報ステで古賀さん、降板めぐり議論 「I am not ABE」掲げる
http://www.sanspo.com/geino/news/20150328/geo15032801450001-n1.html
いやー、参った参った。
ほんとはね、私みたいなチンピラ演劇人が社会秩序に膝かっくんを食らわせたり、そういうやらなくてもいい悪ふざけをして、ちゃんとした大人に怒られる、っていうくらいが、正常な社会のありようだと思うんですよ。
けどね、もうぜんぜん、出る幕ないです。強烈なバカが多すぎて。
« 2015年2月 | トップページ | 2015年4月 »
http://www.sanspo.com/geino/news/20150328/geo15032801450001-n1.html
いやー、参った参った。
ほんとはね、私みたいなチンピラ演劇人が社会秩序に膝かっくんを食らわせたり、そういうやらなくてもいい悪ふざけをして、ちゃんとした大人に怒られる、っていうくらいが、正常な社会のありようだと思うんですよ。
けどね、もうぜんぜん、出る幕ないです。強烈なバカが多すぎて。
マスコミが民度の鏡というのは、なるほどその通りだなと思う。たとえば日刊ゲンダイのこんな記事に同調して、いい大人が幼稚な正義を針小棒大に振りかざす。おのがご都合主義を相対化する知性のかけらもなく。バカの相互補完。
原子力を定性的に「悪」と評価するのも、まあ、よかろう。「信仰」の自由はあるし。 なら、現状、火力に頼らざるを得ないわけで、とすればなんとしても石油は確保しなきゃならない。知ってる? 火力発電て、そこらの落ち葉燃やしてるわけじゃないんだよ。 石油輸送ルートを死守するために軍事力を強化せよ、というのであれば一応筋は通るのだが、ここでも真逆のことを言うから、わからない。
http://www.iza.ne.jp/…/news/150316/plt15031623400021-n1.html
このバカのバカさ加減は「政権交代」前から気づいていたし、だから首相になんかしちゃ絶対ダメと、私はずーっと言ってきた。しかし世論は私の思惑と真逆に傾いた。「一度やらせてみよう」。コックピットに猿が乗り込むのを飛行中のジャンボジェットの客席で見る心境だった。それをにこにこ手を叩いて見ている乗客達。このときばかりは彼らに対して「愚民」という言葉を吐かずにいられなかった。
私ごとき文系のイメージとして稚拙な喩え話をすれば、以下のようなこと。
子供が原っぱで遊ぶと擦り傷ができる。けど、翌日にはかさぶたになり、やがて気づかぬうちに治ってしまう。その間にもまた子供は原っぱで遊ぶ。また擦り傷ができる。またかさぶたができ…。
こうしてこの原っぱで遊び続けたとして、子供の負うダメージは、日々の擦り傷の「総和」となるか? ならないでしょ。だって、どんどんかさぶたになって治っていくわけだから。
しかし仮に、その子供に自然治癒力がないとしたら、確かに原っぱで遊ぶのは「危険」だ。ただし、それは「原っぱ」でなくむしろ「子供」の側の問題。というのも、原っぱを避けたところで、同様の危険が子供につきまとうのだから。どこで遊んだって危ないってことだ。
俗に言う「放射脳」に決定的に欠けているのは、現象をこうした「関係性」としてざっくり捉える視点。そして救いがたいのは、いつまで経ってもこれを克服するつもりがない知的怠慢。
国会中継での民主党の小西議員。
これに投票した有権者がいるんだもんなあ。
なるほどゴキブリは一匹見たら100匹いるというもんなあ。
ああ、マトモな野党が欲しいなあ。阿呆のサンプルみたいのじゃなく。
http://www.nikkei.com/article/DGKKASFS19H5G_Z10C15A3EE8000/
超法規的な原発停止によって、いったい何のリスクが回避されたんでしょうか?
それは年間2兆円以上の国富流出に見合うだけのものなんですかね?
