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2015年2月

2015年2月28日 (土)

習慣

『アルベルト・アインシュタインは自身の回顧録で「(特殊相対性理論の)核心部分の推論は、ヒュームの理論(『人性論』)によって促進された」と述べている。』(Wikipedia)

で、そのヒュームの『人性論』を読みかけのままほったらかしにしてある私なのだが、くだんの川崎の少年事件のことや、それにかんして、実はすでにネット上に拡散されてる逮捕者の氏名、顔写真、そこから派生する少年法の問題等をつらつら考えるにあたり、ヒュームの「習慣」を思った。

いかんせん「読みかけ」だし、考えがまとまってるわけじゃないんで、ちょっと飛躍して、京大の「折田先生像」のこと。
http://matome.naver.jp/odai/2132413509812735501

まずこれ、私は、笑っちゃう。面白い冗談だと思ってる。けど、大学側からすれば明確なルール違反だ。
ではなぜ私は「折田先生像」を支持できるのか? 北大のクラーク像だったら、どうなのか?

クラーク像は、すでにあまりに有名な「観光資源」なんで、下手に手出ししたら札幌市民が許さないが、北大には(かつて)演劇研究会の青テントというのがあり(今もあるのか知らん)、芝居だけじゃなくて、そこで祭りなんかもやられて、夏の風物詩として〈半ば〉公認されていた。

この〈半ば〉というのがつまりヒュームのいう「習慣」で、ひらたく言えば「伝統」。この伝統ってやつが、大学というコミュニティに受け入れられる根拠となっているわけだ。
これ、「自然法」の考え方でしょ。

ジョン・ロックの社会契約論的な考えに基づけば、京大の折田先生像の悪戯も、北大の青テントも、認められない。そんな「契約」は誰もしていない。
けれどヒュームの「習慣=(黙約)」の文脈でなら、これらはじゅうぶん正当化できる。
ロックとヒューム、どっちがしっくりくるかといえば、私は、後者の考えだ。ただし「成文法」じゃない以上、引き際を見誤ったら痛い目を見るのも当然で、そうしたリスクを負う気概がないなら、おとなしくしてるがいい。

2015年2月23日 (月)

一般意志

「いっぱんいし【一般意志】
ルソーの政治思想の根本概念の一。社会契約によって成立した共同体(国家)の成員である人民が,個々の利害を離れ,総体としてもつ意志。その表現が法,その行使が主権であるとされる。普遍意志。 (大辞林 第三版)」

ルソーに依れば、一般意志は常に正しい、のだという。
その理由は、突き詰めて考えれば結局「愛は永遠。なぜなら永遠なのが愛だから」みたいな言葉の定義の問題じゃね? って気もするのだけれど、いずれにせよ、その一般意志とやらをどうやって取り出すのかといえば、そんな方法は誰にもわからないわけで、実際問題、「近似値」としての全体意志(=個々の利害関係の総和)すなわち投票結果を参照するしかないわけだ。
ただ、一旦、こうした思考過程をくぐり抜けておくと、多数決が必ずしも絶対の正当性を持つわけじゃないんだ、ということは理解できる。つまりそれは一般意志とは異なる全体意志にすぎないからで、投票結果がどうあれ、そういう「限界」は意識しておいていい。

2015年2月22日 (日)

地雷

これが一般的なやり方なのかどうかわからないけど、私は稽古の早い段階で、出演者にホンの「狙い」を解説してしまう。
それは作品のテーマだとか、そういう話じゃない。まして、それに共感を求めるものでもない。共感がまったくなくていいとはいわないが、演じるのが苦痛でない程度でいい。
私が言うのは劇構造の話。
 
たとえばアドリブについて。
「アドリブ」をググったら、こういう解説があった。
『演劇、放送などで、出演者が台本にない無関係の台詞(せりふ)や演技を即興ではさむこと。また、その台詞など。』
演出家によって好き嫌いはあるだろうが、予定調和を脱臼させる効果は確かにあるし、一概には否定できない。けれどやる際に、少なくとも踏んではいけない「地雷」がある。
 
