現代の「マニフェスト」を掲げている(元)ポスト・モダニストたちの多くは「政治」に焦りすぎて、「差異」の中に忍び込んでくる「反復」という極めてポスト・モダン的な問題を忘却しているのではないかと思えてしまう。「マニフェスト」を掲げることは、デリダが言うように、自ら進んで「亡霊」に取り憑かれることを意味するはずだが、彼らはそれをどれだけ自覚しているのか?(中略)いったん「ポスト・モダン」「脱構築」「差延」「コミュニケーション不可能性」を通過したはずの「彼ら」には、単に「マニフェスト」をカッコ良く掲げるだけではなく、自分たちがやっていることが、これまで旧左翼がやっていたこととどう違うのか、はっきりと「差異化」させて説明する「応答責任」があるはずだ。この「責任」は極めて重い。
「運動」というのは、自らの「理想」とする社会のイメージと、「現実」の社会の間に差異を感じる諸個人の「連帯」としてその都度、立ち上がってくるはずのものであって、そこから特定の「集合主体」に特化した、“われわれの運動”なるものが出てくるというのは(非弁証法的な)“矛盾”である。「われわれの運動」という言説への執着は、これまでの左翼の歴史が証明してきたように、ほぼ間違いなくセクト主義を生む。何故、「私の運動」と言わないのか?
この10年くらい、漠然と、しかし確かに感じていた同世代人に対する違和感=閉塞感が、古本屋で私にこのタイトルの本を手に取らせたのだった。つまりニューアカ直撃世代でありながら、フランス現代思想などハナからなかったみたいに、マルクス主義的というか、旧態依然とした左翼的言説に簡単に靡いてしまう。この単細胞ぶりはいったいどうしたことか?
本書の初版が2004年。2009年に第2刷。私と同じようなことを感じている人が他にも多くいたのだな。
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