若さ
「若さ」が貴重である(ように思われる)のは、それが二度と取り返しがつかないからだ。それは事後的に発見・解釈=物語化されるもの。つまりそれ自体が、常に既に〈失われたもの〉としてある。そう考えると、逆説的に、老いた者しか己の「若さ」を持ち得ない。
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「若さ」が貴重である(ように思われる)のは、それが二度と取り返しがつかないからだ。それは事後的に発見・解釈=物語化されるもの。つまりそれ自体が、常に既に〈失われたもの〉としてある。そう考えると、逆説的に、老いた者しか己の「若さ」を持ち得ない。
アツさはしばしばバカと同義語。「動機の純粋性」(丸山眞男)が思考停止を正当化してしまうから。
〈役〉というものは演者の主観の外化などでは決してなく、常に観客との間主観性に立脚してようやく成り立つ、あらかじめテクストの構造に組み込まれた存在である。
たとえばそこに椅子がある。
とりたてて特別な設定が示されてない条件下、演者が椅子の傍らに立つ。
演者がとるべき次の行動は?
当然、「座る」だ。
あたかも登場人物と椅子との間に「重力」が働くように、演者の行動は、いわば唯物論的な制約を受ける。
むろん、「重力」に逆らってあえて「座らない」という選択はあり得る。だがその場合、それなりに納得できる理由がいる。
誰が「納得」するのか? 演者か、演出家か、それとも作家か?
否、〈観客〉である。
ペット問題再燃の予感…。
もともとウチのマンションは〈ペット不可〉なのだ。だが、飼っている人もあって、長年、なんとなく「黙認」されていた。
その「黙認」の事実を不動産屋経由で聞きつけ、それで入居してきたという者もいて、今さら〈ペット不可〉を強調されても困る、管理組合は責任取れ、とか意味不明なことを言う。
で、こういう「オシッコ」みたいなトラブルは以前から何度もあって、そのたびに、総会の議題にもされるのだが、争点がはっきりしないまま、互いがそれぞれの〈価値観〉を述べ合うから、ぜんぜん話が噛み合わない。まるで不条理劇だ。そして最後はたいてい「常識」「モラル」「思いやり」など、空疎な言葉でお茶を濁して会はお開きとなる。
あー疲れる。
そんな感じでいつまで経っても堂々巡りなので、私が理事長時代にペット飼育者に働きかけて「ペットクラブ」なるものを作らせた。ペット飼育者による自治会みたいなもんだ。規約上はペット飼育禁止のままなので、クラブの存在自体が矛盾してはいるのだけれど、すでにある〈現実〉に耳目を閉ざして疑心暗鬼をこじらせるより、ひとまず規約違反は括弧に入れて、実態を把握し、責任の所在を明らかにすべき、と考えたのだ。
彼らがもしも規約の変更を望むなら、クラブを主体としてそういう気運を盛り上げていけばいい。反対意見と衝突するだろうが、弁証法的に落としどころが見つかるかもしれない。
ところが、これが思うようには機能しないものなのだ。
それどころか、ペットクラブ成立の経緯をすっかり捨象し、むしろその存在こそが規約違反を助長している、とかいうやつまで現れる始末で、まるで私が「戦犯」みたい。
はいはい、私はもう、知らん。勝手に罵りあって、いくとこまでいってくれ。
「挨拶が大事」というのは、そりゃそうなのだろうが、ことさらこれを言いたがる系の人は、その「礼儀」ばかりを重んじ、コンスタティブ=事実確認的な側面を軽視しすぎるキライがある、と私は感じる。
ていうか、まるで眼中にないのでは?
