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2015年6月

2015年6月27日 (土)

『ポストモダンの正義論』仲正昌樹

ロールズが『正義論』の中でいう「無知のヴェール」。
これは〈自分と他人の間の相対的な有利/不利についての情報を遮断する〉仮想の装置である。
 
ロールズはこう考えた。
「無知のヴェール」がかかった状態で、各人が「正義」について考察するならば、「私」の利益の視点を離れた誰もが納得できる公正さに基づいて「正義」の合意が得られるハズ。我々には自己中心的なリスク回避の傾向があるから、自分が全体の中でどのあたりに位置しているかわからない状態では「最悪」を避けようとする。結果、それが「弱者」への共感と一致するハズ。
 
ゲームの理論の「囚人のジレンマ」にも通じる心性を活用しようというわけだ。そうして「弱者への共感」を「寄り添う」系のヒトゴトから当事者性=ワガコトに回収する。
しかし前述の通り「無知のヴェール」は“仮想の装置”であって、現実には、そんなものはどこにもありはしない。
これがこの思想の限界だ、と私は思う。
それでも、と著者は言う。
 
『“人間としての自然な情”に直接訴えるのではなく、エゴイスティックな人間のリスク回避傾向を利用する戦略を取ることで、マルクス主義的左派やラディカルな新左翼に見られる“共感”の押しつけを回避しようとしている点は重要である。』

私はこれに共感する。

関係性の演劇

「関係性の演劇」という言い方がある。
ここでいう「関係性」とは、単に登場人物の属性の話ではなく、もっと劇自体の〈実存主義から構造主義へ〉みたいなこと。   
つまり従前の演劇のように確固たる内面を持った〈個人〉がまずあって、それがべつの〈個人〉との間に〈関係性〉を持つというのではなく、逆に〈関係性〉が〈個人〉を規定するんだ、という考え方。
先日逝去された演劇評論家の扇田昭彦氏が90年代にいった「静かな演劇」とほぼ同義と思っていい。 

現代思想的にはべつに新しくもなんともないが、こうした視点が強調されて戯曲が書かれるようになったのは、90年代になってからなのだ。
たとえば太田省吾氏がこれに批判的であったように、いわゆる「静かな演劇」の多くは自然主義的で、しばしば「日常を切り取ったような」と形容された。一見、「現実」をそのまま「舞台」に持ち込めばいいように思える。何ら訓練を受けていない素人にも簡単にできそうだ。
だから「静かな演劇」ブーム時の小劇場では、単なる日常風景のスケッチみたいな駄作が多く生まれ、それが「癒やし」などと正当化されたのだ。
 
しかしそれも含めて演劇史的に大きな転回点であったのは間違いない。そしてこれが一過性の「実験」で終わることなく、必ずしも「静か」でない新たな方法論を召喚して、演劇固有の表現として一般化したのは特筆に値する。
だからこうした手法によってつくられた芝居を「関係性の演劇」とわざわざ呼び直しているわけだ。

2015年6月24日 (水)

原則

原則は原則。曲げるのでも消すんでもなく、ときに括弧に入れる必要があるってことです。

意識高い系

通俗的なニュースショーなんかでよくある「私たち一人ひとりが考えていかねばなりません」的なマトメのフレーズが示唆するとおり「考える」という行為そのものは一般に褒められこそすれ誰からも批判されることがない。
私もべつにこれを批判するつもりなどない。 
 
だから、批判されずに褒められたい「意識高い」系の人たちは、せっせと蒐集した「知識」を前にして眉をひそめてみせる。そうして異口同音にステレオタイプな「殊勝なこと」を語りたがる。
なぜ「異口同音」か?

ちっとも「考え」てなどいないからだ。
 
問題は「知識」より、それを盛る思考の枠組みなのだが、それを検証する自己相対化の訓練がまるでできていないし、するつもりもないらしい。むしろ己の思考の怠慢を糊塗するために、あらかじめ用意された戦後教育的フォーマットに従って最大公約数的「落としどころ」に自分で自分の言説を誘導する。
 
世界の真ん中に一本の線を引いて物事を単純な善悪に分け、自分の身だけは常に善の側に置いておきたい。そうして原初的な「道徳」を強調すれば普遍的な「解」が自ずと導き出される、そう信じている(フリをしている)。そんなふうだから「いかにして争いを避けるか?」という問いに対して「みんな仲良く」というトートロジーを恥じることもなく口にできるのだ。
戦後70年。今年の夏はこうした欺瞞に満ちた「平和を願う」言葉をイヤというほど聞かされることになるのだろう。
 
