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2015年1月

2015年1月31日 (土)

規約

善意や内発的動機に依拠した「自治」なんてもんがいかにアテにならないか。
ペットの飼育は今まで「黙認」されてきたが、だいたい「黙認」だって、違反者が当然抱くであろう「後ろ暗さ」を前提にした〈善意=優越感〉なわけで。それがひとたび踏みにじられれば、〈かわいさ余って憎さ百倍〉的に、むしろ相手への攻撃性へと反転する。
集合住宅はまさに「ムラ」だ。

規約というのは、改正しようと思えばできる。〈ペット可〉のマンションにしたい、というなら、そういう手続きの道もある。非常にハードル高いが。
もともと〈ペット不可〉だから入居した、という人は到底納得できないだろうが、しかしそもそも規約じたいに「規約変更」の可能性が含まれているので、論理的には、これに従うか、あるいは転居するかの二者択一。後者の際には補償の問題になってくる。

と、今、何が論点であるのかを確認しつつ議論がされればいいのだけれど、それこそが「ムラ」では難しい。あえて「まあまあ」と白黒ハッキリさせず、現実と規約の乖離を「グレーゾーン」にしておくことが、違反者の暴走を食い止める、という考えがまかり通ったりもする。
憲法九条みたいな話だよ。

違反者にだって違反者なりの「物語」があるわけだ。
たとえば子供に恵まれぬ高齢者で、唯一ペットの飼育だけが生きる活力になっている、と俗情に訴えられれば、無下にダメとは言いにくい雰囲気ができあがる。「子供のない自分の気持ちがあなたにわかるか!」となる。〈杓子定規な規約の運用が孤独な高齢者の生きがいを奪う〉という「物語」。
かように「物語=正義」というものはいくらでも交換可能なのだ。
それを相対化するにはメタ視点に立つ必要があるわけだが、まず、「ムラ」ではこれがなかなか理解されない。互いに情緒を強調し、人格攻撃の泥沼に落ちていく。
そして結局、規約に違反しているか/してないか、ここに議論は戻ってくるんだが、長い話し合いの間にその過程が忘れ去られ、あるいはこれが集合住宅の特徴で途中で人が入れ替わり、話は堂々巡りを繰り返すわけだ。

2015年1月30日 (金)

空疎

「オオカミが来たぞ」というから集まってみれば、いたのは兎で、「ごめん、間違った」と素直に頭を下げればいいものを「この兎をキツネが食い、キツネをオオカミが食っていずれ現れることになるのだから、これは広義のオオカミだ」とかヘンな屁理屈を繰り出すから、言葉がどんどん空疎になる。

2015年1月29日 (木)

お天道様

無神論者とはいわないが、「神」を普段明確に意識しない、私を含む多くのフツーの日本人にとって、「天網恢恢疎にして漏らさず」だとか「お天道様が見てる」だとかって、わかったようで、実はよく、わからない。
いったい「お天道様」の正体って何なのか?
「世間の目」だとか「同調圧力」と解釈されがちだけれども、それも、ちょっと違う気がする。「良心」といってしまえば、そりゃまあそうなんだが、そもそも「善悪」が相対的である以上、何が「良心」で何が「悪心」なんだか、決められない。
一時期、現象学で説明がつくんではないか、と思ったことがあったのだけど、うまくいかず、結局考えるのをやめてしまった。

それと関係あるような、ないような話なのだけれど、「善」やら「自由」やら「正義」やら、その手の言葉をやたら軽々しく口にしたがる人がいる。
彼らに共通の傾向として、どうも自分がアプリオリに近代人としてこの世に生を受けた、と思い込んでるフシがある。少なくとも私にはそう思えてしょうがない。
確かに、人生一回こっきり。仮に輪廻転生を信じるにせよ、この世で他の時代、他の土地、他の親の下に生まれ直すなんてことはありえないわけだから、今の自分の境遇を「自明」とするのも、むしろ当然のことなのかもしれないけれど、私自身は、なんかもっと、遠い過去から流れる時間の中に偶然ポトンと産み落とされた、というような感覚がある。