そういう性癖により、こちらの言うことを、パフォーマティブ=行為遂行的に解釈しがちなのだと思うが、私に言わせりゃ、そういう不必要な深読み・裏読みが、礼儀正しいどころか、いちいち無駄に調整コストがかかりすぎる。端的にいって、めんどくせーのだ。
ジブリの『風立ちぬ』の喫煙シーンにケチがついたことがあった。
〈学生が「タバコくれ」と友人にタバコをもらう場面などは未成年者の喫煙を助長し、国内法の「未成年者喫煙禁止法」にも抵触するおそれがあります〉など、ナンセンスで反論する気にもならない。煙草=絶対悪にまつわることは、いかなる文脈で叩いても正当化されるというわけだ。
私自身は相変わらずの喫煙者だが、そうした嫌煙ファッショ的風潮を受け、確かに私の書く戯曲でも喫煙シーンが減った(皆無ではないけれど)。
ひとつには消防法上の問題がある。舞台上での火の使用はたいていの小屋で禁じられているが、昔は、煙草程度はOKというところが多かった。また、制作上、嫌煙の観客に対する配慮も、正直、なくはない。
だが何より、テクストが作家に要請するのである。
つまり、虚構の中に置かれた「煙草」は、もはや完全に近過去を示すアイコンとなってしまったということだ。
車の通らない深夜の交差点で、歩行者が信号無視してささっと道を渡るのを、私は声を荒らげ咎めるつもりはない。けれど、たまたま警察官が居合わせたなら、そりゃあ怒られても仕方なかろうと思う。
怒られたのが当の私だったら?
「いちいちうるせーな!」くらいは思うだろう。でも、それはただの身勝手な「感情」。それで行為を正当化できるもんじゃない。そんなことはわかりきってる。
にもかかわらず、やはりなんとか正当化したい。
この俗な心の動きは、劇作家の「取材対象」。
何が芸術で何がそうじゃないかなんて、客観的に定義できるわけがないのだから、作家が「芸術」と思うなら、芸術で結構。
だがなぜ、芸術/猥褻が、二律背反であると思うのか?〈猥褻な芸術〉ってもんだって、当然、あるだろう。そういう自覚があっての〈挑発〉ではないのか? 「これは猥褻ではありません」なんていうセコイ詭弁は、ちっとも面白くない。もっと目から鱗の落ちる論の立て方してくれよ。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141222-00019119-hankyoreh-kr
攻撃されて逃げ場所がないから闘うしかない。いまの日本には歴史の暗部を見つめようとする人々を攻撃しようとする勢力がいる。しかし、それに屈しないと声を上げる人々もいる。来年も学生たちを教えられるようになったことが何よりうれしい。 私は捏造記事など書いていない。これからも不当な攻撃に屈せず闘っていこうと思う。
いわゆる「従軍慰安婦」問題に関して、私は過去に自分の考えを書いた。
http://kazutakaimai.cocolog-nifty.com/kazutakaimai/2014/02/vs-c723.html
ほとほと呆れてしまうのは、この期に及んで「慰安婦が存在したのは事実。歴史をねじ曲げるな!」などと、そもそも何が「問題」の争点なのかすらも理解せず(できず)、かような植村隆的言説を正当化する単細胞=幼稚なオツムの持ち主が、この日本に一定数存在するということだ。
こと演劇界を見回してみれば、こうした「思想」(笑)がいまだ主流であるのも脱力するし、その集合が、俗にいう「放射脳」のそれと重なり合って見えるのも興味深い。
かつて私は彼らのことを単なる周回遅れの情報弱者だと思っていた。
彼らの独善的な「信念」は、冷めた「事実」を積み重ねることにより、徐々にでも自ずと変容していくに違いない、と。
甘い甘い。私は甘すぎる。
むしろ彼らはますます「閉じて」いくようだ。バカの根っこは私の想定するより遙かに深いところで互いに絡まり合っている。
〈台詞は一言一句変えてはならない〉
しばしばエライ作家センセイにありがちなこの命題。
これがまかり通る根拠は何か?