「地雷」の例をひとつ示せば、レティサンス(黙説法)の破壊だ。
あえて言い落とすことによって観客に想像させたり、余韻を感じさせたりする意図で書かれてある(書かれてない)台詞を、俳優がアドリブで「説明」して台なしにすることがある。  
俳優は己の「内面」に従ったのだろう。演じる際に「気持ち」が大事なのは確かだが、「気持ち」一本槍で行くと、こういうことが起こる。 
それを避けるため、私はあらかじめ「地雷」のありかを劇構造のレベルで出演者に示しておくというわけだ。

2015年2月20日 (金)

選択的夫婦別姓

自分さえ良ければいいのか、と問われれば、基本的に、その通り、と答える自分勝手な人間なので、自分が困らない限り、他人の価値観にも干渉しない。(ハズなのだけど、実際には、言わんでいいことまで言って、鬱陶しがられている。)
   
  「選択的夫婦別姓」の話。...

別姓でも同姓でも夫婦の好きにすりゃあいい、というのが私の基本的なスタンス。
いやいやそんな単純な話じゃない、という、主に保守派による「反対」意見があることぐらいは知ってる。
だが、私の知る限り、それらのほとんどは〈家族の絆〉系の、いわば「価値観」の話で、それが「同姓/別姓」とどれほど因果関係があるのかも甚だ怪しいし、法改正がもたらす「災難」も、蓋然性の疑わしい「物語」にすぎない。何度も言うが、そういう「物語」はいくらでも交換可能なのだ。そんな話に私はノレない。

じゃあ、私が「選択的夫婦別姓」推進の立場なのか、といえば、そうじゃない。むしろ法改正には反対だ。

仲正昌樹著『精神論ぬきの保守主義』の「第一章 ヒューム ― 慣習から生まれる正義」の記述を一部抜粋すれば、
  〈ヒュームは、「習慣」こそが「正義」を生み出すと考えたのである。〉
  〈「権利」や「責務」などの観念は、経験に裏付けられた「黙約」に由来するものであって、自然状態に生きる人たちが自らに内在する理性に従ってアプリオリに抱くものではない。〉
  〈ヒュームは、私たちが「民法」と呼んでいるものの基礎となる、人々の間で慣習的に確立された、水平的な(利害)関係を起点として、「自然法」が、そして「社会」が形成されると考えるわけである。〉

また、同書の「第二章 バーク ― 相続と偏見による安定」では、
  〈統治体制は、それが、納得できる便宜性の諸原理(principles of cogent expediency)を備えていることを示すことによって、人々に承認され、継続していく間に正当性を増していくのである〉

つまり、ある特定の社会を貫く「時間」が、法や制度に正当性を与えている、という考え。キザな言い方すれば「時の洗礼」。
で、概ね私もそう思っている。
むろん、法や制度が時代にそぐわなくなったなら、「納得できる便宜性」を回復するために、改正は必要だ。その場合、現行法/制度が「納得できない」ほどに誰かの「便宜性」を損なっているという具体的事例を、「改正」を求める側が示し返す必要がある。
  情緒的な物語=「価値観」の問題ではなしに、だ。
  今、それが何か示されているか?

口裂け女

昔、「口裂け女」っていうのがいたんです。
若い人は知らないかもだけど、顔の下半分を覆い隠す大きなマスクをしてて、学校帰りの少年少女に「あたし、きれい?」と聞いてくる。 「きれい」と答えれば、マスクを取って「これでもか!」と、耳元まで裂けた口を見せるし、「きれいじゃない」と答えれば、激昂し、鎌を振り回して追いかけてくる。
いったいどうしろというのか?

