関係性の演劇
「関係性の演劇」という言い方がある。
ここでいう「関係性」とは、単に登場人物の属性の話ではなく、もっと劇自体の〈実存主義から構造主義へ〉みたいなこと。
つまり従前の演劇のように確固たる内面を持った〈個人〉がまずあって、それがべつの〈個人〉との間に〈関係性〉を持つというのではなく、逆に〈関係性〉が〈個人〉を規定するんだ、という考え方。
先日逝去された演劇評論家の扇田昭彦氏が90年代にいった「静かな演劇」とほぼ同義と思っていい。
現代思想的にはべつに新しくもなんともないが、こうした視点が強調されて戯曲が書かれるようになったのは、90年代になってからなのだ。
たとえば太田省吾氏がこれに批判的であったように、いわゆる「静かな演劇」の多くは自然主義的で、しばしば「日常を切り取ったような」と形容された。一見、「現実」をそのまま「舞台」に持ち込めばいいように思える。何ら訓練を受けていない素人にも簡単にできそうだ。
だから「静かな演劇」ブーム時の小劇場では、単なる日常風景のスケッチみたいな駄作が多く生まれ、それが「癒やし」などと正当化されたのだ。
しかしそれも含めて演劇史的に大きな転回点であったのは間違いない。そしてこれが一過性の「実験」で終わることなく、必ずしも「静か」でない新たな方法論を召喚して、演劇固有の表現として一般化したのは特筆に値する。
だからこうした手法によってつくられた芝居を「関係性の演劇」とわざわざ呼び直しているわけだ。
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