フォト
無料ブログはココログ

« 2014年10月 | トップページ | 2014年12月 »

2014年11月

2014年11月30日 (日)

論理体系

「原発に頼らないエネルギー政策を模索する」ならなおのこと、少なくとも当面は、化石燃料に頼らざるを得ないわけで、だからいわゆる脱原発派は当然、シーレーンの安全確保のため「集団的自衛権」に積極的に賛成する、のかと思えば、むしろヒステリックに反対する。
さらにその口で「平和を願う」とか、私には到底理解不能だ。エネルギー問題が戦争の引き金になった例など過去にいくらでもある。
いったいどういう理屈なのか、私にもわかるように説明してくれないか? 
言っとくけど、私は「論理体系」の話をしているのだ。「命の尊さ」だとか、ハナからわかりきった「道徳」の情緒的強調は何の説明にもなってないから。

2014年11月27日 (木)

意義

そのキャッチコピーで、見る前からクソ芝居とわかる。
制作者は「優秀」を自負してるようだが、そんなチラシを見る限りタカが知れてる。
反原発を情緒的に正当化する。
手を替え品を替えよくやるな、と思うけど、人間のひとつの属性を蝶番にしてフェーズの異なる二つの問題を牽強付会に結びつける、その己の手法こそを「問題」にする方が、社会派的によっぽど意義あることだと思うぞ。

2014年11月26日 (水)

主体

たとえば「事件を闇に葬り去る」とはいうけど「事件が闇に葬り去る」とはいわない。どうしても「事件」を主語にしたいのならば「事件が闇に葬り去られる」だ。

これをある(自称)劇作家にわからせようとして、結局、諦めたことがある。文法的に説明しようにも、相手はそれを理解するだけの基礎学力も持ち合わせていない。自動詞/他動詞の概念すらないのだから、お手上げだ。

ていうか、文法がどうこうじゃなく、「事件が闇に葬り去る」を日本語としてヘンだと感覚的に思えないなら、そもそも劇の書き手としての資質に欠ける。
なぜなら、〈
劇を書く〉というのは、複数の異なる私=主体が出会う場の記述に他ならず、上記〈事件を/事件が〉問題は、まさにその「主体」というものに対する感性の話だからだ。

素朴さ

頭が悪いだけならともかく、思考の怠慢を「素朴さ」に見せかけ、俗情と結託してまっとうな議論を妨害する。
右だろうが左だろうが、そういう卑怯者が許せないのだ。

2014年11月25日 (火)

チグハグ

論点がチグハグなまま感情的に白熱していく会話を聞かされるのは、私は苦痛でしょうがないのだが、しかしそんな苦痛を受けてる自分も含め、「チグハグ」が劇として相対化されると、これはこれでなかなか面白いものだから、書き手としては、こういう状況は格好の取材対象だったりもする。

2014年11月24日 (月)

上書き

いとも簡単に「正義」や「真実」を口にするやつに、いったい何の創作ができるというのか?
あれこれレトリックを弄び、結局、俗情におもねって通念を上書きするだけなら、物を書く意味がない。

文化が違う

とくに仕事上の連絡は、後で言った言わないの水掛け論になるのがイヤなので、急ぎの場合を除いてできるだけ電話でなしにメールに残すようにしているのだが、そのこと自体がクレームの対象になるなら、私とは文化が違う。
危なっかしくてやれんので、お取引頂かなくて結構です。

卑劣

たとえば頭を叩かれたら痛いと感じるし、叩いた相手に腹が立つ。
このシンプルな感情。
まずはこいつを引き受けなきゃいけない。
叩いた相手も痛かろう、だとか、こんな些細なことで腹を立ててる自分への戒めなのかも、だとか、そんな自己啓発的な陳腐な曲解でもって自我に肉づけする、そのことこそが卑劣なのだと知るべきだ。

児童文学

児童文学的価値観というのは、子供服みたいなものだと思っている。子供の成長を助けるが、やがて脱ぎ捨てられる。いわば、脱ぐために着るのだ。
たまに手にとり懐かしむぶんにはかまやしないが、あたかもそこにブリミティブで普遍的な「善」があるかのごとき幻想は、思考停止と卑怯な現実逃避を助けるのみだ。

2014年11月22日 (土)