〈いた〉というのは、目撃証言があるんですよ。私の同級生のお兄さんの同級生の妹の同級生が、学校帰りに見たという。川の水で鎌を洗っていたんだって!
当時、少年少女は、結構マジでびびったもんです。
そんな童心を忘れず、〈同級生のお兄さんの同級生の妹の同級生〉レベルの話を眉に唾つけることもなく鵜呑みにする、ステキな大人が世の中にはいっぱいいるのだなあ。

2015年2月19日 (木)

「感情」連絡図

通俗的な文脈で使われる「権力」という言葉は、漫画チックな「支配/被支配」の構図をすぐに連想させるけれど、〈権力とは、一つの制度でもなく、一つの構造でもない、ある種の人々が持っているある種の力でもない。それは特定の社会において、錯綜した戦略的状況に与えられる名称なのである〉とフーコーがいうような意味での「権力」のイメージは、たとえば複式簿記の考えに通じるところがあるんじゃないか(ちょっと違うかという気もするけど)と私は思う。

つまり取引の二面性。その総体としての「権力」。「権利には義務が伴う」というのも、「道徳」なんかを絡めないでも、〈力〉の「仕訳」で説明できるんじゃないか、という気がする。

民主主義において、選挙を通じて選ばれた者は、その内部に何らかの力を備えた「権力者」なんかじゃなく(原理的に言って、そんなものはどこにもいない)、いわば〈権力=取引の総体〉の「執行官」にすぎない。だから交換可能なわけだ。
すると議院内閣制は「勘定連絡図」のイメージ。
と、今、書いてみたところ、「感情連絡図」と誤変換し、なるほど、それも言い得て妙かも、なんて思ってしまった。

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2015年2月17日 (火)

迷惑

http://mainichi.jp/feature/interview/news/20150213mog00m040014000c.html

『自分にウソをつくのはダメだと思う。僕は考えないで失敗したこともあるから。』

って、「徳川埋蔵金」のことを言ってるのかと思ったら、「まず、総理から前線へ。」のことでした。

『戦争に対する考えが深まっていないですよ。戦争はゲームや子供のチャンバラごっこではない。単純に戦争になった時に総理が前線に行けばすむっていう話じゃないんじゃないって思う。これは何かをやりたければ、「○○をやってから言え」っていうのと同じ論理だもん。紋切り型を上手な決まり文句にしただけですよ。決まり文句で批判するだけで、戦争を無くすこともできなければ、実際のところ何にもなんない。ちょっと考えが甘いし、鳩の絵を描けば平和っていうのと同じ感じで引っかかります。』

つまりあれに群がった左巻きどもと同レベルのオツムと思われるのは迷惑ですっていう話か。

タタキ場

ハコモノ行政を批判されて、ワークショップだなんだと企画をするのも結構だけど、こういう空間を舞台美術のタタキ場として解放してくれるだけで、芝居屋はどんなに助かることか。
と、こんな行政批判だけなら誰でもできる。
「権力とは、一つの制度でもなく、一つの構造でもない、ある種の人々が持っているある種の力でもない。それは特定の社会において、錯綜した戦略的状況に与えられる名称なのである」とフーコーは言った。
わかったようなわからんような話だけれど、要するに特定の社会=地域住民の合意が得られなければ、行政も動きようがないのは当然だ。
では「合意」を得るための働きを当事者である私自身が何かやっているのかと問われれば、何もやっていないので、黙るしかない。

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歴史的検証

深沢七郎『楢山節考』の「姥捨て」は嘘話らしいけど、各地にある「人身御供」の伝説なんかは泉鏡花『夜叉ヶ池』にも出てくるし、柳田國男『一つ目小僧その他』にも記述があって、きっと史実なんだろうと思う。

その時代の「人の命」と、福田赳夫が地球より重いといったそれとでは、根本的に「質」が異なるんだろう。時代の価値観というか、パラダイムというかエピステーメーというか、とにかく今とは思考の枠組みがまるで違う。「人身御供なんて非科学的ですよ。そんなんで雨なんか降りませんよ」と言ったところで、『夜叉ヶ池』の住人には通じやしない。
 