彼らに特徴的な勘違いは、罵り合いを避けることが「平和」だと思ってることだ。しかしそうじゃないだろう。むしろ罵り合える環境が確保・維持されていることこそが「平和」ってもんではないか。
罵り合って生きていくのさ、それが人生! 
私はそう考える。

紙一重

http://buzzmag.jp/archives/4911?utm_source=Facebook&utm_medium=4911s&utm_campaign=fb_4911s

正解しました!
けど、私は本来こういうのが苦手です。IQが低い(謙遜でいうのでなしに客観的事実)ので、直感的に解くことができない。数学的な才能がまるでないんです。
じゃあ、なんで今回正解できたのか?
類似の問題を「知ってた」からですよ。パターンが「引き出し」にあったんです。そういう「力業」で大学入試の二次も数学で突破しました。
 
そんな自分がどうも「嘘くさい」。数学的なヒラメキによって正解したわけじゃないし、なんとなくズルして点数だけ取った気持ち。点数に内実が伴わない。バブルです。
翻って私のような人間は「理系」に幻想を抱いてしまうわけです。自分と違って彼らはズルしてない人たちなんだ、と。そういう理系神話。
神話はオボちゃんの「ありまーす」によって粉々に打ち砕かれましたけれども。
 
ところで若い人にしばしば見られる「無知」を誇る傾向は、経験値の少なさに対する開き直りというのもあるのだろうけど、己の「天才」を信じたい、というのが第一の理由なんじゃないかという気がする。
「解答」できたのはあらかじめ「知ってた」からじゃなく、先天的な自分の能力つまり「才能」によるものなんだ、と思いたい。
しかしたいていの人は、そんな「才能」が自分にはないことにやがて気づき、凡庸さを引き受けて大人になっていく。
例外はホンモノの天才と、いつまで経っても無自覚なバカだけ。
だから「バカと天才は紙一重」なんだと思います。

非戦

「非戦」とかいいながら、沖縄で海保と揉み合ってる自称「市民」の過激派の記事なんかシェアして、過激派にエールを送ってるやつってどういう思考回路なんだろうと思う。

独善性

https://twitter.com/yamamoto7hei/status/227145582874087425?lang=ja

『そして、反原子力教の方は「信」の肥大化によって「知にかかわる問題」まで「信」の問題としているから、その態度は改宗、転向の強制以外にあり得なくなるわけである。』

つまり「宗教」なんだよね。しかも教義がザツなもんだから、原発も原爆も一緒くたにし、安保法制にも言及しちゃったりする。論理が破綻してても気にしない。恣意的に蒐集した情報(しばしば情緒に訴えかけるだけのデマブログのシェア)に基づいて一面的な「正義」を主張し、閉じたコミュニティ内で互いの「善人」ぶりを承認し合う。
「子〈ども〉たちの命を守るにはどうしたらいい?」
「殺したり殺されたりしなければいい」
「そうよ、戦争反対!」
「脱原発!」
「あなたっていい人ね」
「いえいえ、そういうあなたこそ」
「行きましょう。官邸前へ」
「おー!」
もともと自己相対化の能力に欠けた連中が、ますます独善性をこじらせるというわけだ。イデオロギーというよりも、端的にいって頭が悪すぎる。

離人症

自分で書いた戯曲を読み返し、登場人物のいうことに、なるほどそういう考えもあるか、だとか、作者はこういうことを考えてるんじゃなかろうか、などと、ヒトゴトというか離人症的に思うことがしばしばある。

三浦瑠麗『日本に絶望した人のための政治入門』

つらつら読んでます。まだ途中。
先日、著者が本書のプロモーションで吉田照美のラジオに出てたのを聴きました。吉田は帯の〈安倍政治の急所を衝く!〉に食いついてましたね。その単細胞ぶりに、どん引きしました。

著者は書きます。
『1991年に湾岸戦争が勃発します。(略)日本のリベラルの多くは、紛争の展開や現場の具体的な状況とは違う次元で、とにかく反対を繰り返すという対応しかしませんでした。米国の存在感が圧倒的で、その支配に反対することでそれなりに「かっこうがついた」状況はまだ都合がよかった。正義と不正義の線引きがあいまいになるなかで、一国平和主義は殻に閉じこもった自己中心的な主張にしか映らなくなってしまいます。』