折り返し地点

400字換算100枚。折り返し地点は過ぎた。
今日はほんとは「取材」のため、自主映画の上映会を観に行く予定だったのだけど、執筆(と睡眠)を優先。明日から法事で帰郷し(二日だけだが)、執筆が中断されるので、今日中にある程度ケリをつけておきたかった。
今年は夏にも親戚の葬式があり、礼服をタンスから引っ張り出したら、ズボンが入らなくなっていた。それで慌てて近所の紳士服店で新しいのを買ったのだけど、今度は、それがブカブカ。で、古いやつの方がピッタリ。たしか20代の時、祖母の葬儀の時に買ったもので、つまり今、私は20代の体形に戻ったのだ! 肌のハリはなくなったけれど。
関係ないが末端冷え性で、ツライ。

2014年11月19日 (水)

他我

「しゅう‐きょう〔‐ケウ〕【宗教】 《 religion 》神・仏などの超越的存在や、聖なるものにかかわる人間の営み。古代から現代に至るまで、世界各地にさまざまな形態のものがみられる。(デジタル大辞泉)」

「世界各地にさまざまな形態のものがみられる」のだから、世界でただ自分一人だけ、俺さまだけが信仰する“俺さま教”があってもよさそうだ。
と、若い頃(20代の終わりくらいまで)私は思っていた。それが私の“宗教観”だった。
が、たぶんそれは、「宗教」とは呼べない。ある程度の広がりを持って、人々の間に死生観が共有されている状態でなければ。(「ある程度」というのが、どの程度なのか、という問題は残るけれど。)
たとえば仏教、神道、キリスト教と、一見、宗教に関して無節操であるかのような日本人の多くが、いまわの際には皆、三途の川の川岸に呼び集められる、そんな価値観の共有。
これって現象学でいうところの「間主観性」ということになるだろうか?

フッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』に、こういう記述がある。

『「自我」―わたしがいま語っているような自我―の意味変更という現象、すなわち、自我が「他我」へ、「われわれすべて」へ、多くの「自我」―そこではわたしも「ひとり」の自我であるような―をもつ「われわれ」への意味変更が欠けていた。したがって、「われわれすべて」としての相互主観性がわたしから出発して構成される、いな、わたしの「中で」構成されるという問題も欠けていたのである。』

放射能デマ

この期に及んでいまだ微量の放射線の影響を過大に吹聴する者がある。
関心があるのなら少しは学べばよさそうなものだが、がんらい思考に怠慢なのか、そもそも「学ぶ」ということが根本的にわかっていないのか、「今さら何周遅れだよ?」といいたくなるバカげたデマを鵜呑みにし、平気で拡散する。それで善人ヅラして恥じぬのだから、もはや、つける薬がない。
学ばぬバカはただ言葉の「印象」に脊髄反応する。「汚染」の言葉に踊らされ、たとえば東京五輪招致にファナティックな反対をしたその口で、平気で被災地の風評被害を嘆いてみせる。
自分でも何を言っているのかわからないのだろう。場当たり的に善人ヅラするから、主張に論理の一貫性などない。そしてこの論理性の欠如こそが偏見と差別を生むのだが、いかんせんバカなので、本人たちにその自覚がない。

現在、巷に出回っている放射能デマはたいてい、科学的にとっくに「論破」されている。
2011年の段階ですでに“民衆”むけのわかりやすい資料が、“民衆”自らの手で出されている。
 

『放射能について学ぼう』

http://www.slideshare.net/jyunichi0934/ss-10201896


これは福島在住の塾講師が、かつて阪神淡路大震災を経験した生物学者の監修の下に書いた資料だ。よく知られた資料なので、多くの人が、すでに何度か目にしていると思う。
オカルトじみた怪情報に不安がってるヒマがあるなら読んでみるがいい。ごく平均的な義務教育レベルの読解力があれば、じゅうぶん読めるハズだ。
もっとも、科学的知見に基づいて論理的に考察するという、最低限の知性を持ち合わせていればの話だが。

酒は飲んでも呑まれるな

「酒は飲んでも呑まれるな」というが、己の表明した政治的立場に、決して「呑まれ」たくない。

2014年11月18日 (火)

減量

25年ぶりくらいに、自分の載った体重計が50キロ台を示すのを目にした。
「減量」を宣言したのが今年の春くらいで、「年内に10キロ落とす」と大法螺吹いたのが、実現してしまったよ。
さすがに半年ちょっとでこんだけ落とすと、身体が軽くなった実感がある。

