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2014年10月

2014年10月31日 (金)

オンリーワン

若い頃には自分の「天才=オリジナリティ」を信じたいものだ。それが赦されるのが若さの特権だけれど、現実には、大半の人間は「天才」なんかじゃない。
アタリマエだ。大勢と比較して突出した才能こそが「天才」と呼ばれるのだから。

それでも、そうした実存主義的な信仰は根強い。
歌謡曲でも「ナンバーワンよりオンリーワン」などと歌われ、それが平気でヒットする。
けれど、需要があるのは実のところ、せいぜい類型からの「ズレ」の肯定だ。マジで「オンリーワン」を実現しようと思ったら、無数の他者に対する「私」の差別化が延々と繰り返されねばならず、その結果、「私」などというものはどこにもいないという結論に至らざるを得ないのだから。
むしろ「私」が消失してしまう。

2014年10月30日 (木)

分裂

戯曲を〈書く〉ということは二重の意味で〈私〉の分裂を引き受けることだ。つまり、ひとつは役の数だけ。もうひとつは、〈書く私〉と〈読む私〉に。
要するに、書きながらそれを読み、読みながら書くということ。読まずに書くなどということは、(自動筆記でもない限り)あり得ない。アタリマエと言えばアタリマエだが、分裂した両者の往復はなかなかシンドイ。常に〈読む私〉が〈書く私〉を導く。前者はときに傲慢なまでの辛辣さで後者を批評する。
自作を読む力は、他人の作品(それは戯曲に限らない)を読むことでしか養われない。なので、「読書」が必要なのだ。
わかっちゃいるのだけど、なかなか、ねえ…。

独りよがり

役の生理と役者の生理は分けて考えよ、というのが、演出家としての私の、ほとんど口癖になっている。
つまりこういうことだ。
「役」というものは演者の主観の外化などでは決してなく、常に観客との間主観的なものである。それが演劇である以上、構造的にそのようにしてしか「役」というものは存在しえない。演者が「何を思っているか」ではなくて、「何を思っているように、観客に、思われているか」が問題だ。その自覚のない者はしばしば己の生理が役のそれを阻害する。平たくいえば、独りよがりというやつだ。

2014年10月29日 (水)

安為

夢を見た。
初めての海外旅行で浮かれている妻が、空港職員の男に、こっぴどく叱られている。
空港ロビーで、妻は、しゅんとうつむいてしまった。
私が頭にきて、職員の男に詰め寄ると、男は小馬鹿にしたように、フンと鼻で笑った。それでもう、完全にブチギレて、私は男の胸ぐらをつかみ、拳を振り上げたのだけれど、殴れば自分の方が悪者になってしまう。
ぐっと怒りをこらえ、男の名札に目をやった。「安為」と書かれてある。
安為、安為、安為安為…。
反芻してその名を記憶に刻む。この男、いったいどうしてくれようか。
と、目が覚めて、私は溜息をついた。
なあんだ、どうせ夢なら、安為の野郎をぶん殴っておくんだった。

2014年10月28日 (火)

水まわりの工事

台所の蛇口が調子悪くて水道屋を呼んだのだが、部品の取り寄せに一週間かかるという。やれやれ。

最初、郵便受けに投入された磁石式シール記載の番号に電話しようかと思ったのだが、念のため検索をかけてみたら、業務停止命令を食らっている悪徳業者だと判明。あぶないあぶない。
何年か前にこんなことがあったのが思い出される。
マンションの管理会社から依頼を受けた「水まわりの工事」だと偽って、ヘンなリフォーム業者がやってきたのだった。もっともらしく作業服姿で、胸にはご丁寧に「社員証」なんか下げているのだが、会社名は読み取れない。読み取れないようにできているのだ。

今、キャンペーン中で、この近所で風呂の購入者を募っている。購入希望者は既にこのマンション内にも複数いる。まとめ買いすれば安く風呂の交換ができるので、お宅もひとつ、のらないか? 
「複数って、たとえば、誰よ?」
「はい?」
「購入希望者が複数いるんだろ? たとえば、誰よ?」
「それは…プライバシーに関することなので教えられませんよ」
「じゃあ、管理会社の名前は?」
「何ですか?」
「このマンションの管理会社の名前だよ。依頼されて来たんだろう?」
「そんなの、自分でご存知なんじゃないんですか?」
「ほらみろ、嘘じゃんか」
「嘘とは?」
「管理会社から依頼なんかされていない」
「されてますよ」
「嘘を言うなよ! 風呂のセールスじゃねえか」
「そうですよ」
「はあ? さっき『水まわりの工事』だって言っただろう?」
「だから、そういう意味で『水まわりの工事』って言ったんですけど?」
ざけんな! つって追い返したら、玄関ポーチに唾を吐いていきやがった!

