作者の死
〈台詞は一言一句変えてはならない〉
しばしばエライ作家センセイにありがちなこの命題。
これがまかり通る根拠は何か?
ロラン・バルトは「作者の死」ということを言った。
文章はいったん書かれれば、作者自身との連関を断たれた自律的なもの(テクスト)となり、多様な読まれ方を許すようになる。(中略)文章を読む際に、常にそれを支配しているであろう「作者の意図」を想定し、それを言い当てようとするほうが不自然であるとする。およそこうした考え方を、フランスの批評家ロラン・バルトは「作者の死」と呼んだ(『作者の死』〈1968年〉)。(知恵蔵2014)
しかしそれでも現実に「作者」は生きている。
それが証拠にホンの解釈が気に入らないと、作家センセイの意図により演出家が降板させられたり、そもそも上演中止に追い込まれたケースだってある。
これは著作権法に裏付けられた「作者」の仕業だ。〈一言一句〉云々の強制力も、この文脈上にある、というのは、事実。
では、くだんの命題は、単に作家センセイのわがまま=自己顕示欲によるものか?
実は、それも違う。(いや、そういう場合も多々あるみたいだが)
上演に際して、劇作家の意図が必ずしも「正解」であるとは限らない。
そのことを、マトモな作家ならば自覚している。
だが、創作に費やした時間ひとつをとってみても、演者や演出家に比べて作家のそれはまるで桁違いであり、当然、企てられた劇の効果に最も詳しい。その参照先として、「作者」は尊重=活用されるべきなのだ。
うーん、なんだか入り組んだ話になってしまった…。
私の現場に限って言えばこういうことだ。
とりあえず、台詞はそのままの形で口にしてもらう。
文体も含め、そこに仕組まれた劇的効果というものがある(かも知れない)。
その上で、より最適な「解」が見つかれば、指摘してもらいたい。 というか指摘してくれなきゃ困る。
「作者が苦労して書いたのだから」
そんな思考停止により、テクストを〈尊重〉されては困るのだ。
作者の「苦労」など、知ったことではないのである。
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