2014年11月17日 (月)

神話

「安全神話」を批判しながら、その構造から何も学ぼうとしない。
この期に及んでいまだ何が「論点」かも理解せず(しようとも、せず)、通俗的な「善」を場当たり的に貪ることを是とする者らの思考停止ぶりは、いったい何なのだろう?
おそらく、55年体制で、自民党さえ叩いておけば「正義」でいられた時代の名残なのだ、という気がする。決してプラグマチックな領域には近づかず、そのクセ肥大した自意識を甘やかし、ひとかどの者として何事かイケンしてやらないと気が済まない。
要するに、社会党的な思考の怠慢が、クセになって抜けないのである。
そんな底の浅いイケンなど、彼らがしばしば想定する「悪い政治家」に、「ガス抜き」として利用されるのがオチなわけだが、一面的な思考態度が染みついた彼らは、どうやらそんなことすらも考えない。

幼児性

昨今の左巻きの著しい劣化ぶりは、自ら招いた〈言葉のインフレ〉つまり言説への信頼度低下の無自覚による。
彼らはお気に召さない相手にはとことん醜悪なレッテルを貼り、それに基づき身勝手な「正義」を振りかざす。ひとたび「悪」と決めた政策が実現されれば、それが民主的な手続きを経ての結果であるにもかかわらず、「民主主義の終焉」などとトンチンカンなことを大仰に嘯く。
そうしたウソも、「言論の自由」を持ち出しさえすれば免罪されると踏んでいる。この甘ったれた幼児性。

2014年11月14日 (金)

善きこと

ハコモノ行政を批判したその口で、「すべての日本国民がホールでの芸術鑑賞を」みたいなことを平気で言えちゃう思考回路は、被災地の風評被害に同情する素振りをみせながら微量の放射線に過剰反応するのと通底している。
要するに「善人」としての承認欲求を満たすため、場当たり的に通俗的な「善きこと」を貪るのみで、一貫した考えなどありゃしないのだ。
こういう人間を私は信用しない。

政治談義

酒の席で政治談義をするなとは言わないが、そんなものは主張を同じくする者らの鬱憤晴らし以上に建設的議論など望むべくもないのだから、せめて相手を選べと言いたい。
ひとたび意見が対立すればアツくなりがちな主題であるのはわかりきっているし、かといってワイドショウレベルの通俗的な「正義」に巻き込まれるのはまっぴらだから、こちらとしては、思想信条を括弧に入れて、つまりそれはそれとして交際を継続すべく、あえてスルーしたり話題を逸らしたりしているのだ。
にもかかわらず、そうした配慮も読み取らず(読み取れず)、むしろ啓蒙的な態度で相手の逆鱗に触れてくる。こういう無神経さが、私は大っ嫌いなんである。

2014年11月11日 (火)

実験映画

マヤ・デレンやルイス・ブニュエルの実験映画を見るたび、自分もこんな映画を撮ってみたい、なぜ大学で映画研究会に入らなかったのだろう、と後悔するのだけど、考えてみれば映画はおろか、当初は演劇だってやるつもりなんかさらさらなくて、夏はテニス冬はスキーみたいなチャラい青春をへらへら送るつもりだったのだ。

10409263_657634271015813_8214691762

2014年11月10日 (月)

ジェットコースター

ジェットコースターが恐くない。
いや、恐いことは恐いのだが、落下の恐怖は所詮、安全性に裏打ちされた“スリル”でしかない。むろん事故の可能性がないわけじゃないけれど、万が一そうなったら、じたばたしたってはじまらない。
それゆえ、なおさら恐怖なのだ、と言う人もいるだろうが、私はむしろ、自分がそのジェットコースターの整備責任者の立場だったりした場合を想像すると、心臓の縮み上がる思いがする。

2014年11月 9日 (日)

ぐんまちゃん

1215488936_photo

「ゆるキャラグランプリ」で優勝したらしい。

かつて「ゆうまちゃん」というのもいたはず、と妻がいう。私は、そんなの聞いたことがなくて、調べてみたところ、下記の理由から、ゆうまちゃん=(2代目)ぐんまちゃん、であるという事実を知った。