2015年1月27日 (火)

ハシカ

「お腹の回りについたぜい肉が玉にキズだったけど、ふなっしー顔負けで何度も跳びはねたりと精力的に動いていた。」

昭和の頃、まさかジュリーが、ふなっしーに喩えられる日が来るとは思わなかった。

「20歳までに左翼に傾倒しない者は情熱が足りない。20歳を過ぎて左翼に傾倒している者は知能が足りない」というが、いい年こいて山本太郎氏などにシンパシーを抱く者を見ると、「ハシカはガキのうちにかかっとけ」と思ってしまう。
「ハシカ」というのはもちろん比喩で、つまり自分の唱えた原理主義的な「正しさ」で実生活を生きてみろ、少なくとも生きようとしてみろ、ということだ。そうして実感した「矛盾」「割り切れなさ」を我が身に引き受ければいい。それは単なる「妥協」ではない。独善を相対化するきっかけを得たのであり、それでやっと思考のスタートラインに立ったのだ。
まっとうな大人はたいてい、そうしたプロセスを踏んでるもんだ。

ヘイト

「あたかも慰安婦そのものがなかったかのような言説が飛び交っている」というが、いったい、どこで?
  身勝手な現実の解釈に基づき、「自民党=ネオナチ」などと結論づける、こうした単細胞の先鋭化こそが、池内さおり氏自身の憎む〈ヘイト〉の成分そのものだよ。

http://youtu.be/GnOuJglEmiE

2015年1月26日 (月)

手段の目的化

政権批判という手段の目的化。
「ケンジを救え」などと、誰の目にもわかりやすく、それじたい反論の余地がない標語と抱き合わせる形で、〈I am not ABE〉を正当化する。
  
思考停止を〈ソボクな人間性〉にすり替え、渋谷辺りの道端で売ってるポエムのような「善意」を強調する。それをタコツボ化した仲間内で互いに承認し合う構造は、「放射脳」と一緒だ。実際、二つの集合は多くの部分で重なり合っているように、私には見える。
 
しかし「善意」というなら、オウム真理教のいう「ポア」だって、『死に際して、その魂を高い世界に移し変える(転生する)』という、彼らなりの「善意」に基づく「正義」であったはずだ。
 
牽強付会で独善的。今、〈I am not ABE〉な連中が掲げる「正義」は、オウムのそれとよく似ている。

2015年1月25日 (日)

耐用年数

戦後70年。『高度経済成長第一期(設備投資主導型)が1954年(昭和29年)12月から1961年(昭和36年)12月まで、高度経済成長転型期(転換期)が1962年(昭和37年)1月から1965年(昭和40年)10月まで、高度経済成長第二期(輸出・財政主導型)が1965年(昭和40年)11月から1973年(昭和48年)11月までとされる。(Wikipedia)』

鉄筋コンクリートのビルの法定耐用年数が60年から65年だという。古い「団地」なんかはすでに建て替えが進んでいる。
文化施設の改修なんかも、当然、この文脈上にある。
確かに古い建物が姿を消すのは忍びない。軽度の「団地マニア」でもある私は、その心情を共有してる。
けれど、奇妙な選民意識に彩られた「文化」側の人間の、「文化=善/行政=悪」という“いつもの”単純な二元論に基づくおのが情緒の強調が、あるべき合理的議論を阻害していることは指摘されなきゃならない。

コンセンサス

日本国憲法第12条【自由・権利の保持の責任とその濫用の禁止】
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

しかしどこからが「濫用」か、その線引きは難しく、さまざまな議論が尽きない。だからこそ、コンセンサスの形成過程が客観的に示されない以上、安易に一人称〈複数形〉で語られるべきじゃない、と私は考える。
そのことこそが個人の自由を侵しているからだ。

片棒

http://news.livedoor.com/article/detail/9711690/

殺害が事実であろうとなかろうと、このような揺さぶりをかけてくるテロリストは、テロを安倍政権批判に結びつける勢力が日本国内にあることを、よく知っているに違いない。
彼らにテロの片棒を担いでいる自覚はあるのか?