2014年10月27日 (月)

受験

夢を見た。
私は高校三年生で、大学受験を目前に控えている。
なのにちっとも勉強してなくて、まずいまずいと焦っている。
私が受けようとしている大学は、去年、私が卒業した大学であるらしい。
入学できなかったらどうしよう、苦労してやっと卒業したのに、あの苦労が水の泡になる。

2014年10月26日 (日)

善人ごっこ

がんらい「情動」というものは刹那的なものではある。そのこと自体を私は否定も非難もしない。だが、「正義」に変換するならばスジを通せ。
ろくすっぽ考えることもなく、「世論」の上流からノリやすい「道徳」が流れてくればすぐに飛びつき、場当たり的に陳腐な「善」を貪るから、まるで論理に一貫性がないのだ。情動によって振り上げた拳を振り上げ続けることが自己目的化し、 肝心の論点は置き去りにされたまま。それでおのが素朴な「善人」性が担保されると思っている。
俗にいう「放射脳」の連中を見ればいい。彼らはいまだ放射能デマを振りまきつづけ、その口で風評被害を嘆いてみせる。
どんだけ自己批評性が欠如してるのか。
いや、むしろ情動に水を差す批評性を自ら掻き消さんがため、デモに下手くそなパンクバンドの演奏なぞを導入するのかも知れない。
端的にいって愚かである。こんな愚かな「善人ごっこ」が、飽きることなく繰り返されている。

観劇

夢を見た。
私が妻に隠れて恋人と芝居を観に行った。
当日券売り場にはすでに幾人かの客がたむろしていたけれど、みんな並んでいるんだか、いないんだか、判然としない。割り込んだと思われてもイヤなので、少し離れて様子を見ていたら、不意に見知らぬ男に肩を叩かれた。
「そこじゃありませんよ。入口は、あっちです」
男が指さすと、その方向に、みんな一斉に走り出した。
私の恋人もみんなと一緒に走って行った。
しかし私は走らなかった。もう間に合わないと判ってしまった。

2014年10月25日 (土)

虚構性

先の稽古中に叔父が他界した。
告別式は公演中だったから、私は出席していない。
たとえばこれが両親だったらどうか? あるいは妻だったら? 
どちらでも、私はやはり予定通り公演しただろう。
芝居をやる、というのは、そういうことだ。

ところで一般に年を取ると信心深くなるらしい。それは死を身近なものとして感じ始めるというのもあるのだろうけど、同時に生の「虚構性」が理解されるためではないか、と私は考える。
虚構となれば「物語」を与えずにはいられない。
現象を冷めた現実としてそのまま受け入れるなんて、人にはできっこない。必ず何らかの意味づけ=物語化がされるものだ。
「故人も喜んでいると思います」という喪主の挨拶に誰も根拠を求めない。そんなことしたって意味がない。

おしつけがましい

「まあ、これはあくまで自分個人の考えなんで、同意できなければ聞き流してくれて構わないのだけど」って、そんなの当たり前だ。いちいち言われないでもそうするわ。いったい何のエクスキューズだ? 
おそらく本人は「おしつけがましさ」を回避しているつもりなのだろうが、それこそ「おしつけがましくない自分」を相手におしつけてるのだということに気づけと言いたい。

2014年10月24日 (金)

平和を願う

そうした左翼による「平和を願う」系の催しは、演劇においても実に多いけれども、私の知る限り、そのほとんどが、いかにも戦後教育的な形骸をトレースしましたよ、という欺瞞満ちた通り一遍の物言いで、故意に「拉致問題」を避けている。本気で「平和を願う」のならば、絶対にここを避けては通れないはずだ。我々日本国民にとって、現に起こり、今も継続しているもっとも身近で切実なこの国家犯罪をなぜ語ろうとしないのか。それでなぜヌケヌケと「平和を願う」だなんて言えるのか。
まさか「平和」のためには同胞の犠牲は仕方がないとでも? 
いったい彼らにとって「平和」って何なのか。

