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2015年2月20日 (金)

選択的夫婦別姓

自分さえ良ければいいのか、と問われれば、基本的に、その通り、と答える自分勝手な人間なので、自分が困らない限り、他人の価値観にも干渉しない。(ハズなのだけど、実際には、言わんでいいことまで言って、鬱陶しがられている。)
   
  「選択的夫婦別姓」の話。...

別姓でも同姓でも夫婦の好きにすりゃあいい、というのが私の基本的なスタンス。
いやいやそんな単純な話じゃない、という、主に保守派による「反対」意見があることぐらいは知ってる。
だが、私の知る限り、それらのほとんどは〈家族の絆〉系の、いわば「価値観」の話で、それが「同姓/別姓」とどれほど因果関係があるのかも甚だ怪しいし、法改正がもたらす「災難」も、蓋然性の疑わしい「物語」にすぎない。何度も言うが、そういう「物語」はいくらでも交換可能なのだ。そんな話に私はノレない。

じゃあ、私が「選択的夫婦別姓」推進の立場なのか、といえば、そうじゃない。むしろ法改正には反対だ。

仲正昌樹著『精神論ぬきの保守主義』の「第一章 ヒューム ― 慣習から生まれる正義」の記述を一部抜粋すれば、
  〈ヒュームは、「習慣」こそが「正義」を生み出すと考えたのである。〉
  〈「権利」や「責務」などの観念は、経験に裏付けられた「黙約」に由来するものであって、自然状態に生きる人たちが自らに内在する理性に従ってアプリオリに抱くものではない。〉
  〈ヒュームは、私たちが「民法」と呼んでいるものの基礎となる、人々の間で慣習的に確立された、水平的な(利害)関係を起点として、「自然法」が、そして「社会」が形成されると考えるわけである。〉

また、同書の「第二章 バーク ― 相続と偏見による安定」では、
  〈統治体制は、それが、納得できる便宜性の諸原理(principles of cogent expediency)を備えていることを示すことによって、人々に承認され、継続していく間に正当性を増していくのである〉

つまり、ある特定の社会を貫く「時間」が、法や制度に正当性を与えている、という考え。キザな言い方すれば「時の洗礼」。
で、概ね私もそう思っている。
むろん、法や制度が時代にそぐわなくなったなら、「納得できる便宜性」を回復するために、改正は必要だ。その場合、現行法/制度が「納得できない」ほどに誰かの「便宜性」を損なっているという具体的事例を、「改正」を求める側が示し返す必要がある。
  情緒的な物語=「価値観」の問題ではなしに、だ。
  今、それが何か示されているか?

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