その金を再生可能エネの開発なりに投入した方が「脱原発」の文脈上でもよほど建設的だと思うんですけど。
http://www.jiji.com/jc/c?g=eco&k=2015032000740
「何で就職するんですか?」と、重役との最終面接で聞かれたのを覚えてる。「就職なんかしなくても、たとえばマクドナルドのバイト方が、手取りはいいでしょう?」と。 (あれ? 俺、「いらない」って言われてんのかなあ?)と勘ぐったけど、採用されました。よほどのことがない限り、誰でも採用されたんです。最後のバブル世代。 ま、入社してからが大変なんだけどね。サラリーマンてそんな甘いもんじゃないです。
アツさはしばしばバカと同義語。というのが、かねての私の持論です。私は間違っていなかった。
小西ひろゆき氏の国会での質疑を見て確信した。
国会って銭湯みたいなものだな。
脱衣所や洗い場で、肌にカラフルな図柄を持つ人の存在に気づかされるように、国会中継で、バカな議員とそれに代表される国民のオツムの程度が否応なしに可視化される。
http://japanese.donga.com/srv/service.php3?biid=2015031969338
若宮啓文にすら説教される韓国。そりゃそうだよね。
韓国にせよ日本にせよ、それぞれの「国民性」って、やっぱり、ある。けれどその「成分」は何なのか?〈これ〉って取り出すことができるもんじゃないのでなかなか難しいわけだけど、いずれにせよそれは「集団」が持つ何かであって、たぶん今の私は、そいつに興味がある。
現象学でいうところの「間主観性」で説明できるんじゃなかろうか、とフッサールを囓ってみたこともあったけれど、結局よくわからない。わからないけれども、わからないなりに、このテーマに挑む程度の志の高さは、フィクションの書き手としては持ってたいもんです。
メタフィクションというのはフィクションがあってこそのもんであって、そうした前提が、作り手と観客との間で強く共有されていることが、すなわちそのジャンルの「品」てもんではないか。決して作品の「内容」だけが問題じゃないのだ。米朝のこの噺だって、下世話で結構不謹慎だったりする。
形式自体が形式からの逸脱を内包する。つまりこの矛盾が「おかしみ」なんであってさ。「そんなの関係ねー」って小島よしおばりにハナから前提=形式を無視してみせる(小島よしお自身は一発芸の伝統から一歩もはみ出してはいないと思うけど)のを「脱構築」などといって、やたら評価した時代もあったけれども、そもそも、そういうもんじゃねーんだ。
少なくとも私はそんなふうな立場で芝居を作っている。
http://news.biglobe.ne.jp/economy/0312/pre_150312_5462590057.html
「福島の事故後に脱原発宣言をおこなったドイツは、自国の経済において大きなダメージを負うこととなりました。ドイツは本来エネルギー源を他の国に頼りたくないと思っているのですが、原発による電力をフランスから買い、ロシアからガスを買っているのが現状です。脱原発によるギャップを再生エネルギーで埋めようとしていますが、そのコストは高く、電気料金が目に見えて上がっていることで国民の不満も膨らんでいます。エネルギー政策は機能不全の状態に陥っているのです。これはヨーロッパ全体において言えることで、エネルギー政策が国によってバラバラでかみ合っていないのが大きな課題となっています」
こういう話、今までさんざんされてきたわけでさ、今さらべつに「ほらみろ、グーグル様もいっている!」とか、言うつもりはないよ。読んでもいないピケティに乗っかる山本太郎じゃあるまいし。
けど、なんでいつまで経ってもリスクを定量的に評価することもなく、「信念の強さ合戦」みたいになってんのかが、私にはサッパリ理解できないわけ。もう、次のステージに行きたいよ。阿呆な言論空間に耐えられないんだよ。
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/editorial/597396.html
「政府は当初、1ミリシーベルトを除染の目標に掲げたはずだ。除染が難航しているからといって「1ミリ」を長期目標にして、解除基準を緩く設定するのでは、安全をないがしろにしたすり替えと言うほかない。」
あー、もう、これ何周遅れの議論なんだろうか? 何が「言うほかない。」だよ。道新の記者はこの4年間、何をしてたの? 雪かきが忙しかった? それとも道新ホールの便所掃除か?...