自販機

夢を見た。
明け方、自動販売機でジュースを買おうと思ったのだが、お金がない。
通りには人目がない。
私は、そこらにあった紙切れを自販機に投入してみたのだが、案の定はじかれて戻ってきた。
そこで紙切れを半分の大きさにちぎって再度入れてみたところ、どうやら1万円札と認識されたらしく、釣り銭の100円玉がじゃんじゃん出てきた。
とても財布に収まりきらず困っていたら、いつのまにか日が高くなっており、私のまわりに人だかりができていた。
私は恐くなって釣り銭の返却口を手で塞ぐのだけれど、100円玉で押し返されてしまう。

2014年10月23日 (木)

ちっちゃい人

夢を見た。
深夜のマンションの共用廊下で何やら大きな足音がする。
「ちっちゃい人だわ」と妻が言う。
「あなた、ちょっと見てきて」
私が玄関のドアを開けると、隣の部屋で一人暮らししている美人女子大生がちょうど帰ってきたところだった。彼女は廊下で私に会釈して言った。
「今夜もまた、ちっちゃい人ですねえ」
「何なんですか、その、ちっちゃい人って?」
私が尋ねると、彼女が詳細な解説を始めたので、
「ちょっと待ってください」
私は一旦部屋の奥に行き、筆記用具を手にまた廊下に戻った。
すでに彼女の姿はなかった。
「解説」がまだ途中である。私は隣の部屋のチャイムを鳴らそうとして、手を止めた。こんな時間に、一人暮らしの女子大生を訪ねていって、誰かに見られたら、あらぬ疑いをかけられるのではなかろうか? 
いや、そういえば確かに、下心は、あったのである。
ドスドスと、ちっちゃい人の足音が続いている。

オープン・ウォーター

クリス・ケンティス監督作品。
シンプルな設定を存分に生かし、心理描写を丁寧に積み上げたリアルな会話劇。“実話に基づいた作品”というのがひとつのウリであったようだが、実のところ、そんなことはどーでもよろしい。「実話」だからリアル、なんてことにはならないのだ。

じきに助けが来るだろうと思っていれば、むやみに動くのは得策でない。その判断は間違ってはいない。だけどそもそも「前提」が間違っていた。その間違いに気づくには、この状況では、時間を費やすしかない。しかしその時間の浪費が、残されていたもう一つの選択肢を取り返しのつかない距離に遠ざけてしまう。
このジレンマ!
不幸中の幸いと思えたのは、男がその最期を女に看取られたことか。
ともかく私は絶対にダイビングはしないと決めた。

ちなみに『オープン・ウォーター2』はこの作品とは全く関係のない駄作。

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2014年10月21日 (火)

警察白書 平成25年

第5章 公安の維持と災害対策

http://www.npa.go.jp/hakusyo/h25/pdf/pdf/10_dai5syo.pdf

地表付近の月は、やたらデカく見える。これは月の周りに民家や林など比較対象物があるために、そう見えるだけなのだ。と、小学生のとき教わった気がするが、しかし天頂付近の月を、ビルや民家の屋根や木の枝をナメて見あげても、つまり視界に故意に比較対象物を置いて見ても、月は大きくは見えない。
どういうことか? 
さらにいえば、たとえば朝方か夕方のやや明るい空に、うっすらかかる月の近くに飛行機が通りかかったら、月は飛行機との比較で膨張し、飛行機が去ったらまた収縮する、かといえば、そういう事実もない。

 

ほんとうのことを知りたいだけ

佐野元春の「ガラスのジェネレーション」。若い頃、ずいぶん感化されたし、歌詞にイチャモンつけるとか野暮なことするつもりもないのだけど、「ほんとうのこと」って、それを隠蔽する誰かの手を取り除きさえすれば、あらかじめそこにひとつだけ確固として「ある」ような、そんな単純なもんじゃないんだよね。
「知りたい」というなら学びなさいよ、と思うことしばしば。学びもせずに、やれ「説明責任」だなんだとほざいてんじゃない。無責任なやつに限って軽々に「責任」などという言葉を口にしたがるものだ。相手の責任を追及することで、己の怠惰が免責されると思ったら大間違いだ。

2014年10月20日 (月)

押し入れ

押し入れを開けたら「海」だったり「宇宙」だったりするのは、今となってはべつに難しいことじゃない。アングラの偉大なる先人たちの亜流となればいいのだから。
それより押し入れを開けたら、やはり布団や枕が入ってるという、その「当たり前」をまず引き受けて、その先に芝居がどこへ辿り着くのか。それを模索するのが現代演劇に携わる劇作家の課題なんだと思ってきたし、今も思ってる。