ロラン・バルトは「作者の死」ということを言った。
文章はいったん書かれれば、作者自身との連関を断たれた自律的なもの(テクスト)となり、多様な読まれ方を許すようになる。(中略)文章を読む際に、常にそれを支配しているであろう「作者の意図」を想定し、それを言い当てようとするほうが不自然であるとする。およそこうした考え方を、フランスの批評家ロラン・バルトは「作者の死」と呼んだ(『作者の死』〈1968年〉)。(知恵蔵2014)
しかしそれでも現実に「作者」は生きている。
それが証拠にホンの解釈が気に入らないと、作家センセイの意図により演出家が降板させられたり、そもそも上演中止に追い込まれたケースだってある。
これは著作権法に裏付けられた「作者」の仕業だ。〈一言一句〉云々の強制力も、この文脈上にある、というのは、事実。
では、くだんの命題は、単に作家センセイのわがまま=自己顕示欲によるものか?
実は、それも違う。(いや、そういう場合も多々あるみたいだが)
上演に際して、劇作家の意図が必ずしも「正解」であるとは限らない。
そのことを、マトモな作家ならば自覚している。
だが、創作に費やした時間ひとつをとってみても、演者や演出家に比べて作家のそれはまるで桁違いであり、当然、企てられた劇の効果に最も詳しい。その参照先として、「作者」は尊重=活用されるべきなのだ。
うーん、なんだか入り組んだ話になってしまった…。
私の現場に限って言えばこういうことだ。
とりあえず、台詞はそのままの形で口にしてもらう。
文体も含め、そこに仕組まれた劇的効果というものがある(かも知れない)。
その上で、より最適な「解」が見つかれば、指摘してもらいたい。 というか指摘してくれなきゃ困る。
「作者が苦労して書いたのだから」
そんな思考停止により、テクストを〈尊重〉されては困るのだ。
作者の「苦労」など、知ったことではないのである。
年明け早々にホンの手直しにかかろうと思う。
ていうか、今あるのとは別バージョンの台本をもうひとつ作成するつもり。
ある役が、キャスティングするのが難しいかも知れないな、と経験的に思う。年齢的な問題。
変更のアイデアは、すでにあるのだが、一人設定を変えると、全体の関係性が変わってくるので、いうほど容易ではない。だったら今の設定に合う役者をがんばって探せばいいだろう、と言われそうだけど、こういうのは一期一会。不確実性は極力排除しておきたい。
不必要に頭を下げてもロクなことがないしね。
川崎市の工場地帯、千鳥公園の一画に、海底トンネルの入口がある。
軽い工場マニアの私がはじめてこれを見つけたのは、もう十年くらい前だったか。たしか冬。日の暮れてかけた公園の片隅に、ぽつんと明かりが灯っていた。
階段を下りていくと、扉が閉じている。なんだ、入ることはできないんだな。と、何か貼り紙がされてある。近づいてみると、いきなり扉が開いて、ぎくりとした。ドアの奥に進み、さらに階段を下りていく。貼り紙の内容は忘れてしまった。
トンネルはまっすぐ続く。出口は見えない。〈歩行者専用通路なので自転車を降りるように〉と促すアナウンスの女の声が、エンドレスで流されている。不気味…。
行き先のわからぬまま、とりあえず、歩いてみる。しかし歩いても歩いても果てがない。だんだん恐くなってきた。引き返そうかと思い、振り返ったときにはすでに、ずいぶん進んだ後で、前方と同じく、後方にもまっすぐな道がどこまでも続いている。実際、少し引き返した。けれど、ここまで来たら、やはり前進した方が早いのでは? そう思い直して再び踵を返す。いやいや、待てよ…と優柔不断に行ったり来たり。結局どちらにもたどり着けぬまま永遠にこのトンネルに閉じこめられ、このまま一生を終えるのではなかろうか?
