テクスト論(寄り)
右だろうが左だろうが、党派性への依存は人の思考を停止させるから、そんな両者を足して二で割った「中立」など、どちらにも「いい顔」できるという処世術以上には、さしたる意味がない、と私は思ってる。
ものごとを「冷静」に考える、ということは、単に感情を押し殺して無難なことしか口にしないってことじゃなく、情緒に流され、党派性に身を委ねてしまわぬよう、自己批評性を働かせ続けること。
言うは易く行うは難し。けれど仮にも劇作家なんぞを自称している以上、そうありたいもんだと思ってる。
と、こう書くと、テクスト論的な立場の標榜ということにもなりそうだ。
先入観なく、書かれたものを「テクスト」として読む。
しかしそんなことがほんとに可能か? たとえば朝日新聞の記事も読売新聞の記事も毎日も産経も、私は「等しく」読んでいるか? むろんそんなことはなく、しばしば「おまえが言うな!」と、書いた主体を問題にすることがある。
じゃあこの矛盾をどう説明するか?
コンテクストもまたテクストの一部なのだ。そう私は解釈している。そういう前提でのテクスト論(寄り)者なのだ、私は。
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