そういや「文学者の反戦声明」なんてのもありましたね。もう消えてるかなと思いつつ、ググったらヒットしました。

http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20090703

1991年ていったら私が大学を卒業した年です。バブルの残り香の中にあったあの頃より、今の方が日本を取り巻く国際状況は、より深刻なわけです。理由を書く必要がある? フツーに生きてりゃわかるよね?
ところがわからない人がいるらしい。
ことにゲージツ界隈のお気楽ぶり・甘えんぼさんぶりは、湾岸戦争時と変わらぬどころか、ますますひどい。何が「日本を戦争ができる国にしていいのか」ですか。そもそもあなたのいう「平和」って何ですか? 今、日本は平和なんですか? 北朝鮮による拉致被害者のこととか、どーでもいい? 
少しはモノを考えてくださいよ。ガキじゃねーんだからさ。

性奴隷

http://www.sankei.com/world/news/150620/wor1506200038-n1.html

すでに論拠が崩壊しまくったこの状況で、それでも「性奴隷」であったと「解釈」したい日本人がいまだにいるのが驚きだ。もしもほんとにそう思っているなら、よほどのクルクルパーだし、上げた拳が下ろせないでいるのなら、己の知性に対して不誠実だ。いずれにせよロクなもんじゃない。

法的責任

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150622-00000045-san-pol

韓国のいう「法的責任」の意味がマジでわからない。
これが「誠意を見せろ」なら、見えたか見えないかはヤクザの主観に依存するのだから「見えない」と言い続けられるけれども、「法的責任」などといってしまったら、岸田外相のいうように〈日韓基本条約で「完全かつ最終的に解決済み」〉というのが客観的事実じゃないか。
韓国は因縁の付け方まで間違っている。「間違ってますよ」と教えてやらないと、これもまた謝罪と賠償を求められるのか?

俺の映画

好きな8ミリ映画があって、ストーリーも何もないセンチメンタルな「映像詩」なのだけど、そのセンチメンタリズムがナルシシズムの一歩手前でぎりぎり踏みとどまって、そこに感動してしまう。とはいえ他人と容易に共有できる種類の「感動」ではないから、これは「俺の映画」だと思う。もちろん著作権者的な意味でなしに。

現実

「現実」を生きなければ「夢」みることもできないんですよ。

最悪

学者のする「最悪のタイミングでの最悪の選択」みたいなステレオタイプな批判。 ではなぜ「最悪」と判断するに至ったのか?「最」悪ってくらいなのだから、数ある「悪」の中で最たる「悪」であることをいわなきゃいけない。なのに比較の対象をいわない。あたかもそれが自明であるかのような顔をし、さらに自説の背景に専門知識の存在を仄めかして門外漢を「威圧」する。 結局「最悪」で韻を踏んだ悪口が言いたかっただけなのだ。あほくさ。 こういう学者を私は信用しませんから。「知」に対する態度がヌルすぎなんですよ。

テクスト論

いまどきテクスト論でもないけれど、そうはいっても基本的にそっち寄り。少なくとも作者と作品は切り分けて考えたい。
それは音楽も。
けれど人間、なかなかそう割りきれないのもまた事実。
希有な才能と思い、かつて何度かライブに通ったバンドのボーカリストが放射脳だとわかってから、すっかり興味を失った。やはりテクストはメタの文脈込みでテクスト。金払ってまでバカの歌など聴きたくないんです。

たとえば私が月に住んでいたということが、月に兎がいることの根拠にはならない。当たり前。「月に住んでいた」その経験によって、私がどういう情報を得、それに基づくどういった理屈で「兎がいる」という結論に至ったのか。足跡を見たのか、あるいは兎そのものを目撃したのか、それらを客観的に示すエビデンスはあるのか、否か。そういう思考のプロセスが問題なのだ。

2015年6月 9日 (火)

電力会社の電気はいりません?

