思考の足跡
山本七平氏はその代表作『「空気」の研究』の中で書く。
「簡単にいえば原子力発電について三、四時間かけて正確な情報を提供し、相手の質問にも応じ、相手は完全に納得したはずなのに、相手はそれで態度は変えない。そして、いまの説明を否定するかの如く見える一枚の写真を見せられると、その方に反応してしまうという。」
この強度な思い込みを山本氏は対象の「臨在的把握」と呼んだわけだ。
私なりに咀嚼すれば、〈社会通念の呪詛〉とでもいうか。この呪詛に、むしろ積極的にとらわれ続ける態度を「信念を貫く」と評価する者があるが、私に言わせりゃそんなもの、単なる思考の怠慢だ。
なるほど「社会通念」というものも、それが通念化するにはそれなりのプロセス=歴史があったわけで、一概に排除することはできない。だが、この世界は、ベクトルの異なる複数の文脈=コンテクストの織物=テクストとしてあるわけで、「社会通念」というものは、その社会に閉じた〈みんな〉に馴染み深い文脈のひとつに過ぎない。
「臨在的把握」とは、この馴染み深いコンテクストに全面的に帰依することで、その他のさまざまな〈思考の足跡〉とでもいうべきものを無効化してしまう行為なのだといえるんではないか。
ではなぜ、こうした「帰依」が起こるのか?
私はこう考える。つまり、「思考」は〈みんな〉に任せて、自分は〈手柄〉だけが欲しいのだ。平たくいえば、ラクして“善人面”したい。
むろんそれが動機のすべてと決めつけることはできないが、少なくとも私の目に、そう見える人が相当数いる。
「殺人はいけないことだ」そりゃそうだろう。「他人を思いやる心は素晴らしい」そりゃそうだろう。あとはこの〈そりゃそうだろう〉に目配せしながら、社会通念を「自分のコトバ」に偽装すれば、おのがアイデンティティのできあがり、というわけだ。論理の飛躍など気にしない。せいぜい「相関関係がないとはいえない」程度に“正しげ”であれば上出来だ。
なにせ、自分のバックには〈みんな〉がいる!
だが私は、そんな善人面のデキバエになど、ひとっつも興味がないのだ。「あなたっていい人ね」「いえいえ、そういう、あなたこそ」と、せいぜい偽善者同士で承認し合っているがいい。
私は〈思考の足跡〉こそを問題にしているのである。
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