海底トンネルの長さは約1キロ。到着した先は東扇島。あらかじめわかっていれば、さほど長くもない距離だ。
海の向こうに、さっきの千鳥公園が見える。
忘年会シーズン。
宴会後、居酒屋の前でたむろして、「で、今、何待ち?」となる、あの無為な時間に耐えられない。
三つ子の魂百まで。
中学のとき、家庭訪問で担任の先生が私の母に問うたという。ホームルームが終わると、他の生徒はしばらく友達とおしゃべりしてたりするのに、おたくの息子さんはいつも一番にさっさと帰ってしまう。何か習い事でもしてるんですか?
いいえ、と母は答えた。
「テレビで『花の子ルンルン』を見てるんです」
真冬に札幌の倉庫で芝居をしたことがある。
倉庫の中にイントレを組み、ブルーシートでテントを作る。そういう二重構造にしなきゃ、寒くてとてもいられない。
私は役者兼舞監みたいな立場で、深夜に舞台美術の仕込み。「一人でいい。他の役者は帰れ」というのに帰らず、妙にやる気を見せる後輩がいて、しょうがないから置いてやった。
夕飯は鍋。水道がないので、見た目にまあまあきれいかな、という雪を溶かして水を得る。キャンプみたいだ。食事を終え、さて、作業に取りかかろうかという段になって、後輩は寝てしまう。
気温は当然氷点下。ほっときゃ確実に死ぬので、数少ない石油ストーブをすべて後輩のまわりに置いてやり、私は一人、寒さに凍えながらの作業を強いられたのだった。
1日24時間のうち、劇作家が創作にあてるに値する“冴えた”時間は、せいぜい3~4時間くらいなもんじゃないかと思う。もちろん個人差はあるだろうけど。
仮に残りの時間がすべてその「3~4時間」を再生産するために費やされていると、ちょっと資本論チックに考えるなら、一枚の原稿に乗っかってくるコストは膨大なものだ。
翻っていえば、「寝ずに書いた」などと作者が嘯くホンは、すこぶる省コストということになる。そしてそれは、たいがい所詮その程度のもんである。
実際、そういう芝居は「ああ、寝ずに書いたのだな」と、一目でわかる。要するに、ぜんぜん練られてないわけで、何の自慢にもなりゃしない。
「デリダの「無限の他者に対する応答可能性=責任」論は、実は、キリスト教文化圏における「告白」を通しての「無限なる神」に対する「責任」という制度を前提にしているのではないか、と「私」には思われる。」
「フーコーに言わせれば、近代的な自律した「主体」というのは、実は、様々な「みんな=社会」の「代表=表象」制度による教化を通して、告白的な責任構造を「内面」化された存在なのである。」
「『私の個人主義』(1914)という有名な講演によって、日本の「みんな」がなかなか理解できない「自由」と「義務」(あるいは「責任」)の一体不可分性を明確に論じたとされる夏目漱石も、両者の媒介項としての「法」的な強制システムの問題を飛ばして、純粋な良心の話にしているきらいがある。」
「「みんなの正義をみんなで守ろう」という形を取るのが日本的な“みんな”の考え方であるのに対して、西欧個人主義というのは、社会的「正義」をいったん可能な限り個人の「権利」に分解したうえで、責任主体としての「個人」にそれぞれの守備範囲内で守らせていこうという思想である」
「そういう責任の分配・限定の仕組みをあまり考えないまま、漱石以来「みんな」が言い続けている「日本人は、自由には社会的責任が伴うことを知らない」という聞いたような台詞を反復してさえいれば、自らの“社会的責任”を果たしたことになると思っている“良心的な言論人”に、「私」は腹が立っている。」
私はさらに、著者が腹を立てている「良心的な言論人」の、バカ丸出しの言説を無批判に受容し、模倣=反復する「みんな」にも腹を立てている。
彼らは、「俗情との結託」(大西巨人)=通俗性への依拠によって自己正当化し、絶対に他者による検証が不可能な己の「内面」を根拠にモラリストを装う。そうして自分と意見の対立する(気にくわない)相手に対し、この「モラル」でもって一方的に断罪し、これに対する反論は、「モラル」=「みんな」の否定であるという論理のすり替えにより、姑息な自己防御を図るのだ。
「マスコミは第四の権力」などといったりするが、これは言葉の綾で、そもそも「権力」ってそういうもんじゃない。
じゃあ、どういうもんか?