『ポスト・モダンの左旋回』仲正昌樹

現代の「マニフェスト」を掲げている(元)ポスト・モダニストたちの多くは「政治」に焦りすぎて、「差異」の中に忍び込んでくる「反復」という極めてポスト・モダン的な問題を忘却しているのではないかと思えてしまう。「マニフェスト」を掲げることは、デリダが言うように、自ら進んで「亡霊」に取り憑かれることを意味するはずだが、彼らはそれをどれだけ自覚しているのか?(中略)いったん「ポスト・モダン」「脱構築」「差延」「コミュニケーション不可能性」を通過したはずの「彼ら」には、単に「マニフェスト」をカッコ良く掲げるだけではなく、自分たちがやっていることが、これまで旧左翼がやっていたこととどう違うのか、はっきりと「差異化」させて説明する「応答責任」があるはずだ。この「責任」は極めて重い。

「運動」というのは、自らの「理想」とする社会のイメージと、「現実」の社会の間に差異を感じる諸個人の「連帯」としてその都度、立ち上がってくるはずのものであって、そこから特定の「集合主体」に特化した、“われわれの運動”なるものが出てくるというのは(非弁証法的な)“矛盾”である。「われわれの運動」という言説への執着は、これまでの左翼の歴史が証明してきたように、ほぼ間違いなくセクト主義を生む。何故、「私の運動」と言わないのか?

この10年くらい、漠然と、しかし確かに感じていた同世代人に対する違和感=閉塞感が、古本屋で私にこのタイトルの本を手に取らせたのだった。つまりニューアカ直撃世代でありながら、フランス現代思想などハナからなかったみたいに、マルクス主義的というか、旧態依然とした左翼的言説に簡単に靡いてしまう。この単細胞ぶりはいったいどうしたことか?
本書の初版が2004年。2009年に第2刷。私と同じようなことを感じている人が他にも多くいたのだな。

 

時代考証

時代劇において、たとえば戦国武将がしばしば近代的な自我に基づく〈内面告白〉をしちゃったりするわけだが、たとえエンタメとはいえ、「時代考証」というのなら、衣装や建物、言葉遣いなどの表層的意匠の再現にとどまらず、その時代に生きた人間の価値観こそ慎重に考慮されるべきだろう。そのことが時代を相対化し、翻って、現代への批評にもなるのだし

『演劇のことば』平田オリザ

私が大学で芝居をはじめたとき、演劇サークル内に「舞台監督」なんていなく て、「何それ、演出家と何が違うの?」ってなもんだった。
無理もない。本書によれば、築地小劇場以前には「演出家」の役割もその呼称も定着しておらず、舞台を仕切る者はやはり「舞台監督」と呼ばれていたのだという。
「築地」ができたのが1924年。私が演劇サークルに足を踏み入れたのが1988年。その差、64年。たった64年だ。日本の演劇はまだまだ若い。

 

2014年10月19日 (日)

中腰

ああでもない、こうでもない、と自己相対化を繰り返し、いわば「中腰」の状態で逡巡を重ねるのは確かにシンドイものだ。優柔不断の誹りも受けるし、ときに離人症気味にもなるし。
いっそ「座る」か「立つ」かすっきり態度を決めてしまえば、健康的で、楽になるには違いない。有用性の裏書きでもあればなお、自己正当化もしやすかろう。
だが私は決してそうしたくない。
それは「思考停止」ということに他ならず、停止した思考は、たちまち陳腐な情緒の渦に飲み込まれてしまうからだ。
結果、手垢まみれの図式に沿った通俗的な言説を「自分の言葉」として吐くことになる。そんな言葉で綴られた戯曲にテクストとしての価値はない。
つまり、自己相対化の視点を欠いた人間に芝居を書く資格などないのだ。

2014年10月18日 (土)

表現の自由

演劇に携わるものだからといって、「国はもっと演劇に助成すべきだ」的な、居酒屋政談レベルの軽薄な言説に私が無条件で賛同すると思っているなら、ずいぶんナメられたものだなと思う。どこぞの単細胞どもと一緒にしないでもらいたい。
そもそも演劇みたいなものに国家がどこまで「関与」すべきか?
たとえば火や水をふんだんに使用するアングラ系のテント芝居なんかじゃ、〈公演場所がない〉などというのは昔からよくある話。それを〈国家権力によって表現の場が奪われた〉という構図のイシューにしたがる(それでハクがつく?)わけだが、なんてことはない、多くの場合、単に近隣住民の苦情に行政が対応したまでのことだ。
それとも「芸術」のためには住民の言葉を封殺せよというのだろうか? 表現の自由が聞いて呆れる。