人/機械

人間が一人、ただそこにある、というのを眺めるときでさえ、彼/彼女の背後に〈今/ここ〉につながる膨大なコンテクスト=歴史を、私たちは(無意識のうちに)読み取っている。
この情報量の違いが〈人〉と〈機械〉を決定的に隔てるのではないか?
ナマミの人間が否応なしに身に纏うこの〈歴史〉を、テクノロジーが克服する日は来るか?

2015年1月24日 (土)

人間じゃない

小学校の時、『ドラえもん』の登場人物の中で、もしも自分がなれるとしたら誰になりたいか、という問いに、友人の多くが「のび太」とこたえるのに驚いたものだった。
私は、迷うことなく「ドラえもん」。『オバケのQ太郎』では、「正太」でなしに当然「Q太郎」だった。
「ドラえもん」も「Q太郎」も人間じゃねえじゃん。と、友人たちは言うのだけれど、だったら「魔法使いサリー」だって「サイボーグ009」だって、人間じゃないのだ。
 
 

場当たり的に善人面したい症候群

物事を一面的にしか見ることのできない、〈場当たり的に善人面したい症候群〉の「患者」が、今度は【[緊急署名]イスラム国周辺国への2億ドルの人道支援を留保し、日本人人質の人命を救ってください】ですってよ。

後藤さん母の声明全文 2邦人殺害予告

http://www.47news.jp/CN/201501/CN2015012301001310.html

後藤健二さんの母石堂順子さんが23日発表した声明の全文は次の通り。
私は石堂順子と申します。ジャーナリスト後藤健二の実の母親です。多くの外国人記者の皆さんにお集まりいただき、感謝します。日本国民・日本政府の皆さん、諸外国の皆さんに健二が大変ご迷惑をおかけしていることに心よりおわびします。私はこの3日間、ただただ悲しくて、泣いていました。表現できません。健二は幼い頃から心の優しい子でした。健二はいつも「戦地の子どもたちの命を救いたい」と言っていました。中立な立場で戦争報道をしてきました。イスラム国の皆さん、健二はイスラム国の敵ではありません。解放してください。日本は戦争をしないと憲法9条に誓った国です。70年間戦争をしていません。日本はイスラム教諸国の敵ではなく、友好関係を保ってきました。日本は唯一の被爆国です。アメリカによる広島と長崎への原爆投下で数十万人が亡くなりました。あと残された時間はわずかです。日本政府の皆さん、健二の命を救ってください。

ああ、イラク人質事件と似たような構図になってきた。また暫く、文脈を理解しない者たちから、「動機の純粋性」(丸山眞男)に基づく稚拙な正義論を聞かされることになるのだろう。

就活

もしも大企業に就職できる環境にあるのだったら、しといたらいい、と私は思う。良くも悪くも「組織」の何たるかを、身をもって学ぶことができるから。
もっとも当人にその自覚があればの話だけれど。

不当

「不当」というならそう判断するに至った客観的な根拠を示すべきであって、単になんとなくおのが思想信条に反するから、では「不当」が言葉のインフレをおこすばかりだ。

2015年1月21日 (水)

殺害警告

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150120-00000080-jij-pol

〈安倍晋三首相が先にカイロで行った演説でイスラム国対策として約2億ドルの支援を表明したこと〉が〈日本人殺害警告の理由〉であるという犯人側の言い分を真に受ける、というよりむしろこれ幸いとばかりに安倍批判に活用する、物事の因果関係をまるで理解できない日本国内のクルクルパーを当て込んでの犯行であると、私には思えて仕方がない。