http://greenz.jp/2015/05/01/wataden_sato/

『もちろん元は取れません。でも、私たちはお金の問題ではなく、いのちの問題として、この暮らしを選択したのです。』

もちろん好きにすればいいのだが、何か勘違いしてるようなので指摘しておく。その選択は個人的な「趣味」の問題であって、決して「いのち」の問題ではないってこと。

電力会社の供給する電気=悪ならば、それをたんまり使って製造された自動車の使用も拒否したらいい。
『世界の戦争の原因が「資源エネルギーの奪い合い」で起きている』というのはその通りで、その反省から自前のエネルギーを確保すべく、原発がつくられたわけでしょう。ことほどさようにエネルギー政策というのは「いのち」に関わるんですよ。『電力会社に依存せずに「自立」していけば、やがて社会は平和になっていく』なんて呑気な話じゃないし『オフグリッドにしてからオーディオの音が澄んでいてキレイなんですよ!』なんていうバカげた「信仰」に付き合わされる筋合いはないんです。

2015年6月 6日 (土)

「輩出」問題。

http://www.nikkei.com/article/DGXBZO17968750Q0A111C1000000/

『他動詞の使われ方が増えた理由として、同音の熟語である「排出」の存在が大きいと考えられます。』
『ただ、どの辞書を見ても「次々と世に出る」と人材を複数としていることから、「イチローを輩出した日本球界」のような個人(単数)に「輩出」を用いる使い方はしません。これではイチロー選手が何人もいることになってしまいます。他動詞はよいとしても、単数は認められません。』

で、今日、私が読書してて気になったのは〈自動詞/他動詞〉でも〈単数/複数〉でもなく、次のようなケース。

「共産党を擁護する反日青年が輩出する」

辞書には「すぐれた人物が続いて世に出ること」とあり、たとえば上記文章を志位和夫が書いたのなら、なるほど彼にとっては反日=善なのだろうから間違いじゃないのかもしれないけれど、フツーのマトモな日本人にとって「反日青年」て〈すぐれた人物〉じゃない。
とか余計なこと言ってっから、ぜんぜん読書が進まないよー。

「少なくとも」問題

『すくなく‐とも【少なくとも】
[副]
1 少なく見積もっても。内輪に見ても。少なくも。「―一年はかかる」...

2 せめて。ともかく。少なくも。「―一日二時間は勉強しろ」「―これだけは約束する」 』

副詞なんですよ。「少なくとも」でひとかたまり。
これを地の文で「少なくても」なんて書いて平気でいる同業者の言語感覚を私は信用しませんから。

ゼロリスク

ゼロリスクを求めるのなら劇場に人を集めて芝居なんかすべきじゃない。その基準で、どうやって演者と観客の安全を担保できるというのか。答えてみろ。ことは自然災害に限らない。モスクワ劇場占拠事件のようなテロが起こるリスクだってゼロじゃないのだ。
愚か者はその愚かさを借り物の知識で埋めようとする。だが知識量の問題じゃない。リスクを定量的に評価する思考の枠組みを持てないことこそが問題なのだ。そしてその必要をこの期に及んで理解できないからバカだというのだ。

言葉と思考

https://twitter.com/hayek306/status/606174038038159361

言葉が意思を伝達するツールなら、伝達先が自分自身の場合を「思考」と呼ぶのじゃないか。ひとは言葉で思考する。いい加減な言葉からはいい加減な思考しか生まれないと私は思ってる。

さくら学院

ラウドネスその他ジャパメタ一般→モトリークルーその他LAメタル→メタリカその他スラッシュメタル→BABYMETAL→さくら学院

そうしてとうとうCDを購入してしまった。
と思ったら、スーメタルがいない! 
2013年度だから、このときすでに「卒業」してたんだ…。

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冷静

「冷静な議論」というけれど、そもそも「冷静」の意味が共有されてないんじゃないか。どんなに抑制のきいた語り口で静かに言葉を発しようとも、語られる内容が感情的で論理的整合性に欠けるのならば、んなもん「冷静な議論」でも何でもない。

廃墟マニア

https://twitter.com/bii_men/status/606488550322794497

廃墟マニアと工場マニアは親和性が高い。
私は軽度の工場マニアなので、こういう廃墟って、やはりときめく。行ってみたいのだけど、ヘビやらトカゲやらでかい虫やら、うじゃうじゃいそう。そういうのは死ぬほど嫌い…。

ギターソロ

https://youtu.be/6ajl1ABdD8A

HR/HMではギターソロが聴かせどころだったりするわけです。
80年代メタルブーム時には、ヴァン・ヘイレンのライトハンド奏法にギター小僧がみんなびっくりしたもんだし、対抗してT.Vというジャパメタバンドのギタリストが足でタッピングする「ライトあんよ奏法」なんてのを編み出したりして、さすがにそれはちょっと笑ってしまったけれども、ともかくそういうテクニック合戦みたいな一面が当時のメタルには確かにあった。
で、90年代のグランジブームでメタルは一気に駆逐されてしまった。ニルヴァーナとか、ああいうやつ。...