2014年10月17日 (金)

酒の席のことだから

「酒の席のことだから」は私には通用しない。残念ながら私はそんなに心が広くない。酔って口にした言葉がその人の「本音」だなどとは思っていない。そうではなくて、「酒の席のことだから」で済むと思ってる、その性根が気に入らないのだ。

クロノスタシス

『クロノスタシス(英:Chronostasis)は、サッカードと呼ばれる速い眼球運動の直後に目にした最初の映像が、長く続いて見えるという錯覚である。
  名前はギリシア語の「クロノス」(時間、χρόνος)と「スタシス」(持続、στάσις)に由来する。クロノスタシスのよく知られる例として「時計が止まって見える錯覚」がある。アナログ時計に目を向けると、秒針の動きが示す最初の1秒間がその次の1秒間より長く見えるというものである。
  眼球がサッカード運動をするとき、時間の認識は僅かに後に伸びる。そして観察者の脳は、実際よりもわずかに長い間時計を見ていたと認識し、秒針が1秒間以上固まっていたという錯覚を生む。実は、見ている方向がある点から次の点へ移動するたびにこの現象が起きているのだが、われわれがそれに気付くことはほとんどない。説明の一つは、見る方向が移動する際の時間の隙間を脳が埋めているというものである。
実験によると、おそらく、サッカードがあるにも関わらず脳が連続した意識体験を構築しようとすることで、この錯覚は引き起こされる。この現象はあらゆる眼球運...
動によって生じるが、何か時間を計れるものがある場合に顕著になる。
クロノスタシスは、視覚的な観察でしか起こらないわけではなく、聴覚刺激でも認識される。』(wikipedia)

きのこ帝国『クロノスタシス』

ゴミ

月曜、木曜は普通ゴミの日。
劇場から持ち帰ったゴミがようやく捨てられ、少しすっきり。
劇場で配布したものの、観客に持ち帰られなかったチラシ束も、結構な数。
「折り込み」って意味あんのかなあ、と思ってしまう。「意味」というのはコストパフォーマンスのこと。
まあ、一瞬でも目にすることが重要なのか。

2014年10月15日 (水)

『絶対安全剃刀』高野文子

『うしろあたま』の、髪形を「かわいい」と誉められてキレる、“めんどくさい女”の心理は、あー、わかるわかる、と膝を叩いたのだけれど、きっとこんな共感にも、「男のあんたに何がわかるっていうの?」って、彼女は眉をひそめるのだろうな。
『1+1+1=0』の、「キスはぼくのひとつっきりしかないわけじゃないんだもんね」という少年の“悟り”は、目から鱗。
そして有名な、少女となったおばあちゃんの『田辺のつる』。
ほか、珠玉の全17作品。

知性

「正義」というものは常に相対的なものだ。そんなことはガキでも知っている。
浅薄な「社会派」の劇作家は、しかし、いい年こいてその程度の知性すらないらしい。いったい何と闘っているつもりなのか、誰がどう見たってイデオロギッシュなバイアスのかかったデマブログなんぞをソースに、くだらん陰謀論を吹聴する。
バカが自己陶酔するのは勝手だが、彼らの発するノイズのせいで、「事実」に対する
まっとうな知見が掻き消されるのが腹が立つ。

自己相対化

仮にも作家を自称する者が、徒党を組んでおのが「正義」を主張することに違和感を覚えなくなったなら、自己相対化の能力が欠如しているということだから、さっさと筆を置いて活動家にでもなった方がいい。

電話営業

リフォーム会社から屋根修繕の電話営業。
そうとわかったのは、しばらくしてからで、一方的にしゃべる相手を私が遮って、「うち、マンションなんですけど」。
すると相手はチッと舌打ちし、「早く言えよ」と捨て台詞を吐いて電話を切った。
どんなバカ会社かと、電話番号をネットで検索してみたが、そんな番号、ヒットしない。

2014年10月 9日 (木)