2015年1月20日 (火)

ミハイル・カリク『太陽を追う少年』

2015年1月19日 (月)

圧力?

http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/156485/

爆笑問題が「言論統制なんてない」ってことを言うと「“圧力”にすぐに反応」したことになるの?
爆笑問題もずいぶんナメられたものだな。
記事によれば、鳥越俊太郎が「枠からちょっとでも外れたことを言うと、突出してしまい、こうした事態に追い込まれるのは実にイヤな風潮です。」といったようだが、自分の想定したシナリオからちょっとでも外れると、単に事実を述べただけのタレントの背後に勝手に「圧力」を嗅ぎ取る、あんたがた左巻きの風潮はどう思ってるのか?

だいたい〈世界中が言論の自由のために結束しているのに、この国だけが逆行している。〉なんていう日刊ゲンダイは、バカなんじゃないかと私は思うし、こんな駄文で原稿料がもらえるなんて、ホント羨ましい。

国が悪い?

何でも「国が悪い」とかいっとけば、最大公約数的な共感が得られると踏んでる浅はかさ。

社会派

遠い、行ったこともない国の「平和」や「人権」には積極的に言及したがる、“意識の高い”社会派演劇人で、拉致問題を語る人を、ほとんど目にしたことがないのだけど、どういうわけなのか? 私が知らないだけなの?

二極化

何についても、とりあえず「二極化」っていっとけば、目の前の「現象」を理解した気になれる。

天文学

この広大な宇宙に比べ、自分はなんてちっぽけな存在なんだ、ああ、日々こうして星空を見上げて暮らしてたい、そうだ、将来は天文学者になろう! 
などと、殊勝なことを思ったこともあったが、天文学者も、研究室内の人間関係とか、結構ドロドロだったりするんだろな…。

少なくても?

「少なくても」は形容詞+接続助詞。
「少なくとも」は副詞。
こんなこと、普段いちいち意識もしないけど、地の文で「少なくとも」を「少なくても」なんて書いてヘーキなツラしてる劇作家なんか目にすると、ちょっと黙っていられなくなる。
しかも素人から金とって戯曲の書き方とか教えてんだろ? まったく厚顔無恥は最強の武器だな。
〈少なくとも〉私はこんなやつに教えてもらう気にはならないね。

2015年1月17日 (土)

国語力

「国語力が学力の基礎」ということは、多くの教育評論家なんかがしばしば口にする「定説」だし、私もその通りだと思うけど、それって単にペーパーテストレベルのチンケな話ではないのだよ。
「言葉」が対話のツールなら、その相手に自分自身を選ぶのが「思考」というもんだ。国語力が乏しけりゃ、必然的に乏しい思考力しか持ち得ない。

共犯

不良が雨の日に子犬を拾う。
主人公だけがそれを目撃する。
手垢にまみれたこのシチュエーションにノレる観客は幸いだ。しかし劇の創り手ならば、それで済ませるわけにはいかない。

なぜ、主人公「だけ」が、目撃するのか? 

実は目撃者は主人公だけではない。
〈あなた〉も見ていたハズである。
こうして〈あなた〉と主人公との間に共犯関係=親密さが生まれる。

topic marker

http://www.nkc.u-tokyo.ac.jp/study_i…/study_info01_04_j.html

読み返せば意味は通じないじゃないが、日本語として相当違和感のある文章に出会い、その原因が「助詞」の選択の仕方にある、というところまではわかったのだけれど、ではなぜその選択がダメなのか、自分の中でうまく説明がつかなかった。
『「は」はtopic marker』
なるほど!

