歴史的検証
深沢七郎『楢山節考』の「姥捨て」は嘘話らしいけど、各地にある「人身御供」の伝説なんかは泉鏡花『夜叉ヶ池』にも出てくるし、柳田國男『一つ目小僧その他』にも記述があって、きっと史実なんだろうと思う。
その時代の「人の命」と、福田赳夫が地球より重いといったそれとでは、根本的に「質」が異なるんだろう。時代の価値観というか、パラダイムというかエピステーメーというか、とにかく今とは思考の枠組みがまるで違う。「人身御供なんて非科学的ですよ。そんなんで雨なんか降りませんよ」と言ったところで、『夜叉ヶ池』の住人には通じやしない。
その異なる「思考の枠組み」が、同時代に、地続きの場所に存在する恐ろしさ。
今日、リドリー・スコット監督『悪の法則』を観ながらそんなことを思ったのだけど、これってつまり、ISILの事件で感じたことだ。
共産党の志位和夫はtwitterでこう言っている。
『「イスラム国」のような過激集団がどうして生まれたか。大きな契機となったのがアフガン・イラク戦争だ。マレーシアのナジブ首相は「1人の悪魔を攻撃し、より大きな悪魔が現れた」。無法な戦争の混乱の中からモンスターは誕生した。テロを一掃する上でもアフガン・イラク戦争の歴史的検証は不可欠だ。』
歴史的検証が不要だとはいわないが、それで「テロを一掃」できるなんて到底思えない。「無法な戦争の混乱の中からモンスターは誕生した。」というのが、仮にその通りだとして、それもまた近代的な思考の枠組みの中での「我々の物語」にすぎないのだ。
それとはまったくフェーズの異なるところに今、「彼らの物語」はある。そして我々は、そんな「彼らの物語」の登場人物に、一方的にされているのだ。
ここに危機感を持たず、「悪」の起源論にうつつを抜かして、いったい何が政治家か。
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