その異なる「思考の枠組み」が、同時代に、地続きの場所に存在する恐ろしさ。
今日、リドリー・スコット監督『悪の法則』を観ながらそんなことを思ったのだけど、これってつまり、ISILの事件で感じたことだ。

共産党の志位和夫はtwitterでこう言っている。

『「イスラム国」のような過激集団がどうして生まれたか。大きな契機となったのがアフガン・イラク戦争だ。マレーシアのナジブ首相は「1人の悪魔を攻撃し、より大きな悪魔が現れた」。無法な戦争の混乱の中からモンスターは誕生した。テロを一掃する上でもアフガン・イラク戦争の歴史的検証は不可欠だ。』

歴史的検証が不要だとはいわないが、それで「テロを一掃」できるなんて到底思えない。「無法な戦争の混乱の中からモンスターは誕生した。」というのが、仮にその通りだとして、それもまた近代的な思考の枠組みの中での「我々の物語」にすぎないのだ。
それとはまったくフェーズの異なるところに今、「彼らの物語」はある。そして我々は、そんな「彼らの物語」の登場人物に、一方的にされているのだ。
ここに危機感を持たず、「悪」の起源論にうつつを抜かして、いったい何が政治家か。

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大量入社

http://newsbiz.yahoo.co.jp/detail?a=20150216-00060566-toyo-nb&ref=rank&p=1

「バブル絶頂期。入社式は武道館とか大きなコンサートホールで華々しく実施していました(中には有名バンドなどを呼んで、ライブを行う会社も)。すると、
《●●社、1000人規模の入社式を大掛かりに演出。レーザー光線も登場》
と、その模様がニュースなどで紹介されたもの。こうした光景を「うらやましい」と感じて、翌年以降に応募する学生がたくさんいました。」

まさにその「バブル絶頂期」(より、やや後期か)の大量入社世代ですけれども、「うらやましい」なんて1ミリも思いませんでしたよ。単に「バカじゃなかろか」としか。
採用される側にも頭オカシイのがいっぱいいました。今でもよく覚えてるのは、8月1日の拘束日(つうのがあったんですよ)に、同じ大学の女子学生がリクルーターにした質問。
「年収いくらですか?」
リクルーター、びっくりしたようですが、答えましたよ。すると女、深く溜息をつき「やっぱりメーカーって安いんですね」。
まわりの男子学生、どん引きですわ。
しかも何が気にくわなかったのかその女、翌朝、部屋に引きこもっちゃって出てこない。ひょっとして中で死んでるんじゃなかろうか、とまわりは大騒ぎ。天岩戸状態です。そのうちしれっと出てきましたけれども、結局、理由はわからずじまい。
こんなのが一部上場企業の最終選考をパスしちゃうんです。これぞバブル!
入社5年目で年収600万という給料の安さ(これが「安い」とされていたんですよ!信じられる?)に内定辞退したのか、さすがに落とされたのか、その後二度とその女の姿を見かけることはなかったです。

「緊急拡散!」?

こんなものに、おのが幼稚な世界観を刺激され、「緊急拡散!」に荷担するメンタリティ。それは「放射脳」と同一のものだし、実際、同一人物だったりするのだろう。
世界の構造を「知りたい」素振りは見せるくせに、決して何も学ばない。これを正真正銘のバカという。
こういう連中のせいで日本のサヨクはバカの代名詞になってしまった。まっとうな左派が形成されないと弁証法も成り立たない。

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2015年2月15日 (日)

思考の手段

思考しないから言語が「思考の手段」であることに気づかないんです。とくに「地球市民」の皆さんなんかは、あらかじめ己の内に普遍的な自我というもんがあって、たまたまそこにあった日本語を使用しているつもりなんでしょうけど、その自我こそが母語/母国語に規定されていて、そういう意味で否応なしに伝統的なんだ。ということがわかっていない。