というわけで、ミシェル・フーコー『監獄の誕生 監視と処罰』を購入。中古で5千円もした!
「支配」の内面化という〈パノプティコン〉的なテーマは、80年代の俗に言う小劇場ブームの頃に「旬」であったように思う。しかしそのようなものを書いていた作家(あえて名前は出さないが)や、そうした芝居を好んで観ていた世代がその後左旋回し、非常に古くさいマルクス主義的「支配/被支配」の構図にいとも簡単に嵌まっていくのを私(たち)は見てきた。そのことに対する拭いがたい違和感が私にはある。
短絡的であることは、劇の書き手にとって必ずしもマイナスとは限らなくて、ああ、自分はこういう短絡的なとこあるなー、と客観的に眺める視点を持てないことが、致命的なのだよ。
特定秘密保護法施行に対し子供じみたリアクションを繰り返している連中は結局、何が〈特定秘密〉であるかすら学ぼうとしないバカであることがよくわかった。
基本的に善人であるA、B、Cの女三人。
共通項として同い年の子供がいるとしようか。PTAの会合の後、喫茶店で談笑している。
今、Aのケータイが鳴り、店の外に出て行った。
さて、残されたB、Cの話題は?
容易に想像されるのは、Aの(Aにとって良くない)噂話、つまり「悪口」だ。
そしてこれが作劇上の定石だ。
こうしたテクスト内の力学がまずあって、それにどれだけ沿うか、あるいは沿わないか、それによって登場人物のいわゆる「キャラ」ってやつが決まってくる。
むろんこれは「現実」とは異なる。
現実ならば、Aの不在中、B、Cは他愛のない天気の話を続けるかも知れないし、加納さん(って誰、それ?)を話題に登場させるかも知れない。
しかし劇でそれをしたら、「あえて」の匂いを否応なしに孕んでしまう。たとえ「日常を切り取ったような」と評される劇であってもだ。
なぜか?
観客が見ているからだよ。
〈観客〉の介在という構造を持つことにより、現実と虚構ではパースペクティブが異なるのだ。このことは書き手はもとより演じ手もよく自覚しておく必要がある。
社会問題をテコにして、居ずまいを自己演出する。そのための“独特”な視点や言葉のレトリックに磨きをかけること。それが劇作家の「思考」と思っているなら、とんだ勘違いだ。
死傷者数を比較する統計資料を前に、テレビの司会者は、「“数”の問題ではないと思いますが」と、今まさに「数」を問題にしている局面で、意味のないコメントを付け加えずにはいられなかった。
「数字(=ロジック)」というものが纏う“冷たい”イメージを“情緒”で中和してみせたというわけだ。
彼の最も恐れることは、統計から読み取るべきことを読み取れず、伝えるべきことを正確に電波に乗せられないこと、ではなくて、視聴者の機嫌を損ねることなのだ。
「とにかく許せない!」という、あれだ。
翻っていえば、視聴者の目が“冷たく”成熟してさえいれば、司会者も、こんなつまらん配慮をする必要がない。
だが番組の作り手は、視聴者がそんなふうに成熟した状態にないことを知っている。そしてそれはその通りなのだ。となれば、その“熱さ”を逆手に取って、他の誰かに対する機嫌を損ねさせればよい。
メディアにとって、“熱い”幼稚な大衆の「印象操作」など簡単だ。
「汚染水による影響は、福島第一原発の港湾内の0.3kmの範囲内の中で、完全にブロックされています。」
首相のこの発言に、いまだごちゃごちゃいってるバカがいるので、改めていっておく。
たとえば、雨の中、近所のコンビニに行くとすんだろ? どうするよ?