〈雨が降ってる/雨は降ってる〉
この違い。

2015年1月14日 (水)

聖子派/明菜派

浅田の示す80年代の見取り図は、とくに私ら世代(なんとなく『構造と力』くらい読んでおかなきゃいけないんじゃないかという抑圧を感じた)には馴染み深いもんがあって、私も概ね同意できるのだけど、たとえば「クラスは聖子派/明菜派に二分されていた」的な誇張が含まれてることも知っている。

むろんそれは便宜的な「時代」のカリカチュアに過ぎず、実際のとこ、そんな図式に綺麗に収まるはずもないとわかってはいるのだが、繰り返しそうした「物語」を耳にし口にするうちに、あたかも「聖子派/明菜派」が事実であったかのように、自分でも「自分の過去」を錯覚してしまう。

というより、むしろ同世代人が積極的に細部を忘却し、戯画化された「青春」の証言者になろうとしているかのように見え、私は「そんなのウソだ!」と言いたくなるのだった。

2015年1月12日 (月)

情操教育

「情操教育」というものは、べつに幼少期に〈普遍的〉な価値観を植え付けておけ、というものではなく、むしろそれらが後に自身の手によって相対化され、更新され、〈普遍的〉でないことが暴かれるのを期待して、施されるべきものではないか、と私は思う。
児童文学的な世界では、オオカミは常に「悪」である。だが、オオカミにはオオカミの価値観=世界があるのだと、やがて子供はその成長過程で気づいていく。 そうしたまっとうな知性と感性を前提としてやること。それが、子供を「信じる」ということなんじゃないか。
人生にかんする情報量不足からくる〈ピュア〉の側面だけを強調し、妄信的な性善説に基づく放任主義など、ほとんど育児放棄に等しい。

2015年1月10日 (土)

思考の足跡

山本七平氏はその代表作『「空気」の研究』の中で書く。

「簡単にいえば原子力発電について三、四時間かけて正確な情報を提供し、相手の質問にも応じ、相手は完全に納得したはずなのに、相手はそれで態度は変えない。そして、いまの説明を否定するかの如く見える一枚の写真を見せられると、その方に反応してしまうという。」

この強度な思い込みを山本氏は対象の「臨在的把握」と呼んだわけだ。
私なりに咀嚼すれば、〈社会通念の呪詛〉とでもいうか。この呪詛に、むしろ積極的にとらわれ続ける態度を「信念を貫く」と評価する者があるが、私に言わせりゃそんなもの、単なる思考の怠慢だ。

なるほど「社会通念」というものも、それが通念化するにはそれなりのプロセス=歴史があったわけで、一概に排除することはできない。だが、この世界は、ベクトルの異なる複数の文脈=コンテクストの織物=テクストとしてあるわけで、「社会通念」というものは、その社会に閉じた〈みんな〉に馴染み深い文脈のひとつに過ぎない。
「臨在的把握」とは、この馴染み深いコンテクストに全面的に帰依することで、その他のさまざまな〈思考の足跡〉とでもいうべきものを無効化してしまう行為なのだといえるんではないか。

ではなぜ、こうした「帰依」が起こるのか?
私はこう考える。つまり、「思考」は〈みんな〉に任せて、自分は〈手柄〉だけが欲しいのだ。平たくいえば、ラクして“善人面”したい。
むろんそれが動機のすべてと決めつけることはできないが、少なくとも私の目に、そう見える人が相当数いる。

「殺人はいけないことだ」そりゃそうだろう。「他人を思いやる心は素晴らしい」そりゃそうだろう。あとはこの〈そりゃそうだろう〉に目配せしながら、社会通念を「自分のコトバ」に偽装すれば、おのがアイデンティティのできあがり、というわけだ。論理の飛躍など気にしない。せいぜい「相関関係がないとはいえない」程度に“正しげ”であれば上出来だ。
なにせ、自分のバックには〈みんな〉がいる!
だが私は、そんな善人面のデキバエになど、ひとっつも興味がないのだ。「あなたっていい人ね」「いえいえ、そういう、あなたこそ」と、せいぜい偽善者同士で承認し合っているがいい。
私は〈思考の足跡〉こそを問題にしているのである。