ジャミラ

ISILは、たとえば『ウルトラマン』の「ジャミラ」なのかもしれません。
〈元々は、宇宙開発競争の時代に某国が打ち上げた人間衛星に乗っていた宇宙飛行士「ジャミラ」であり、正真正銘の地球人であった。事故によって水のない惑星に不時着し、救助を待つ間にその惑星の環境に適応して体が変異し、怪獣の姿になった。〉
「水」が最大の弱点というのが物語上、泣かせるわけですが、その弱点を突く形でウルトラマンは闘うんです。葛藤を引き受けるんですよ。
しかし志位さんは、そういうの一切引き受けない。代々木あたりの安全な場所でウルトラマンの武力行使を批判し、そもそもジャミラが発生した原因を究明せよと悠長なことをいう。
そういう「弱者に寄り添った私」に寄り添うのみの卑怯者が、ウルトラマン以下の情緒で日本の政治をやっている。

思考の枠組み

深沢七郎『楢山節考』の「姥捨て」は嘘話らしいけど、各地にある「人身御供」の伝説なんかは泉鏡花『夜叉ヶ池』にも出てくるし、柳田國男『一つ目小僧その他』にも記述があって、きっと史実なんだろうと思う。

その時代の「人の命」と、福田赳夫が地球より重いといったそれとでは、根本的に「質」が異なるんだろう。時代の価値観というか、パラダイムというかエピステーメーというか、とにかく今とは思考の枠組みがまるで違う。「人身御供なんて非科学的ですよ。そんなんで雨なんか降りませんよ」と言ったところで、『夜叉ヶ池』の住人には通じやしない。
   
その異なる「思考の枠組み」が、同時代に、地続きの場所に存在する恐ろしさ。...

今日、リドリー・スコット監督『悪の法則』を観ながらそんなことを思ったのだけど、これってつまり、ISILの事件で感じたことだ。

共産党の志位和夫はtwitterでこう言っている。
『「イスラム国」のような過激集団がどうして生まれたか。大きな契機となったのがアフガン・イラク戦争だ。マレーシアのナジブ首相は「1人の悪魔を攻撃し、より大きな悪魔が現れた」。無法な戦争の混乱の中からモンスターは誕生した。テロを一掃する上でもアフガン・イラク戦争の歴史的検証は不可欠だ。』

歴史的検証が不要だとはいわないが、それで「テロを一掃」できるなんて到底思えない。「無法な戦争の混乱の中からモンスターは誕生した。」というのが、仮にその通りだとして、それもまた近代的な思考の枠組みの中での「我々の物語」にすぎないのだ。
それとはまったくフェーズの異なるところに今、「彼らの物語」はある。そして我々は、そんな「彼らの物語」の登場人物に、一方的にされているのだ。
ここに危機感を持たず、「悪」の起源論にうつつを抜かして、いったい何が政治家か。

2015年2月13日 (金)

雇用市場

「ピケティ特集」目当てで買った経済誌をパラパラめくってみる。
「雇用」と「大学」にかんする記事に目がとまったのは、それに関係する芝居を今、書いているから。
 

1969年に日経連が「能力主義管理 その理論と実践」という報告を発表。これは終身雇用・年功序列を前提とし、新卒一括採用で、時間をかけて人材育成するという発想。これが、ゼネラリスト>スペシャリストという、私らバブル世代にも支配的だった価値観の後ろ盾としてある。

1995年にこれが大きく変わる。
日経連は「新時代の『日本的経営』」という報告を発表。長期雇用と短期雇用を組み合わせたポートフォリオの考えを打ち出し、この戦略変換を国の政策が支えた。一連の「規制緩和」が、それ。
 

雇用市場の変化は大学のありようにも影響する。
95年以前では、就職時に「専門」が重視されないから、大学はアカデミズムに専念できた。(ま、実際には、「夏はテニス冬はスキー」のバカ学生を量産したし、芝居なんぞに明け暮れてぜんぜん授業に出てこない、私のようなチンピラを生みもしたわけだが)。
それが、95年を境に、学生がやたら「資格」だなんだと言い出すようになる。たとえば『資本論』なんか読んでる暇があったら簿記でもやった方が社会に出てから役に立つ、というわけ。
   
