規約
善意や内発的動機に依拠した「自治」なんてもんがいかにアテにならないか。
ペットの飼育は今まで「黙認」されてきたが、だいたい「黙認」だって、違反者が当然抱くであろう「後ろ暗さ」を前提にした〈善意=優越感〉なわけで。それがひとたび踏みにじられれば、〈かわいさ余って憎さ百倍〉的に、むしろ相手への攻撃性へと反転する。
集合住宅はまさに「ムラ」だ。
規約というのは、改正しようと思えばできる。〈ペット可〉のマンションにしたい、というなら、そういう手続きの道もある。非常にハードル高いが。
もともと〈ペット不可〉だから入居した、という人は到底納得できないだろうが、しかしそもそも規約じたいに「規約変更」の可能性が含まれているので、論理的には、これに従うか、あるいは転居するかの二者択一。後者の際には補償の問題になってくる。
と、今、何が論点であるのかを確認しつつ議論がされればいいのだけれど、それこそが「ムラ」では難しい。あえて「まあまあ」と白黒ハッキリさせず、現実と規約の乖離を「グレーゾーン」にしておくことが、違反者の暴走を食い止める、という考えがまかり通ったりもする。
憲法九条みたいな話だよ。
違反者にだって違反者なりの「物語」があるわけだ。
たとえば子供に恵まれぬ高齢者で、唯一ペットの飼育だけが生きる活力になっている、と俗情に訴えられれば、無下にダメとは言いにくい雰囲気ができあがる。「子供のない自分の気持ちがあなたにわかるか!」となる。〈杓子定規な規約の運用が孤独な高齢者の生きがいを奪う〉という「物語」。
かように「物語=正義」というものはいくらでも交換可能なのだ。
それを相対化するにはメタ視点に立つ必要があるわけだが、まず、「ムラ」ではこれがなかなか理解されない。互いに情緒を強調し、人格攻撃の泥沼に落ちていく。
そして結局、規約に違反しているか/してないか、ここに議論は戻ってくるんだが、長い話し合いの間にその過程が忘れ去られ、あるいはこれが集合住宅の特徴で途中で人が入れ替わり、話は堂々巡りを繰り返すわけだ。
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