「ぐんまちゃん」と「ゆうまちゃん」の違いは見た目だけではなく著作権。「ゆうまちゃん」は県庁の職員が描いたイラストをベースに制作されたために著作権フリー。
PRセンターの名称に「ぐんま」を入れたい、キャラクターは著作権料のかからない「ゆうまちゃん」にしたいという関係者の悩みの解決策が「二代目ぐんまちゃん」の襲名だった。
(高崎前橋経済新聞)

http://takasaki.keizai.biz/headline/470/

初代ぐんまちゃんは、もっと写実的に「馬」っぽい。
ていうか、大丈夫なのかな? その県庁職員。「ひこにゃん」みたいな訴訟騒ぎにならなきゃいいが。

2014年11月 8日 (土)

ホームセンター

最近、舞台装置づくりのため、ホームセンター通いが日課になってる。 なので、舞台美術家を主人公とした芝居が書けるのではないかと夢想してしまう。
美術家の男が小割をバラで4本購入しようとしたら、6本で結束されており、結束紐を切ってくれるよう、佐々木希似の店員に言う。
「手伝いましょうか?」
「大丈夫です」
店員は、材木を横にしようと一旦担ぎ上げるのだが、よろめいて床に尻餅をついてしまう。 スカートの裾がはだけ、太ももが露わになる…。
だが、現実の店員は、佐々木希になんかぜんぜん似てないおばちゃんで、私は、ベージュのシミーズから思わず目をそらしたのだった。

凶悪

先日、レンタルDVDで映画「凶悪」を見た。
とても面白かったのだけど、なんだか中学時代のことを思い出して暗い気持ちになってしまった。

自慢じゃないが中学時代、私は学力試験で上位10番から落ちたことがない。それもそのはず、全国平均より偏差値が10も低い、県下有数のバカ中学だからだ。
尾崎豊の歌みたいにしょっちゅう教室の窓が割られ、「スクールウォーズ」みたいに廊下をバイクが走りまわった。いつも不良グループが便所にたむろしてるので、休み時間に小便に行くのもままならない。自転車置き場じゃ理不尽なリンチが日常茶飯事。次に誰がその標的となるのか、法則性がまるでわからない。

ある日、体育の授業で教室をあけたら、私の財布が盗まれた。
担任の先生に被害を届け出ようとしたら、廊下で、クラスメイトが手招きした。
「××くんが呼んでる」
「俺を?」
××とは、不良グループの中でもトップクラスの「身分」の男だ。
クラスメイトは私を屋上に案内した。ああ、ついに私が「標的」となる番がやってきたのだ。××は幾人かのツカイッパをはべらせて、うんこ座りで待っていた。ぶっといズボンに妙に丈の短い学ラン。額には深いソリコミ。片手に煙草、片手に私の財布を持って。
「この財布、キミのでしょう?」
「あ」
「ホントは先に言わなきゃいけなかったんだけど、教室にいなかったもんだから。それで黙ってお金、借りちゃった」
「…」
「悪いけど、もうしばらく貸しといてくれないかなあ?」
甘えるような口調で言うのだった。
「で、いつ、返してくれんの?」
と聞き返すほど、私も空気の読めない男じゃない。一刻も早くその場から立ち去りたい。「わかった」と言って空の財布を受け取り、私は教室に戻った。

金は盗まれたのではない。貸したのだ!

こうして私は届け出るべき「被害」を失ったのである。
なるほど、悪党というものは、こういう巧妙なやり方をするのか、と子供心に感心したものだ。
むろん、その後、金が返されることはなかった。
そろそろ利子つけて返してくんねーかな?

2014年11月 6日 (木)

ちゃぶ台

拾いもののちゃぶ台に着色。
ちゃぶ台の購入に3000円の予算を計上していたので、その分を0円に修正。
この乞食的「節約」を、あと60回繰り返せば、やっと黒字予算となる。 宣伝美術はもとより、舞台美術、音響オペまで主宰自らやり、脚本料、演出料をともに0円で計上したうえで、だ。
これが小劇場の現実。どん引きだろ?
しかも予算はあくまで予算なので、実績がどう転ぶかは蓋を開けてみるまでわからない。チケットはほとんどが「当日精算」。その公演当日、台風なんかにこられた日には、キャンセル続出でもう完全にアウトだ。お天気は大事。
そうした諸々のリスクヘッジとして、多くの団体でチケットノルマという制度が採用されてきたわけ。ある意味「税金」と似てる。しかしプロデュース形式の公演が一般化し、俳優の流動化が進むと、この制度は成立しにくくなってくる。
つまり団体としての「共同幻想」が、ない。そういう状態で、「ノルマ」が成立するのは、素人が舞台に“立たせてもらう”ケースに限られてくる。
「ノルマ」の意味合いがリスクの共同分担ではなくて、「参加料」になってしまうのだ。 