意気消沈したメタル界では一転して、ギターソロ=ダサイというパラダイムシフト。あのメタリカでさえ、2003年発表のアルバムでは、ギターソロが消えたのだよ。

ミニカー

小学校の時、クラスでミニカーが流行った。
休み時間に教室でクラスメートが持参のミニカーで遊んでいたら、学校イチのワル・破壊王がやってきた。
破壊王はクラスメートからミニカーを取り上げ「壊していい?」と聞く。
いいわけがないが、腕力の非対称性を認識しているから、クラスメートは渋々頷く。そうして目の前でミニカーを粉々に破壊され、悔しさからか悲しさからか、泣いてしまった。
泣き声を聞きつけ、担任の先生がやってきた。破壊王を問い詰める
「なぜそんなことをするの?」
「ちゃんと許可を取りました」
むろん担任もバカではないからそんな説明では納得しない。すると破壊王はありもしない「真実」を打ち明けはじめる。自分はミニカーを買ってもらえず、クラスメートが羨ましかった。そういう通俗的な「物語」を作り上げるのだ。
結局、その「物語」を受け、学校にミニカーを持ってくるのが禁止になった。なんてクダラナイんだろう、と思ったものだ。

ガキの世界がプリミティブな善意に満ち溢れているなんてことはない。今と違って昔はイジメも陰湿じゃなかった、なんてのは大嘘だ

職業教育学校

http://www.yomiuri.co.jp/politics/20150603-OYT1T50150.html?from=y10

これって以前、山口二郎が『「知的活動はグローバルな競争をするエリートが独占すればよく、地方には知識はいらないという傲慢さ」に唖然とする』とかいってた「G型・L型」案の話でしょう?「職業教育」に対する山口のナメた考えにこそ私は唖然としましたがね。
私は大学卒業してもうずいぶん経つけど、当時の経済学部に引き寄せて話をすれば、たとえばゼミで『資本論』読むより、簿記の資格を取得しましょうって話でしょ? 日商簿記3級って商業高校でとらされるけど、大卒だって会計学履修したくらいじゃフツーに落ちますよ。2級になれば工業簿記もあり、なお難しい(大企業の経理部に一般職で入ってくるのはだいたいみんな2級は持ってます。ちなみに私は持ってません)。1級ともなりゃ、山口二郎程度のオツムじゃまず無理なんじゃない?(持ってたらごめんなさいね) 
「職業教育」てべつに電卓のたたき方や会計ソフトの操作方法習得が目的だったりするわけじゃないだろう。『資本論』が読みたきゃ自分で読んだらいいわけだし、すべての大学がミニ東大である必要はないわけだ。
長年、アカデミックな環境で空理空論を弄び、何ら社会的有用性に与することもなく、なんとな~く飯が食えてきちゃった特権階級の人間には、想像しにくいのかも知れないが。

続「かさじぞう」

「かさじぞう」の続き。

私が地蔵を質に入れる。
これ、明らかに窃盗なんで、私は逮捕される。それはいい。ハナからわかっててやったことなのだから。
けれどもし裁判で「死刑」が言い渡されたりしたら、私は抗うだろう。犯した罪に対して罰が不当に重すぎるからだ。

そんな私をたとえば寄り添う系の自称リベラルが擁護する。「窃盗は薬を買うため」「子を思う親の気持ち」などと私の動機が「純粋」であることを勝手に強調する。挙げ句に「不当逮捕」「死刑廃止」のプラカードを掲げてなぜか官邸前に集合、被告人が劇作家のハシクレであるらしいと聞けば「表現の自由」を言い出すかもしれない。
擁護者たちは私に言うだろう。「正義のために共に闘いましょう!
彼らは私がカンドーして涙の一つも流し、感謝の言葉を述べることを想定したかもしれないが、私はむしろそいつらを殴りつけるだろう。
いやまあ、殴りつけると再逮捕されちゃうので自重するとして、少なくとも仲間ヅラして私の肩に回してきた手を払いのける。だいたい私は「正義」のために主張してんじゃない。自分の命が惜しくてやっている。文字通り命がけなのだ。