私は、こういう時代背景の変化を「実感」として理解できてないもんだから、「なんだか最近の学生は妙に打算的だなあ」などと、思っていたわけです。

2015年2月12日 (木)

地平線

千歳空港から札幌駅に向かう列車の窓外の風景に「ああ北海道に来たのだなあ」と感じた、と、大学時代に、東京出身の友人が言うのを聞いて、私は「いや、べつに」って感じだった。
だって、あの程度の風景は、グンマーである私にとっては何でもない。近所で、よく見る。
で、この「問題」を私はずっと、〈田舎者/都会人〉の図式で考えていて、それが間違いであることに、最近気づいたのだった。
そんじょそこらの「田舎者」では、やはり「ああ北海道に来たのだなあ」と感じてしまう。「地平線」が珍しいのだ。「地平線」を持ってるのは、北海道と北関東だけ(たぶん)。だから関東平野の田舎者=グンマー(およびその周辺)の〈選ばれた〉者のみが、千歳空港-札幌駅間の風景を「いや、べつに」と受け流すことができるのだ。
というのが私の仮説なのだけど、あってるかなあ?

独善

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-238520-storytopic-3.html

〈市民らに対する海保の暴力的な行為はカヌーから海に落としたり、外洋に置き去りにしたりするなど過激さを増している。〉と、それがあたかも揺るぎない「客観的事実」であるかのように琉球新報の記者は書くが、しかし取材に対して海保は〈「海上の安全と法令励行の観点で適切に対応した」と答えていた。〉わけで、ならば、この記者は海保の言い分を完全に退けたことになる。
その根拠は何か?
それは、自分の依って立つ政治的こそが「正義」であるという独善による。コントラストとして海保の「極悪ぶり」が漫画チックに強調されるわけだ。
何よりこの新聞が致命的なのは、こうした報道姿勢を一向に改めぬことにより、紙面上の言葉が完全にインフレをおこし、もはやある種のイタイ属性を持った人間の「信仰」を集めることしかできなくなっていることだ。

幽霊

http://www.sankei.com/affairs/news/150211/afr1502110026-n1.html

この報道に対して、さっそく「いや、〈事実〉と違う」と、その場にいた者の「目撃談」が出てきてる。
で、私がいつも思うのは、こういうこと。
つまり、「目撃=体験」というものは、その主体にとってはものすごく大きなもので、それこそが「真実」であるわけだけれど、その信念にも、水を差してみなさいよ、と。
しばしば自然科学的な発想で、「事実」はひとつと言われ、誰もがそう思い込みがちだけれども、そんなことはないわけ。「目撃談」なんてものは、そこで起こった〈事象の解釈=物語〉に過ぎないんだ。これはべつにニヒリズムでいうんじゃないんだよ。とくに当事者であればなおさら、「目撃」という行為じたいに、政治的なバイアスがかかっている。そういうもん。
それが証拠に、政治的属性を同じくする者同士で、「目撃談」が割れるでしょう? それは必ずしも、どちらかが嘘をついてるってわけじゃないんだよ。
幽霊を見た者は、たしかに幽霊を見ているの。

2015年2月 9日 (月)

過去の遺物

若い人は知らないだろうけど、昔、8ビットパソコンつうもんがあったのだ。
NECがPC88、シャープがMZシリーズを出してた。
MZシリーズつうのはクリーンコンピューターを自称してて、何が「クリーン」かといえば、要するにOSが交換可能なのだった。
だから、その意味で決して「古く」ならない、というのがウリだったのだけれど、時代は進み、あっというまに「過去の遺物」になった。

濫用

ゲーテの言葉「言論の自由を呼号するのは、それを濫用しようとする人間のみだ」。
〈現体制〉には敏感に反抗する素振りを見せるのに、〈反体制〉という〈体制〉にはまるで従順な人たち。「身体を張った」ふりをして、己の思考停止を正当化するのみ。質より量といわんばかりに阿呆が徒党を組みたがる。
たとえば、なんですか、こりゃ。ま、自らバカの一覧表に名を連ねるのは勝手ですけど。


http://ref-info.com/hanyokusan/

2015年2月 8日 (日)