いずれにせよ、こういう無知、無理解が、復興を妨げているんだよ。しょーもないイデオロギーに凝り固まってっから、私ごときが入手できる科学的知見に触れることもできないんだ。
まず、この「年間1ミリシーベルト」って科学的根拠なんかないからね。
『「1ミリシーベルト神話」は、民主党のポピュリズム政治の最たるもののひとつであり、原発事故収束・再発防止担当大臣だった細野豪志氏らが、除染の基準値を年間1ミリシーベルト以上にしたときから横行し始めたと言ってよい。』
http://yoshiko-sakurai.jp/2012/12/20/4451
で、国際原子力機関(IAEA)の専門家チームも、「年間1ミリシーベルトという追加被曝線量の政府目標は必ずしも達成する必要はない。環境回復に伴う利益と負担のバランスを考えて最適化する必要がある」という報告書を出している。2013年の話だよ。
以下、余談。専門家(生物学者)のメルマガから一部抜粋。
『1Sv(※注 今井:1シーベルトな。1ミリシーベルトじゃないよ!)の放射線を瞬時にあびたら、どれだけの二本鎖切断が起こるでしょうか? 答えは、一細胞当たり約30か所です。一日で修復している数の三倍の傷ができちゃうので、修復酵素がフル稼働します。修復には数時間かかったりします。だから、瞬時に1Svとかを浴びると、修復にエネルギーを注ぐので「ちょっとだるい」とかいう症状があらわれちゃうのです。瞬時に10Svとかを浴びると、熱で「やけど」状態にもなるし、修復も追いつかないしで、えらいことになるので、三か月後に死ぬ。とかになっちゃいます。瞬時に100Svくらい浴びると、火傷で即死できるかもしれません。』
『10Svを10000日かけて(毎時40マイクロシーベルト)浴びても、DNAの二本鎖切断なんてほとんど起こりません。なので、実際的にはなにもおこらないんですね。ただ、エラーとなる数は、浴びないよりは若干増えるので、癌になる確率も当然若干増えます。1億人に1人くらいは放射線の影響でガンになり死ぬ人がいるかもしれません。が、それはもう、煙草の影響なのか、黄砂の影響なのか、化学物質の影響なのか、ストレスの影響なのか、隣のおじさんのいびきの影響なのか、わからないんです。』
「両国の政治家によるポピュリズム」
こういう言い方で問題を矮小化しようとする者が、日本でも、とくに「文化・芸術」界隈でよく見られるけれど、民主主義の手続きの下に選ばれた政治家が、有権者と無縁であるバズがない。
ハズがないものを、平気な顔で「ある」と主張するのは、よほどのバカか卑怯者か、あるいはその両方だ。
BABYMETAL→さくら学院→perfumeと流れてきた。
要するに、振付家を追っかけたことになる。
perfumeって、もちろん名前は知ってたけど、顔が好みじゃないという理由でスルーしてました。何で売れてんのかなあ、と思ってたんだけど、そうか、こういうことか。だったら誰か早く教えてよ。知らずに過ごして恥ずかしいじゃないか。
アイドルグループの中で今、いちばん売れてるってことで、AKBのステージと見比べてみた。
そもそもグループのコンセプトが全然違うんだと思うけど、おそらく秋元康が、どーでもいいと思ってるだろう部分が、私にとっては、全然どーでもよくないんだ、ということを再認識させられた。
AKBじたいにべつに恨みはないのだけど、秋元康的なるものの表出としてのこのグループを私がどーしても好きになれないのは、べつに「売れてる=大衆的」だからとか、そういうスカした理由じゃないんだよ。メンバーに好みの娘がいない、というオスの事情でもない。もちろん、秋元康がデブだから、じゃない(いや、それもあるか)。
秋元のやり方は「おニャン子クラブ」のときから基本的にずっと一緒。演者の「実存」的な部分にばかり光を当てたがる。つまり「メタ」をウリモノにするわけだ。その見せ方のアイデアとして、集団内の序列を勝ち上がる「総選挙」とかをやったりするわけでしょう? そこで泣いたり笑ったりする「私」の物語に価値があるんだと。
すると演者にとってステージ上のパフォーマンスって何?...