そして今、論点は、罪と罰のバランス、この一点だ。

そんなことすら理解できず、物事をザツな善悪の二元論でしか捉えられない単細胞を「仲間」に持った覚えはないのだ

かさじぞう

「かさじぞう」という昔話がある。
大晦日。爺が傘を売りに行く。その金で餅を買おうという算段だ。だが、傘は売れない。帰り道、爺は地蔵を見かける。折しも雪が降ってきた。爺は地蔵に傘をくれてやり、手ぶらで帰宅する。爺から事情を聞いて婆が言う。
「それはよいことをしましたね」
その晩、家に餅+αのご馳走が届けられる。地蔵の恩返し。
ざっとこんな話。

どうやらこの老夫婦はさほど生活に困っているわけでもなさそうだ。餅=贅沢品を手に入れるため、いわば「遊ぶ金ほしさ」で傘を売ろうとしたわけだ。だから、爺が餅の代わりに買って帰った「〈いいことした〉という自己満足」を婆も一緒に消費し、善人の糧とすることができたのだ。

じゃあ仮にこんな設定だったらどうだ。
二人には子供がいて、病に伏している。今日中に薬を飲まなければ命が助からない。しかし薬を買う金がない。

そういう状況で、爺が上記と同じ行動を採ったら、婆は悠長に「それはよいことをしましたね」などと言えるだろうか? 爺のしたことはまるで「世界平和」といいながらDVするみたいなもんじゃないか。もしも私が婆ならそんな爺を許さない。

地蔵に傘をくれてやること=絶対善ではないはずだ。

もしも私が爺なら、むしろ地蔵を勝手に質に入れてでも金を作り、薬を手に入れる。そのくらいの「悪行」にはいつでも手を染める覚悟がある。

2015年6月 3日 (水)

自意識

モノカキである以上、適度な自意識は必要だけど、自意識過剰は良くないね。滑稽なだけでなく、見えない敵を恐れて言うべきことも言えなくなってしまう。「I am not ABE」系の「自粛」マニアを他山の石としなけりゃならない。

ゼロリスク

ゼロリスクを求めるのなら劇場に人を集めて芝居なんかすべきじゃない。その基準で、どうやって演者と観客の安全を担保できるというのか。答えてみろ。ことは自然災害に限らない。モスクワ劇場占拠事件のようなテロが起こるリスクだってゼロじゃないのだ。
愚か者はその愚かさを借り物の知識で埋めようとする。だが知識量の問題じゃない。リスクを定量的に評価する思考の枠組みを持てないことこそが問題なのだ。そしてその必要をこの期に及んで理解できないからバカだというのだ。

2015年6月 2日 (火)

自惚れ

私は私のために私の思うことを言うのであって、決して誰かのためを思って、だとか、まして世の中のために何かを「提言」しようなんて思っちゃいない。そこまで自惚れてない。

すべからく

おそらく八方美人であるがゆえ、こういう煮え切らぬ物言いになるのだろうな、と思いつつ、イライラしながら読み進めた某劇作家の文章を「すべからく」の誤用で打ち切った。

BABYMETAL

https://youtu.be/cirhQ8iLdbw

今となっては、BABYMETALファンを公言するのに誰も何の躊躇も要らないけど、デビュー当時、メンバー3人はまだ、さくら学院に「在学」中で、つまりあまりにも若すぎて、これを「好き」とは、ちょっと言いにくい雰囲気があった。ロリコンと思われたくない。変質者扱いされないための「自粛ムード」。

ところで『ド・キ・ド・キ☆モーニング』のPVって、『魔法少女まどか☆マギカ』の世界観を思わせる。どっちも「☆」がついてるし。...
ってことを私はずーっと言ってるんだが、他に誰かが言っているのを聞いたことがない。言ってくれて構わないんだぜ。
つか、もしかして、そう思うのは私だけなの? 

ドローン

https://youtu.be/HQLORg5COiU

どうやってんの? と首をひねったもんだけど、今にして思えばこれがドローンだったのか!