<シリア渡航表明>男性にパスポート返納命令 外務省

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150207-00000092-mai-pol

『旅券法では「名義人の生命、身体または財産の保護」に必要な場合、返納を命じることができる。外務省によると、この規定を適用した返納命令は初めて。』

つまりこれ「自由」と「公共の福祉」にかんする問題だ。
さすがにこの時期、外務省のこの判断にケチがつくとは思えないが、普段なら、「反権力」のジャーナリスト団体などが〈声明〉のひとつも出しそうだ。「権力」の何たるかも理解しないまま。

何を「公共の福祉」とするか、その線引きには感覚に個人差がある。それは当然のことで、だからこそ、この手の問題は一人称単数形で語られるべきだ、と私は考える。
少なくとも合意形成過程が不透明なまま複数形の主語で語られるべきじゃない。なぜならそのような〈わたしたち〉が発する言葉は、責任の所在が不明なばかりじゃなく、その構造的欠陥を隠れ蓑にして、ある特定の〈個人〉の声の増幅装置として利用されるからだ。
バークは言う。
「個人なら自由を得ても分別がきくが、集団が自由を得ると暴力的な権力を手にしたことになる。」

地味

執筆中は、自分の書いたものから影響を受けて、他にも書くべきことがいっぱいあるなあ、と思う。
実力不足で、なかなか筆が追いつかないのだけれど、今回書こうと思っていて書けなかったエピソードや、そういういろんなことに、ひとつずつケリをつけていかなきゃならない。
しばしば「地味」と評される作風は、今後ますます地味さを増していくだろう、という気がする。
けれどあくまで「下世話」な芝居でなきゃダメだ。決して「アート」になってしまわぬよう、気をつけないと。

2015年2月 5日 (木)

嘘話

来月5歳になる息子がテレビで国会中継を見てたんです。私が「お誕生日のプレゼント何が欲しい?」と聞くと、息子が振り向いて、「マトモな野党」というんです。
と、社民党や共産党がやるような、バレバレの嘘話をしてみました。

2015年2月 2日 (月)

自己責任論

小学生の頃、利根川の支流の淀みでよく小魚をとって遊んだ。しかし親からも学校からも、決して川の本流には近づくな、と釘を刺されていた。
毎年、流されて死ぬ子供があるからだ。
親は言う。流されれば、警察やら何やら大勢の人に迷惑をかけることになるのだから、と。しかしそれはもちろんパフォーマティブな言い方で、そんなことが、私の「自由」を制限する理由じゃない。
  〈流されれば私が死ぬ〉からだ。
「迷惑」云々は、コトの重大さをガキにもわからせるための方便にすぎない。そんなことは、大人でありさえすれば、相当のバカでも理解できる。

朝日新聞特別編集委員が「読売に抜かれてるぞ、がんばれ産経」などと、挑発的かつ幼稚なツイートをしてるんだとか。https://twitter.com/tanutinn/status/561508494260850688
淀みで遊ぶ私(ら)を尻目に、ザブザブと本流に入り、やや大きめの魚を手にして戻ってくれば、「虎穴に入らずんば虎児を得ず」と説教の一つも垂れそうだ。
それでも、もしも彼が溺れたら、私(ら)は彼を見殺しにすることはできない。そういう「自由」は私(ら)に認められていない。この非対称性。

いわゆる「自己責任論」というのが、こうした文脈上に現れる=召喚されるのだということは、よく記憶しておいた方がいい。

責任転嫁

テロそのものより、テロリストによる犯罪を我が国の首相に責任転嫁する、ものの因果関係を理解しないオツムの持ち主が選挙権を行使する恐ろしさ。

テロ根絶

「テロ根絶」という困難な命題に、武力か否かという、またぞろ極端な排中律で挑んでしまう浅はかさ。

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