所詮「私」の綾付けでしかないわけだ。で、そういう基本姿勢がパフォーマンスから見て取れてしまう。そこが私は気に入らないわけ。「表現」しろよ、と。
最近解散した「BiS」なんかも、ぜんぜんテイストは違うけれども、そういう意味では実は「AKB/おニャン子クラブ」と一緒。比較対象として、「さくら学院」なり「perfume」なり「BABYMETAL」なりのパフォーマンスを見るとよくわかる。これはダンスの振付だったりステージの演出を通しての、いわば括弧付きの【私】をウリにしてるわけでしょ。たぶん、「ももクロ」なんかも後者じゃないの? これは、よく知らんのだけど。
で、私はそういうのが「芸能」なんだと思ってる。考えが古い? けど、メタフィクションなんてもんはセルバンテスの『ドン・キホーテ』の時代からあって、それじたい目新しくも何ともないんだよ。
もちろん「好み」はさまざまで、どっちが良いも悪いもないし、こうした文脈のみでアイドル歌手の価値が決定されるわけじゃないことくらいは承知してる。けど、いずれにせよ、そういうプロデューサーサイドの「理念」みたいなものは、集団の「文化」として演者個々人に内面化される。そして舞台に表れる。「教育」ってそういうもん。
http://top.tsite.jp/news/i/22486332/
韓国の芸能事情にはまるで疎いのだけど、現代演劇の分野でも、俳優の身体能力の高さはよく指摘されるところだし、実際、そうなんだろうと思う。経済の文脈では、内需が弱いから芸能もどんどん輸出しなきゃならないってのも、よく言われること。
で、最近、こういうグループが日本進出したんだそうです。
ラゾーナ川崎のイベント広場に5000人も入るのかよ? という疑問はさておき、歌も踊りもしっかりしてるし、ちゃんとエロくもある。そこはかとなく古くさいのは狙いなのか? いずれにせよ、オッサンの懐を狙うにじゅうぶんなデキだと思う。わざわざ日本語バージョンまで用意してるし。
にもかかわらず、大統領以下、一向に改まらぬ理不尽な反日政策ですよ。
いったいどういうつもりなんすかね? あえてナショナリズムの壁を高くして、それを超えみせるぜ! っていう芸術的野心の高さなんですか?
http://lite-ra.com/2015/03/post-926.html
すでにあちこちでされている週刊誌報道より、この記事の方が「事実」に近いという保証はない。けれど、かように「物語」というものは交換可能なのだ。私はメディアリテラシーの話をしているんであって抽象的な文学論を弄んでいるわけじゃない。
もちろん相対主義も行きすぎると何ごとも決定不能に陥る。それはそうだ。しかしそういう限界を踏まえた上で、少しはおのが「正義」を疑ってみた方がいい。少なくとも、それが「法」を無視するに値するものであるかどうか。
これはこの事件に限ったことじゃない。
http://www.sankei.com/col…/news/150309/clm1503090007-n1.html
「国防上必要な国の意思決定を住民投票で阻止しようとした心根は民主主義の基本ルールに反するものだった。」
ほんとこれ、めちゃくちゃ違和感あったのだが、意外と多くの人がそうでもないらしく、あたかもあの住民投票に正当性があるがごとき言説の飛び交うことに、これまた違和感ありまくりだった。...
私ごときのチンピラ演劇人にさえ、アッタリマエと思える「常識」が、常識として社会に共有されてないのだ、という驚き。
え、みんな義務教育とか、受けてんだよね?
http://headlines.yahoo.co.jp/hl…
『村山氏は「(村山)談話が出て以降、批判はおさまった。韓国、中国、アジアの国全体、米国も含め、世界もだ。定着していた。それを見直すことになれば、おかしなことになる」とも述べた。』
私は村山富市元首相のことを鳩山元首相ともども、民主主義の危うさの象徴=アキレス腱だと思ってる。...
なので、こういうトンチンカンな認識を示されても、今さらべつに驚かない。ただただ呆れるばかり。
しかしこれらが日本の首相だったというのは紛れもない事実なのだ。
二度とそういうことが起こらないよう、私たちは「歴史を直視」しなきゃいけない。
http://www.sankei.com/col…/news/150309/clm1503090007-n1.html
「国防上必要な国の意思決定を住民投票で阻止しようとした心根は民主主義の基本ルールに反するものだった。」
ほんとこれ、めちゃくちゃ違和感あったのだが、意外と多くの人がそうでもないらしく、あたかもあの住民投票に正当性があるがごとき言説の飛び交うことに、これまた違和感ありまくりだった。...
私ごときのチンピラ演劇人にさえ、アッタリマエと思える「常識」が、常識として社会に共有されてないのだ、という驚き。
え、みんな義務教育とか、受けてんだよね?