私だったら傘を差すよ。
往復の途中で靴下なんか濡れるかも知れないが、靴下はじきに乾くし、必要な買い物もできたから、私はこれでヨシとする。
傘を差さなかったら、どうか?
当然、全身ずぶ濡れだ。
〈濡れた/濡れない〉を問題にするなら、確かにどちらも「濡れた」のだ。しかし「濡れた」ことをもって、両者の状況が「同じ」と思うか?
それが「量」の概念てやつだよ。
量の概念のないやつが、「傘を差したにもかかわらず靴下が濡れた!」と大騒ぎする。
じゃあ、次、小学校の「国語」の問題な。
上記、首相発言の主語は何だ?
「影響」だよ。
〈「影響」はブロックされている〉と、いっている。
これを否定するのなら、〈「影響」はブロックされていない〉ことを言わなきゃならない。
それを勝手に「一滴も水を漏らすことはない」みたいに曲解し、事実と異なると鬼の首とったように喚いたって、己の読解力が小学生以下であることを示す以外に、何の意味もありゃしない。
http://topics.smt.docomo.ne.jp/topnews/politics/937/8ac9b14fa1f3f80c7e1f9a9cf91f8cd9
麻生太郎財務相は7日、札幌市内で行った衆院選の応援演説で、社会保障費の増大に絡み、「高齢者が悪いようなイメージを作っている人がいっぱいいるが、子どもを産まない方が問題だ」と述べた。 社会保障負担が増えるのは「子どもを産まないこと」が原因と指摘したもので、批判が出る可能性がある。麻生氏は「子どもが生まれないから、子ども3人で1人の高齢者(を支え)、もう少しすると2人で1人(を支える構図)になる」と指摘。増大する社会保障費を賄うため「みんなで少しずつ負担する以外に方法がない」とも強調した。(毎日新聞【横田愛】)
「高齢者が悪いようなイメージを作っている人がいっぱいいるが、子どもを産まない方が問題だ」。つまり分子がでかいんじゃなく分母が小さい、そういう構造が「問題」だといってるわけで、子供を産まない人を問題視しているわけじゃない。誰でもわかりそうなもんなのに、そこを意図的に混同して何が何でも批判に結びつけようとする。
こういう毎日新聞的ロジックを弄する連中は、私の同業者(とくに社会派を自称する連中)にもわんさかいる。ま、やつらは単に読解力がないだけかもしれないが。
俗に言う「ビッグネーム」の演出家が、やたら「上手い」とべた褒めする戯曲を読む。
べた褒めによりハードルが上がっちゃったのか、私には、さして上手いと思えず、むしろ作為的な構成が鼻につくし、人物も「書けてない」と感じた。
私の「読み」がいけないのかもしれない。
その戯曲が作者自身の演出により上演されるというので見に行った。
観劇の印象は、戯曲を読んだときとほぼ同じ。「読み」が悪いのは私でなく、ビッグネームの方なのではないか?
エラソーにしてる割にはこんなもんか。
私は腹の中で、その大きな名前に×をつける。
入社して最初に配属されたのが事業場の経理部だった。
同期入社にはもちろん女子もいたのだが、私と同じ職場に配属されたのは男子ばかり。というか、本社採用の女子は事業場の経理部に一人も配属されない。一人もだ。
なぜか? 男女平等に反するではないか?
