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2014年11月19日 (水)

他我

「しゅう‐きょう〔‐ケウ〕【宗教】 《 religion 》神・仏などの超越的存在や、聖なるものにかかわる人間の営み。古代から現代に至るまで、世界各地にさまざまな形態のものがみられる。(デジタル大辞泉)」

「世界各地にさまざまな形態のものがみられる」のだから、世界でただ自分一人だけ、俺さまだけが信仰する“俺さま教”があってもよさそうだ。
と、若い頃(20代の終わりくらいまで)私は思っていた。それが私の“宗教観”だった。
が、たぶんそれは、「宗教」とは呼べない。ある程度の広がりを持って、人々の間に死生観が共有されている状態でなければ。(「ある程度」というのが、どの程度なのか、という問題は残るけれど。)
たとえば仏教、神道、キリスト教と、一見、宗教に関して無節操であるかのような日本人の多くが、いまわの際には皆、三途の川の川岸に呼び集められる、そんな価値観の共有。
これって現象学でいうところの「間主観性」ということになるだろうか?

フッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』に、こういう記述がある。

『「自我」―わたしがいま語っているような自我―の意味変更という現象、すなわち、自我が「他我」へ、「われわれすべて」へ、多くの「自我」―そこではわたしも「ひとり」の自我であるような―をもつ「われわれ」への意味変更が欠けていた。したがって、「われわれすべて」としての相互主観性がわたしから出発して構成される、いな、わたしの「中で」構成されるという問題も欠けていたのである。』

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