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2015年2月28日 (土)

習慣

『アルベルト・アインシュタインは自身の回顧録で「(特殊相対性理論の)核心部分の推論は、ヒュームの理論(『人性論』)によって促進された」と述べている。』(Wikipedia)

で、そのヒュームの『人性論』を読みかけのままほったらかしにしてある私なのだが、くだんの川崎の少年事件のことや、それにかんして、実はすでにネット上に拡散されてる逮捕者の氏名、顔写真、そこから派生する少年法の問題等をつらつら考えるにあたり、ヒュームの「習慣」を思った。

いかんせん「読みかけ」だし、考えがまとまってるわけじゃないんで、ちょっと飛躍して、京大の「折田先生像」のこと。
http://matome.naver.jp/odai/2132413509812735501

まずこれ、私は、笑っちゃう。面白い冗談だと思ってる。けど、大学側からすれば明確なルール違反だ。
ではなぜ私は「折田先生像」を支持できるのか? 北大のクラーク像だったら、どうなのか?

クラーク像は、すでにあまりに有名な「観光資源」なんで、下手に手出ししたら札幌市民が許さないが、北大には(かつて)演劇研究会の青テントというのがあり(今もあるのか知らん)、芝居だけじゃなくて、そこで祭りなんかもやられて、夏の風物詩として〈半ば〉公認されていた。

この〈半ば〉というのがつまりヒュームのいう「習慣」で、ひらたく言えば「伝統」。この伝統ってやつが、大学というコミュニティに受け入れられる根拠となっているわけだ。
これ、「自然法」の考え方でしょ。

ジョン・ロックの社会契約論的な考えに基づけば、京大の折田先生像の悪戯も、北大の青テントも、認められない。そんな「契約」は誰もしていない。
けれどヒュームの「習慣=(黙約)」の文脈でなら、これらはじゅうぶん正当化できる。
ロックとヒューム、どっちがしっくりくるかといえば、私は、後者の考えだ。ただし「成文法」じゃない以上、引き際を見誤ったら痛い目を見るのも当然で、そうしたリスクを負う気概がないなら、おとなしくしてるがいい。

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