フツー

外出先で爪を切る。場所は公衆便所の脇。用を足して手を洗い、ああ、爪が伸びてるなと、鞄から爪切りを取り出す。
たとえばこういうシーンをリアリズムの文体で描いたとき、読者=観客はどう思うか。なぜ鞄に爪切りが入ってんの? おそらくそういう疑問を持つ。下手すりゃ、ご都合主義と見なされる。
けれど、これ、モデルは私自身で、普段から鞄の中に爪切りを入れて持ち歩いてるのだ。これが私にとっての「フツー」なのである。しかしそんな「事実」は、虚構内においてそれをフツーとして描く根拠になどなりはしないのだ。

2014年10月 6日 (月)

自己肯定

「かつて自分は、世の中、金がすべてだと思っていた」という“正直”な告白。これに続くのは、「しかし今は―」と、通念的に“間違った”過去を全否定する形での、「善」の上書きだ。こんなパターンは誰にだって想像がつく。そんな陳腐な自己肯定の物語に他者が共感し、あわよくば感動すらすると思っているなら、あまりにも創作というものをナメすぎている。

独善

「正義」が成立するためには相対する「悪」が要る。
翻っていえば、誰かを悪者にすることでしか、原則的に「正義」というものは成立しない。このあぶなっかしさに無自覚な者だけが、おのが主観を根拠に「正義」を声高に主張しうる。
これを一般に「独善」とよぶのである。

2014年10月 5日 (日)

就職できない若者

私が会社員をしていた頃は、いわゆるバブルの末期で、ファストフードのアルバイト店員の月収が上場企業の新入社員のそれを上回るなんてことがザラにあった。
そういう時代を背景に、労働力の流動性を促す言説はそれなりの説得力を持っていた。「終身雇用などもう古い。フリーターこそが新しい働き方だ」などという言われ方をしたものだ。

しかしその後の長い不況により、バブル時とはべつの文脈で、終身雇用の「幻想」は崩れた。

そもそも「新卒主義」は「終身雇用」とセットとしてあったのだろう。にもかかわらず、前者だけが形骸化して今も残っている。あたかもこの社会にアプリオリなものであるかのような顔をして。私にはそう見える。

「就職できない若者」問題は、こうした制度的、構造的なものである。ここを論じることなしに、いくら共産党的正義感=センチメンタルなマルクス主義を強調し、俗情との結託を図ったところで、問題は何も解決することはない。

現国

自作の戯曲が「作者の言いたいこと」みたいな解釈に矮小化され、モラルによって回収されるのは、当の作家にとっては苦々しい気がするものだ。そういう風潮は、中学高校あたりの国語教育に根ざすものと思われ、それでついつい「現国」批判に走ってしまいがちなのだけれども、そんな批判も、一定程度の「現国」的素養を持つ者にしか決して理解されないのだ。この逆説。
服を脱ごうと思えば前提として服を着ていなけりゃならない。そういうことだ。

2014年10月 3日 (金)

想像力

たとえば「犯罪者」を理解不能なものとして切り捨てて見せることで、己の“常識人”ぶりをアピールするのでなしに、むしろ自分がそうなる可能性に思いを馳せること。
それこそがモノをつくる人間の「想像力」ってもんだろう。

技術/本質

演技にしろ作劇にしろ、その技術的向上を目指すことと、本質を掘り下げることは、べつにトレードオフの関係にはない。どっちか一方を取らなきゃならないって話じゃない。むしろ前者は後者の結果。事後的にくっついてくるものだ。
表現の表層的な綾づけ=手癖を「技術」と見なす嫌いが、一般にあるけれど、実のところそんなもん、技術のうちにも入りゃしないのだ。

心得

読むように書き、書くように読む。
書き手の心得として昔からよく言われることだけれど、「読む」を「見る」、「書く」を「演じる」に置き換えれば、演者の心得になる。役者は舞台を見るように演じ、演じるように見る必要がある。
つまりこれが自己批評性というやつだ。

2014年10月 2日 (木)

観客が見ているからだよ

たとえばAというシーンがあり、それと一見関係のないBというシーンが続けて演じられる。仮にこれが交互に繰り返されるなら、いずれシーンAとシーンBとは何らかの繋がりを持つ。というか、持たねばならない。
なぜか?
観客が見ているからだよ。
AとBとの関係性がどのように解き明かされるのか、観客は予測(期待)しないではいられない。作劇とは、そうした「予測(期待)」を踏まえてテクストを構造化する行為なのだ。観客による「発見」が介在するよう、企てられているのである。書き手が用意したプロットを、誤解のないよう“伝達”すりゃいいってもんじゃないのだ。

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