以前、麻生さんが首相だったとき、「ホッケの煮付け」といって「んなもん、あるか!」って話になったのを思い出してしまった。
青森出身の大島理森さんが「ホッケに煮付けはありません。ホッケは焼くしかないんです」と言った。
私は学生時代に4年間、札幌にいただけだが、「ホッケは焼くしかない」なんてこたあ、ない。「煮付け」は経験ないけれど、家庭教師をやってた家で、しょっちゅう、ホッケのフライ(油で揚げる前の、衣をまぶして冷凍したやつ)をもらって帰ったもんだ。
「おいしかったです」と言ったのは、社交辞令+正直な感想。でも、料理するのがめんどくさいし、「その分、現金にしてくんねーかなー」と思ったもんです。
ま、今さらどーでもいい話だけど。
右だろうが左だろうが、党派性への依存は人の思考を停止させるから、そんな両者を足して二で割った「中立」など、どちらにも「いい顔」できるという処世術以上には、さしたる意味がない、と私は思ってる。
ものごとを「冷静」に考える、ということは、単に感情を押し殺して無難なことしか口にしないってことじゃなく、情緒に流され、党派性に身を委ねてしまわぬよう、自己批評性を働かせ続けること。
言うは易く行うは難し。けれど仮にも劇作家なんぞを自称している以上、そうありたいもんだと思ってる。
と、こう書くと、テクスト論的な立場の標榜ということにもなりそうだ。
先入観なく、書かれたものを「テクスト」として読む。
しかしそんなことがほんとに可能か? たとえば朝日新聞の記事も読売新聞の記事も毎日も産経も、私は「等しく」読んでいるか? むろんそんなことはなく、しばしば「おまえが言うな!」と、書いた主体を問題にすることがある。
じゃあこの矛盾をどう説明するか?
コンテクストもまたテクストの一部なのだ。そう私は解釈している。そういう前提でのテクスト論(寄り)者なのだ、私は。
ボクシングって、ダウンして10カウント以内に立ち上がれなかったら負けでしょ。たぶん、どの階級でも、そうだよね。
で、この「10カウント」って、べつに科学的な根拠があって「10」としたわけじゃないんだと思う。経験的にだいたいそのくらいで立ち上がれないようなら「打ちのめされた」と見なす。そういうルール。
昨日、YouTubeで、文芸批評家の座談会を見てて思ったこと。
そこで語られている本を私は読んでないのだけど、「論の立て方がマルクス主義のそれではないか。つまり世界が合目的的に発展するのだという前提に立っている」というような批判をある批評家がした。それに対し、べつのオッサンが「しかし人間は〈理念〉を捨てきれないものじゃないか。この本は、遠い未来の〈理念〉を語っているのだ」と擁護する。
確かに理念は捨てられないよ。それは私もそう思う。
けど、その「遠い未来」っていつなんですかね?
オッサンの言い分て、共産主義の敗北をいまだ認められぬ者がよく言う、「今はまだその途中」って理屈とそっくりじゃないか。
「10カウント」を過ぎてマットに倒れたままのボクサーが、11カウント目で立ち上がる可能性は確かに、ある。じゃあ、ってんでルールを11カウントにすると、11カウントでは倒れたまま12カウント目で立ち上がる可能性を含むボクサーが現れる。12カウントにしたら13カウント目、13にしたら14…(n,n+1)。
どこまで待てばいいんですか?
20や30なら、いいですよ。待ちますよ。けれど1000、1万と言われたら、付き合いきれない。待って、起ち上がる保証はどこにもないのだし、待つ側も人間で、人間には個々に「寿命」というものがあるからだ。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik14/2015-03-01/2015030102_01_1.html
イカニモ赤旗らしい言説。もう、どっからどう突っ込んでいいのかわからないくらいだけど、とにかく、ひとつひとつの「論点」はっきりさせて議論しろよ。式での起立が強制か否かと、「侵略戦争に突き進んだ日本のシンボル」という日章旗や国歌の評価とをごっちゃにして語るから、いつまで経っても水掛け論だ。
どうも共産党は「式」というものを謝恩会か何かと勘違いしているようだけど、そういうもんじゃないんだよ。「信念」はどうでも、社会的有用性の観点から言えば、「式」というのは近代(=モダン)人をつくるのに必要な手続きなんだ。そもそも国家的な教育なんだよ。
ある文芸批評家は、今やっと日本の状況がポストモダンになったという。何がポストモダンなんだかよくわからんけど、いずれにせよそれはモダンがあってこそ。モダンて抑圧的で鬱陶しいものなんだよ。好むと好まざるとにかかわらず、その鬱陶しさを内面化することで近代人はつくられるの。ひらたくいえば「躾」だよ。私はこれを「おてんとうさま」と呼んでいるけど、躾がなってない=おてんとうさまに見られていない猿が、ゲバ棒で人を殴ったりして、それを正義と思い込む。
つか、相手の話を聞いておのが信念を相対化してみるって態度が、いまだ全然ないのな。だから共産党は独善的でダメだっていうんだよ。
「子どもたちのための式を台無しに」しているのは誰なのか、胸に手を当ててよーく考えて見ろ。バカタレ。
最近のコメント