つまりこういうことだ。
事業場の女子は、事業場で採用された、高卒・短大卒・専門学校卒の一般職がほとんどで、そこに同性の総合職が入ることにより生まれるであろう「軋轢」を(おそらく過去の事例に基づいて)あらかじめ人事部が避けたのである。
一般職の彼女らは就職活動の過程でたいてい簿記の2級くらいはとっている。たとえ大学で高度な会計学を修めていようと、新入社員のやるべき仕事など限られているし、大卒の「後輩」に仕事を教えてやる立場の「先輩」にしてみたら、このツカエナイのが自分より給料が高い。しかもこれが30歳くらいで確実に主任に昇格する。ひょっとしたら自分の上司になるかも知れない。
ああ、給湯室でのひそひそ話が聞こえてくるようだ…。
結果として、事業場の経理部は女子は100%一般職、男子が100%総合職ということになる。少なくとも私が会社にいた頃は、こういう「現実」が確かにあった(し、おそらく今もあるのだと思う)。この場合、「男社会」の職場環境は、女同士のイザコザが生んだのだといえる。
浅薄なフェミニストはこういう性差の側面に対するまなざしが決定的に欠けている。
http://manabow.com/hayawakari/hayawakari5_1.html
円高が輸入に有利/輸出に不利。
逆に円安が輸出に有利/輸入に不利。
むろん視点は日本。
小学校の「社会」で習う内容だ。
要はバランスの問題で、たとえばここに国家がどんだけ介入すべきか否かという議論が尽きないのは、なるほど「国家って何?」につながる深いレベルの話だし、理解できる。
だが、政権批判を目的とし、単に「不利」の側面だけを切り取ってきて、陳腐な浪花節的ストーリーをまぶして情緒的に強調してみせる。40過ぎてそういう幼稚なバカがわんさかいるこの状況に、何が「ゆとり教育の弊害」だ、何が「若者の学力低下」だ、笑わせんな、と思うわけだよ。
「アベノミクスでお金持ちになられた皆様●(編注:ハートマーク)このサイトはあなたとは関係御座いません。それ以外の99・99%の皆さんにご提案です! 皆さんの税金を使い、毎日高級店の天ぷらや寿司に舌鼓を打ち、皆さんの税金を使った奥様との世界旅行で心身ともにお疲れの安倍総理に、お休みして貰いませんか?皆から巻き上げた税金で大企業に還付と減税、庶民には、長時間労働・低賃金を強いた上に、残業代ゼロに前のめり、医療や福祉は自己負担がこの先上がるのみ、おまけに大切な年金に手を付け、株につぎ込み博打を打つ... どうみても、明らかに、安倍総理はお疲れです。退陣して戴きましょう」
「仕掛けたのは参議院議員の山本太郎氏だ。12月2日、自身のブログで「事務所スタッフ、ボランティアの皆さんの尽力により、自民党100人落選サイトがオープン出来ました」とサイトオープンを告知している。」
〈国家=悪/民衆=善〉という、古くさいマルクス主義的二項対立に強く支配された山本太郎や彼の支持者らは、その単細胞ぶりゆえに、〈巨悪が隠蔽する「事実」を民衆が暴く〉という構図のストーリーにすこぶる弱い。たとえば元原発作業員の「勇気ある証言」を(自分の信じたい「結論」と合致する場合に限って)絶対視してしまうし、反戦自衛官の証言に(自分の主張と合致する場合のみ)必要以上の価値を認める。
実にご都合主義かつ権威主義的なのだ。
「事実」の論理的整合性より、話者の属人性=肩書きを都合よく重視して思考のプロセスを捨象するから、すぐにデマに引っかかる。「引っかかる」だけならまだしも、拡散して得意顔をしてるのだから始末に負えない。そうして科学的蓋然性に基づく反論に追い詰められれば、「100%ない、と言い切れるのか?」と「悪魔の証明」を盾にするのだから呆れ果てる。
こんな連中、とてもじゃないが付き合いきれない。
37.0℃。微熱。今年の風邪はしつこい、と毎年言ってることを言ってみる。
しつこくない風邪、それは仮病です。
そうこうするうち12月。
ホンはラストシーンを書かぬまま、一回目の推敲に入った。一旦それなりの〈幕切れ〉を手にしてしまうと、推敲もそれに引きずられてしまう。捨てられなくなる。だったら、んなもん、なくていい。
昨日までで全8場のうち4場まで見直しを終了。あと半分。なんとか今年中に〈幕切れ〉にたどり着きたいもんです。
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