特権階級

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/43544

『国内で集団的自衛権を拒む人たちは、この南沙諸島(スプラトリー諸島)での米比の協力関係をどのように解釈するのだろうか。』

しかしたとえば演劇ギョーカイでは、そんな人たちが圧倒的に大勢を占めていたりする。「平和を祈る」などといいながら、祈っているのは「平和」というより、そういう己の善人性が仲間内で疑われないこと。殺したり殺されたりを回避するための「現実」的な道筋には、まるで興味がないようだ。
それの何が「社会派」か?
どうやらゲージツカというやつは、知的怠慢を正当化できる特権階級であるらしい。

日本鬼子

結局「ポストモダン」て何なのよ? という難しい定義の話は、ひとまず措くとして、80年代にポストモダン系(?)と目された作家や文化人の「悪ふざけ」ぶりは、むしろ今の時代に有用なんじゃないか、と私は思う。
たとえば中国が「日本鬼子の本性」などと奇妙な言いがかりをつけてくる。で、なんすか、それ? って「日本鬼子」をググってみれば、ヒットするのは、こんな「萌えキャラ」だったりする。
笑っちゃう。そもそもが、くだらんイチャモンなのだから、こんなんでいいんだよ。マジメにアツくなるこたない。
しかし、この手の多義的な解釈というか、意味の脱臼をやらかしては「逃走」を繰り返していたかつてのポストモダン系の多くが、今じゃあっさり左旋回して「日本軍国主義の亡霊」がどうとか、真顔で言っちゃうのだから、やんなっちゃうのだ。

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石平『私はなぜ「中国」を捨てたのか』

引き続き、石平氏の著作をつらつら読んでる。
2000年に著者が四川省の実家に帰省し、そこで甥と交わした会話。
ちょっと長いので、会話の文言はそのまま、ニュアンスだけ私が若干補足しつつ、以下に抜粋してみる。 

***

石平(=小平)氏が甥に小遣いをやろうとする。
 

「要らない」
「何だよ、おまえはお金が嫌なのか(と、からかう)」
「いや、違う。だって小平おじさんのお金は、日本人からもらった給料だろう。そんな金、僕は要らない!」
「……」
「小平おじさん、もしね、今度日本がもう一度中国に侵略してきたら、小平おじさんはどうする。帰ってくるの?」
「(冗談半分で)じゃ、日本が攻めてきたら、お前はどうするんだ?」
「僕は戦う。最前線へ行く。小日本を徹底的にやっつけるのだ。実は僕、大学で入党申請書を出した。来年には党に入れるよ」
「……そうか、お前は共産党が好きなのか」
「当然だろう。中国人なら皆、中国共産党が好きじゃないか。党を擁護しているじゃないか。小平おじさんはそうじゃないのか」
「どうして? どうして中国人は皆、共産党のことを好かなければならないのか。共産党はそんなによいものか」
「当たり前だ。当たり前じゃないか。共産党の指導があるから、中国は日本の侵略を防げるんじゃないか。昔、日本侵略軍をやっつけたのは共産党じゃないか。小平おじさんは歴史を忘れたのか」
「そうか。やっぱり歴史か。それでは聞く。今から十一年前、北京で起きた『六・四事件(=天安門事件)』、あれも歴史だけど、君はどう思うのか」
「何ですかそれは。『六・四事件』って、あ、あれですか。思い出した。じゃあはっきりと言います。小平おじさんたちのやっていたことは、間違っています。党と政府の措置は正しかったと思います。僕だけじゃない。大学では皆、そう思っています」
「正しかった?! 丸腰の学生たちを虐殺していったいどこが正しかったのか。政府が罪のない人を銃殺するのは正しいというのか、キミは(と、声を荒らげる)」
「そうだ。正しかった。おじさんたちのやっていたことは、外国勢力の陰謀じゃないか。鎮圧してどこが悪いのだ。殺人といえばね、小平おじさんの居るところ、日本人こそ殺人者じゃないか。南京大虐殺をやったじゃないか、何千万人の中国人を殺したじゃないか。小平おじさんはもう忘れたようだが、僕は忘れませんよ」

***

この甥の言い分が、つまり中国共産党の言う「歴史を直視する」ってやつだ。
日本国内にもこれを積極的に真に受け、反政府活動に利用する頭の悪い自称平和主義者がいる。彼らは閉じたコミュニティ内で互いの善人ぶりを承認しあって気持ちよくなっているようだが、そうした「善人」のマスターベーションが間接的に、あの天安門での「虐殺」の正当化に荷担しているのだと知るべきだ。しかしこの構造が彼らには理解できない。だからバカだというのだ。
ともあれ、この甥は今、30代半ばから後半くらいか。少なからぬ中国のエリート青年が、かように「歴史を直視」しているわけだ。
仮にかの国で共産党の一党独裁が崩壊し、民主化が達成されたとしても、コトはそう簡単じゃないと思う所以だ。

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