意識高い系
通俗的なニュースショーなんかでよくある「私たち一人ひとりが考えていかねばなりません」的なマトメのフレーズが示唆するとおり「考える」という行為そのものは一般に褒められこそすれ誰からも批判されることがない。
私もべつにこれを批判するつもりなどない。
だから、批判されずに褒められたい「意識高い」系の人たちは、せっせと蒐集した「知識」を前にして眉をひそめてみせる。そうして異口同音にステレオタイプな「殊勝なこと」を語りたがる。
なぜ「異口同音」か?
ちっとも「考え」てなどいないからだ。
問題は「知識」より、それを盛る思考の枠組みなのだが、それを検証する自己相対化の訓練がまるでできていないし、するつもりもないらしい。むしろ己の思考の怠慢を糊塗するために、あらかじめ用意された戦後教育的フォーマットに従って最大公約数的「落としどころ」に自分で自分の言説を誘導する。
世界の真ん中に一本の線を引いて物事を単純な善悪に分け、自分の身だけは常に善の側に置いておきたい。そうして原初的な「道徳」を強調すれば普遍的な「解」が自ずと導き出される、そう信じている(フリをしている)。そんなふうだから「いかにして争いを避けるか?」という問いに対して「みんな仲良く」というトートロジーを恥じることもなく口にできるのだ。
戦後70年。今年の夏はこうした欺瞞に満ちた「平和を願う」言葉をイヤというほど聞かされることになるのだろう。
彼らに特徴的な勘違いは、罵り合いを避けることが「平和」だと思ってることだ。しかしそうじゃないだろう。むしろ罵り合える環境が確保・維持されていることこそが「平和」ってもんではないか。
罵り合って生きていくのさ、それが人生!
私はそう考える。
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