2015年1月 9日 (金)

信念

それじゃあ何の説明にもなってないよ、とロジックの不備を指摘すると、それを組み立て直すんでなく、「信念」を強調しはじめるんだからイヤんなっちゃう。

職人

一般に「職人」というのは褒め言葉なのだと思うけど、それって誰の、どんな要請にも器用に応えられる資質の持ち主というイメージがあって、ならば私はおよそ「職人」向きではないし、そうありたいとも思っていない。

2015年1月 8日 (木)

家賃

http://www.homes.co.jp/chintai/hokkaido/price/ 

北18条駅の家賃相場が3.75万円! 東京(っても広いけど)の半分くらい? 今から28年前、私が最初に住んだのは、最寄り駅が札幌駅で、2.5万円。
次に住んだのが北24条で、3.8万円。これ、かなり贅沢でブルジョアと呼ばれましたよ。ただし暖房器具は炬燵しかなくて(ガスストーブがあったのだが、ガス代が高いので自主的に使用禁止)、部屋の中でも息が白かった。
で、学費は年間30万円。今考えると、めっちゃ安上がり。 なのだが、塾講師のバイトが時給800円。飲食店なんかは、どこも500円台だった記憶がある。バブルのときだよ。 東京とどっちが暮らしやすいのかね…?
ちなみに就職先で人気ナンバーワンは「拓銀」だったんではないか。

2015年1月 6日 (火)

向河原

戯曲の取材と称して武蔵小杉(というか向河原)へ。“取材”ったって、何をするわけでもない。新入社員として勤務した会社周辺をぶらぶら歩く。
で、かなり意外だったのが、ぜんぜん懐かしさを感じない、ってこと。当時の建物が取り壊されてビルになってしまった、というのもあるけれど、どうも、そういうんでもない。「ふるさとは遠きにありて思ふもの」ということか。べつに「ふるさと」でもないが。
それでもこうして駄文をしたためていると、いろいろ生々しい記憶が芋づる式に蘇ってくる。それらが、20代の頃には書くことができなかった。書く価値もないと思っていた。地球に住んでると地球の丸さを感じられないように。
とはいえ、私戯曲的なものにするつもりなど、さらさら、ないのだ。取るに足らぬ業界の「裏話」も、むろん「思い出話」も、芝居にする価値など、ありはしない。あなたが知っていて私が知らぬことがあるように、私が知っていてあなたが知らぬこともある。ただそれだけだ。

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2015年1月 5日 (月)

Jaif Tv 特別編 「福島とチェルノブイリ ~虚構と真実~ 」

今から25年以上前、私が札幌で学生をしていたとき、泊原発反対運動を経験した。とくに演劇なんかやってると、その手の「活動家」の学生とも付き合いがあるのだが、彼らに特有の情緒的かつ一面的な「正義」にも、マンガチックな陰謀論にも、私はまるで興味が持てなかった。
そしてそれは今でも変わらない。
リスクを定量的に評価することなく、〈動機の純粋性〉(丸山眞男)を根拠にしてワイドショウレベルの浅薄な善人性の承認を求める。そうした幼稚な思考態度が何をもたらしたか。この期に及んでいまだそれを理解できぬ者を、バカと呼ぶのだ。そうした思考の怠慢こそが「不正義」なのだといい加減知るべきだが、おそらくこれは無理な注文なのだろう。さすがに私も学習した。
つまり、バカは死ななきゃ治らないってことだ。

2015年1月 3日 (土)

正義感

正義感が強い、といえば聞こえはいいが、単にものの見方が一面的で思い込みが強いだけだったりする。

構図

某テント劇団が公演場所を追われていると、芸術家VS国家権力の構図で語っていたが、んなもん、近隣住民からの苦情で行政が動いただけじゃん。どうしてそんな簡単なことがわからないのか

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