考停止の免罪符になると思っている。
こういう口先だけの偽善者こそが「平和」の敵なんです。

2015年7月 1日 (水)

国立大学文系

http://mainichi.jp/shimen/news/20150619dde012100005000c.html

『効率だけでつくった“贈り物”は、未来を豊かにするのだろうか。』という陳腐な締めくくり。
この記事を書いた宇田川恵なる記者が「文系」なのかどうかしらないが、そうだとしたら実に示唆的だ。論点をマジメに掘り下げる気などさらさらなく「高校生作文コンクール」的目配せによって俗情との結託を図る。
 

たとえば会社がリストラで経理部の人員を削減し、営業部に配置転換するなどよくある話。これって「経理部はいらない」ってことになるか? むしろロクに仕訳もできないような社員なら「経理部にいらない」ってことだ。むろんそうした属性が評価のすべてじゃない。仮に交渉術に長けているなら、それを商談に活かした方がいい。そういうことだ。
 
「てにをは」も覚束ない人間に〈あなたも人気作家になれる〉とかなんとかいって高額な自費出版を勧める詐欺まがいの商売。
大学もこれと似たような状況になっているのではないか?
「自費出版」なら個人の勝手だが、大学教育には税金が使われる。だったらもっと本人が能力を発揮する蓋然性の高い分野に「配置転換」しましょうってことではないのか?

「読書感想文」原理主義

http://www.yomiuri.co.jp/kodomo/jyuken/japanese/20150624-OYT8T50012.html?page_no=1

いわゆる「ら抜き」言葉を使うときには、いちいち自覚があります。
基本的に書き言葉では「ら抜き」しませんけれども、戯曲の台詞なんかではあえて積極的に「ら抜き」を使うことがあります。作者の美意識と、登場人物のキャラとの間にしばしば齟齬が生じるからです。
 
ところで、ここでされている「着る/切る」の説明。
私たちはいちいち文法を参照するまでもなく、これを感覚的にすんなり理解します。母語に対するこの「感覚」って、幼少期に決まってしまう気がするんです。
で、以下は私の個人的経験に基づく推論。
 
小学校を卒業するくらいまで、概して男子より女子の方が学校の成績がいい。俗に「読み書きそろばん」というけれど、男子より女子の方がよく読み、よく書いている。
この「読む/書く」によって言語感覚が涵養されるので、一般に「国語」は女子>男子なんではないか。
少なくとも私の知る限り、びっくりするようなヘンな文章を書く大人は決まって男です。「ヘン」を指摘されても理解できない。そもそも「感覚」が備わってないわけです。語彙は後から追加できるし、今の時代、データベースでも補えるけど「感覚」は、どうしようもない。もう取り返しがつかない。
 
なので私はほとんど「読書感想文」原理主義者なんです。
感想文を書く際に「自分の言葉」ということが素朴に言われがちですけれども、それを獲得するにはまず、そんなものはどこにもありはしないんだという事実を受容すること、その逆説を理解する必要があるんだと思います。
言葉は常にすでに自分の外側にある。それを理解するには、ガキのうちに読んで、書く、これしかないんだ、と。
言葉が意思伝達のツールであるなら、その発信元と受信先がともに自分である場合を「思考」と呼ぶんだと思います。言葉が陳腐なら必然的に思考も陳腐になるんです。

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