パターン
30歳の時、私は「温室の花」という戯曲を書いた。
劇中、登場人物の一人が、およそ次のようなことをつぶやく。
「おまえは橋の下で拾った子なのだ」という、よくある親の悪い冗談に、茫漠とした不安と寂しさを覚えた。「血縁」などという概念すら持たぬ子供であったのに、なぜ、そんな気持ちになったのだろう?
その答を、私は十数年後に児童劇の現場で得たように思う。
幼児の観客にいちばん驚かされたのは、たとえばオオカミが「悪」のアイコンであることを、劇中でさしたる説明がなくとも、即座に察知することだ。
それは俗にいう、子供の「純粋さ」や「感受性の豊かさ」による「直感」などというものでは決して、ない。
では、いかなる理由によるものか?
子供は子供なりに「期待の地平」(H・R・ヤウス)を、すでに持っているということだ。つまり、物語のパターンやキャラクターの造形がこの場で意味するところを、熟知している。
考えてみれば、そりゃそうなのだ。彼らは日頃、絵本やゲームや観劇を通じて、我々オトナより、遥かに多くの子供向けの物語に慣れ親しんでいるのだから。
そのことを、つい我々は忘れてしまう。
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