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2014年12月16日 (火)

『「みんな」のバカ! 無責任になる構造』仲正昌樹

「デリダの「無限の他者に対する応答可能性=責任」論は、実は、キリスト教文化圏における「告白」を通しての「無限なる神」に対する「責任」という制度を前提にしているのではないか、と「私」には思われる。」

「フーコーに言わせれば、近代的な自律した「主体」というのは、実は、様々な「みんな=社会」の「代表=表象」制度による教化を通して、告白的な責任構造を「内面」化された存在なのである。」

「『私の個人主義』(1914)という有名な講演によって、日本の「みんな」がなかなか理解できない「自由」と「義務」(あるいは「責任」)の一体不可分性を明確に論じたとされる夏目漱石も、両者の媒介項としての「法」的な強制システムの問題を飛ばして、純粋な良心の話にしているきらいがある。」

「「みんなの正義をみんなで守ろう」という形を取るのが日本的な“みんな”の考え方であるのに対して、西欧個人主義というのは、社会的「正義」をいったん可能な限り個人の「権利」に分解したうえで、責任主体としての「個人」にそれぞれの守備範囲内で守らせていこうという思想である」

「そういう責任の分配・限定の仕組みをあまり考えないまま、漱石以来「みんな」が言い続けている「日本人は、自由には社会的責任が伴うことを知らない」という聞いたような台詞を反復してさえいれば、自らの“社会的責任”を果たしたことになると思っている“良心的な言論人”に、「私」は腹が立っている。」

 私はさらに、著者が腹を立てている「良心的な言論人」の、バカ丸出しの言説を無批判に受容し、模倣=反復する「みんな」にも腹を立てている。
彼らは、「俗情との結託」(大西巨人)=通俗性への依拠によって自己正当化し、絶対に他者による検証が不可能な己の「内面」を根拠にモラリストを装う。そうして自分と意見の対立する(気にくわない)相手に対し、この「モラル」でもって一方的に断罪し、これに対する反論は、「モラル」=「みんな」の否定であるという論理のすり替えにより、姑息な自己防御を図るのだ。

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