10525623_655664547879452_6198989384


2014年11月 5日 (水)

古河講堂

観光客として、十数年ぶりに北大構内を歩いたら、古河講堂にすごい違和感があった。
屋根の色(とくに真ん中の塔みたいなのの根元)、こんなんだったっけ? 
古くなって修繕したのだろうけれど、だからって、なんでこんな統一感のないヘンな色に塗る必要があったんだろう? と思って調べてみたら、新築当時のオリジナルを再現して、今の感じになったらしい。
つまり、私が学生時代に慣れ親しんだものの方が「間違い」だったってわけ。
なんだ、この裏切られた感じ…。
 
422886_165614236884488_1489328962_n

2014年11月 4日 (火)

お役所仕事

来年度の芝居のことを考えつつ、いろいろ施設の調べ物などをしているのだが、使用料や使用条件をあらかじめ明確にせず、「ともに作り上げる」などの美名のもとに恣意的なルールの運用をしようとするとこは、まったく信用できない。
だって、すべては己の価値判断次第と宣言しているわけだから。
あらかじめ想定しておくべき事態を想定せず、そうした己の怠慢を「臨機応変」などと言い換える。そういう人間に限って、自分基準から外れた相手は「悪」の妄想で塗り固めるのだ。現にそれで痛い目に遭ったことがあるし、そんな人治主義なら、「お役所仕事」の方が100倍マシというものだ。


一般に「お役所」は手続きが煩雑で融通が利かないと批判の対象になりがちだが、ルールの恣意的運用を排除する仕組みとしては、理にかなっている。
ただしその煩雑さ、融通の利かなさが、自分に向けられたときには、私は腹を立てるけれども。だって人って多かれ少なかれ利己的な生き物じゃんか。

『リバース・エッジ』岡崎京子

402460_166212783491300_1000030773_5 地上げされたまま、手つかずの河原のヤブ。半ば忘れられたその土地で登場人物たちが遭遇する「死体」への、奇妙にズレたリアクションが、この作品全体を貫く世界観だ。
この「世界観」を、一旦了解した読者は、ちょっとイカレた登場人物たちの行動も、とりあえず違和感なく受け入れることができるだろう。

とはいえ、最後まで主人公に感情移入して物語を読み進められるとは限らない。
たとえば終盤のシーン、登場人物の一人・吉川こずえが、主人公・ハルナを横目に言う。
「行こ 山田君 アホはほっとこ」
まさに私の主人公に対する気持ちもそんな感じ。唐突に橋の上で涙されても、なんだかなーとシラケてしまう。
むしろ私は、山田君を慕い、文字通り恋に身を焦がす、田島カンナに共感してしまったよ。

2014年11月 3日 (月)

『どうしても嫌いな人 すーちゃんの決心』益田ミリ

ストーリーやエピソードだけを取り出せば、確かにどこかで一度は目にしたことのあるようなありきたりなものなのだが、チョイスされる平易な言葉と、比喩の構造化のセンスによって、凡庸なステレオタイプを免れている。
自分が作者と同世代ということもあるのかもしれないが、あーわかる、わかる、と面白く読んだ。

ところで内田樹による帯の文。
この人選に、どれだけ作者の意向が反映されているのかわからないが、とにかくセンスが悪い。

男って、バカでごめんね。
益田ミリさんの漫画を読んでいると、「男にはデリカシーがない」ということがひしひし伝わってきます。
男性一同になりかわりまして、お詫び申し上げます。

この恐ろしくユーモアセンスに乏しい、しかし書いてる本人にはまったくその自覚がないであろう、まさに「デリカシーのない」文章。何が〈男性一同になりかわりまして、お詫び申し上げます〉だ。お前個人のデリカシーのなさを男一般に敷衍すんなと言いたい。
ひょっとしたら、「どうしても嫌いな人」の典型として、この男が選ばれたのかも知れないな。

 

« 2014年10月 | トップページ | 2014年12月 »