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2014年12月10日 (水)

〈観客〉

基本的に善人であるA、B、Cの女三人。
共通項として同い年の子供がいるとしようか。PTAの会合の後、喫茶店で談笑している。
今、Aのケータイが鳴り、店の外に出て行った。
さて、残されたB、Cの話題は?

容易に想像されるのは、Aの(Aにとって良くない)噂話、つまり「悪口」だ。
そしてこれが作劇上の定石だ。
こうしたテクスト内の力学がまずあって、それにどれだけ沿うか、あるいは沿わないか、それによって登場人物のいわゆる「キャラ」ってやつが決まってくる。

むろんこれは「現実」とは異なる。
現実ならば、Aの不在中、B、Cは他愛のない天気の話を続けるかも知れないし、加納さん(って誰、それ?)を話題に登場させるかも知れない。
しかし劇でそれをしたら、「あえて」の匂いを否応なしに孕んでしまう。たとえ「日常を切り取ったような」と評される劇であってもだ。
なぜか?
観客が見ているからだよ。

〈観客〉の介在という構造を持つことにより、現実と虚構ではパースペクティブが異なるのだ。このことは書き手はもとより演じ手もよく自覚しておく必要がある。

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